天国に入るには

16. 3月, 2014 • 0 Comments

大斎節第二主日(A年)説教
ヨハネ3:1-17

_jesus-nicodemus先週は、旧約の民が荒野で受けた三つの試練を理解の助けとして、新約の民の頭としてイエスさまが荒野でお受けになった三つの試練とは何であったのかを考えました。

その三つの試練とは、神が霊肉を養ってくださることに信頼して生きることができるか、神が共にいてくださることに信頼して生きることができるか、ただ神のみを主として信頼して生きることができるか、ということでした。

人は、奴隷の身分から贖い出され、神が約束された新しい命に生きることを決断して葦の海を渡ってもなお、人とモノの奴隷として形作られた在り方から心も体も自由ではありません。エジプトから出ればすぐに約束の地で自由な身分の者として新しい生活に入ることできるわけではなく、荒野での40年を通して主の導きによって清められ、新たにされた者だけが約束の地に入ることができるのです。

限りない命への望みを与えられ、恐れと惑いをしずめて神さまに自らを委ね、水による洗礼を受けて古い在り方を捨て、さらにまた、古い在り方に戻らないための戒め、律法を与えられても、それで神の国にふさわしい者になれるわけではありません。

旧約聖書は、この点で、楽観的な見方を許しません。モーセが死ぬ日が近づいたとき、神はモーセに言われました。

「あなたは間もなく先祖と共に眠る。するとこの民は直ちに、入って行く土地で、その中の外国の神々を求めて姦淫を行い、わたしを捨てて、わたしが民と結んだ契約を破るであろう。その日、この民に対してわたしの怒りは燃え、わたしは彼らを捨て、わたしの顔を隠す。民は焼き尽くされることになり、多くの災いと苦難に襲われる。その日民は、『これらの災いに襲われるのは、わたしのうちに神がおられないからではないか』と言う。わたしはそれでも、その日、必ずわたしの顔を隠す。彼らが他の神々に向かうことにより行ったすべての悪のゆえである。あなたたちは今、次の歌を書き留め、イスラエルの人々に教え、それを彼らの口に置き、この歌をイスラエルの人々に対するわたしの証言としなさい。わたしがその先祖に誓った乳と蜜の流れる土地に彼を導き入れるとき、彼は食べて満ち足り、肥え太り、他の神々に向かい、これに仕え、わたしを侮ってわたしの契約を破るであろう。そして多くの災いと苦難に襲われるとき、この歌は、その子孫が忘れずに唱え続けることにより、民に対する証言となるであろう。わたしは、わたしが誓った土地へ彼らを導き入れる前から、既に彼らが今日、思い図っていることを知っていたのである。」

太平洋戦争とその前後の困難な時代の中で、あるいは東日本大震災と原発事故の衝撃に揺さぶられた日々の中で、古い在り方を断念し、新しい在り方への希望を抱いたにも関わらず、食べて満ち足りるようになった途端にそれを忘れてしまった、ということはないでしょうか。エジプトを脱した民が、荒野で「何故私たちをエジプトから連れ出したのか」とモーセを罵り、奴隷として生きていたエジプトの日々を懐かしんだように、日本人は今、東日本大震災以前の日々、太平洋戦争以前の日々に戻りたがってはいないでしょうか。

このような出エジプトの民に、あるいは現代日本に生きる私たちに、神はあらかじめ警告を与えておられました。「その日、この民に対してわたしの怒りは燃え、わたしは彼らを捨て、わたしの顔を隠す。民は焼き尽くされることになり、多くの災いと苦難に襲われる。その日民は、『これらの災いに襲われるのは、わたしのうちに神がおられないからではないか』と言う」と。

