断食について

10. 3月, 2014 • 0 Comments

※ 2014年度 長坂聖マリヤ教会 大斎節講話資料

◆ 聖公会の暦を見ると、「斎日」「断食日」と書かれている日があります。聖公会では、信者の「義務」とされているわけではありませんが、信仰生活に有益な伝統として、節制と断食が勧められています。その具体的な守り方については、カトリック教会に準じた内容で勧められていることが多いと思われます。

・「斎日」(節制する日)は、毎週金曜日、および紫の季節(大斎節、降臨節)の週日
・「断食日」は、大斎始日(灰の水曜日)、および受苦日(聖金曜日)

◆ カトリック教会は、現在、次のように定めています。

・<小斎(節制)>は、伝統的には鳥獣の肉を食べないことで、各自の判断で回心の他の形(愛の行い、祈り、さまざまな節制)をもって代えることができます。満14歳以上の信者がこれを守ります。
・<大斎(断食)>」は、1日のうち十分な食事をとるのを1回だけにし、他にもう1回、少しの食事を摂ることができます。満18〜59歳の信者がこれを守ります。

いずれも、病気などの特別な理由のある人は守らなくてよいことになっています。

◆ 節制・断食の歴史

<断食>は、旧約の時代には、モーセを通して与えられた掟として年に1回の贖罪の日に行われた他(レビ16:29-34, 23:27-32)、その時々の為政者が定めた国家的祭祀制度としての断食日がありました(代下20:3, エレ36:9, ゼカ7:5)。しばしば断食の際は、灰や土を体に振りかけて行う、ひたすら地面にうつぶしたまま、灰の中に座ったままの姿勢を取る、衣を裂き、粗布を身にまとう、ということも行われました。預言者は、しばしば断食という行為の在りようを厳しく批判しました(イザ58:1-14, ゼカ7:1-14)。

捕囚時代以後は、個人の信仰生活の中に取り入れられ(ルカ2:37)、ファリサイ派やエッセネ派、洗礼者ヨハネの共同体で重視されていました(マタ9:14)。

イエスさまも、ご自身、しばしば断食されました(荒れ野での40日の断食、折毎に人里離れた場所に退いて祈られたこと)。また、断食をする際の戒めを与え(マタ6:16-18)、ファリサイ派の人々が行う断食を厳しく批