週報裏面のコラムで、ユダヤ教のラビで哲学者であるヤーコプ・タウベスが、パウロが課題としたのはまさにこのことに他ならないと論じて、パウロを捉え直すきっかけを与えたことをご紹介しました。パウロは、個人的、内面的な回心と信仰によってのみ神に受け入れられる者になると主張した、と理解されがちです。タウベスは、そうではない、パウロは、神の怒りによって民が絶滅させられるという危機感の中で、イエス・キリストの十字架における死と復活を基礎とした新しい神の民の創設を課題として働いたのだ、と論じたのです。

本日の福音書もまた、このことを主題としています。人はどうしたら神の国を見ることができるのか、神の国にふさわしい民になることができるのか、という問題です。

ヨハネ福音書の6章には、イエスさまがあることをお教えになった時、弟子たちの多くがそれを聞いて「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」と呟き、離れ去って、もはやイエスさまと共に歩まなくなった、というエピソードが記されています。

イエスさまと出合い、イエスさまの教えと業に神の力が働いているのを見て、新しい在り方への希望を抱き、古い在り方を断念して水による洗礼を受け、ずっと従ってきた弟子たち。その多くが、イエスさまのある言葉を聞いて離れ去った、というのです。

ニコデモも、同じ問題で躓いています。そのニコデモに対して、イエスさまはどうお教えになったでしょうか。

ニコデモは、ファリサイ派に属する人で、ユダヤ人の長老でした。そのニコデモが、ある夜、イエスさまのもとに来ました。夜、やってきた、というのは、どういうことでしょうか。イエスさまを快く思わないユダヤの他の長老たちや民衆の目を忍んで、ということでしょうか。あるいは、ユダヤ教で夜はみ言葉を学ぶ時間とされていたからでしょうか。または、ニコデモの心が闇に覆われていたことを象徴させているのでしょうか。この時代が闇に覆われていたことを象徴しているのでしょうか。おそらく、福音書記者ヨハネは、これらの意味をすべて重ねて、「夜、やってきた」と書いていると思われます。ヨハネ福音書は、しばしば意図的に言葉の意味の重層性を駆使して書かれているからです。

ヨハネ福音書では、他に2回、出来事の時間として「夜」という言葉が使われています。13章30節、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」サタンがユダに入って、ユダが裏切りを決意した場面です。ニコデモが夜にやってきたという記述は、この夜を予感させます。もう1回は21章で、イエスさまが十字架で処刑され、弟子たちがガリラヤに戻って元の生活に帰っていた時のこと、シモン・ペトロと仲間たちが湖に漁に出たが、その「夜」は何もとれませんでした。岸に戻ると、そこには復活されたイエスさまがおられました。その時、既に「夜」は明けていた、とあります。弟子たちはその見知らぬ人の言うとおりに網をおろしたところ、網がはち切れるほどに魚が捕れて、その人がイエスさまだと分かり、ペトロは神から離れていた自分のありのままの姿に気づきます。このように、ヨハネ福音書では「夜」という言葉は、神から隔てられて生きている時間を象徴する言葉として使われているのです。

さて、そのような意味における<夜>の闇の中にあって輝く光を、ニコデモは見出してやってきました。ニコデモは言います。「わたしどもは知っています。あなたが神のもとから来られた教師であることを」と。

ニコデモは、「知っています」と言いました。その後、ニコデモは、2回重ねて、「どうしてそんなことがあるでしょうか」と言い募ります。「どうしてそんなことがあるでしょうか」という言葉は、「分かりません」という言葉とは違います。自分が何らかの理解、確信を持っていて、相手が言うことを受け入れられない時に出てくる言葉です。ニコデモは、自分が持っている理解、確信に躓いて、イエスさまと出会い、イエスさまにいのちのみ言葉を与えられながらも、その言葉に生かされるものになれないでいるのです。

では、イエスさまは、ニコデモに何と言われたでしょうか。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。これは、今年の大斎節の主題聖句ですね。

「新たに」と訳されているアノーセンという言葉の元々の意味は「上から」という意味で、それが転じて、「新たに」とか「再び」という意味でも使われます。ヨハネ福音書では、「上から」「新たに」「再び」という全ての意味において、この言葉は使われています。「ボーンアゲイン・クリスチャン」という言葉をお聞きになったことがあるかと思いますが、それはこの言葉に由来しています。ただし、その言葉の使われ方では、<個人的な回心の体験>の次元に理解が単純化されていて、「上から」という意味合いが示す<神から、聖霊によって>という次元、あるいは「新たに」という意味合いと関わる<神の民の創造>という共同体の次元が、欠落しているように思われます。

イエスさまがおっしゃったことの意味を取りかねたニコデモは、ユーモアをもって尋ね返しました。もう一度、母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか、と。その前の、「年を取った者が、どうして生まれることができるでしょうか」という言葉に、ニコデモの心情が表れていると思います。若者であれば、これからあなたに従って歩み、あなたから学んで、変わることもできるでしょう。でも、私はもう年をとっています。社会的な立場もあります。その私に、変われ、というのですか、変わらなければ神の国には入れない、というのですか?と。

問い返したニコデモに、イエスさまは言葉を変えてお教えになりました。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」

「水」という言葉は、もしかしたら、母の胎内に戻って生まれ直すことができるでしょうか、というニコデモの言葉にひっかけて言われた面もあるかもしれません。人間は、胎内で羊水の中にいて、そこから生まれてくるわけですから。直接的には<洗礼>が意味されていると思いますが、<洗礼>という儀式自体に「流れる水=神からの水」を羊水として生まれ直す、新たに生を受ける、という意味合いがあるわけです。さらに、その洗礼は、出エジプトの葦の海を渡った出来事とも重ねて、その意味が理解されます。<水によって生まれる>ということは、こうした重層的な意味における<肉=社会的、個人的な生活、生き方のありよう>の洗い、再生、誕生ということでしょう。

しかし、それだけでは神の国に入ることはできない、とイエスさまは言われます。<霊によって生まれる>ことが必要だと言われるのです。

また問い返したニコデモに、イエスさまは言われました。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

これは、共観福音書では、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」という受難予告の形で言われていることですね。

ヨハネ福音書では、ここでも、言葉の意味の重層性によって分かったつもりになっている者の理解を揺さぶりつつ、イエスさまが<上げられる>ということについて、そこで生起する新しいことについての理解を備え、<霊によって生まれる>とはどういうことかを示しています。

この先で、イエスさまは、さらに核心に迫る言葉で言い換えて、このことをお教えになります。

「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(6:53-54)

これを聞いて、弟子たちの多くが離れ去ったのでした。

年を取り、社会的な立場のある私には無理です、というニコデモの思いが示す<肉>の新生への諦め、さらには、様々に言葉を換えて教えられる十字架に架けられて死ぬキリストへの信仰による<霊>の新生が理解できないという諦めは、誰もが経験することではないでしょうか。人間の力に頼む心がある限りは、そこから先に進むことはできません。しかし、無理としか思えなくても、そこで心を開いてイエスさまの言葉をうけいれ、その言葉によって自らが形作られていく、無垢なる生成の道を歩むならば、わたしたちは神の国を見ることができるのです。

最後に、山浦玄嗣さんの訳で、イエスさまの言葉をもう一度お読みします。

「そなたにはキッチリシッカリ言っておく。お水を潜ってこれまでの生き方に死んだその上で、神さまの息吹の中に生まれねば、神さまのお取り仕切りには加われない。親の体から生まれたのはこの体。神さまの息が風となり、吹き寄せて生まれたのはこの思い。神さまの力でいま一度、生まれねばならぬと言ったからとて、何も不思議なことではないさ。神さまの息は、その胸の思いを乗せて風となり、思いのままに吹いてくる。そうしてそなたはその声を聞く。だけれども、そ吹く思いのその風が何処から吹いてきて、何処に向かっているものか、そなたが分かっていないのだ。いいかね、あの風の生み出す思いは、すべてこうしてなるものだ。」

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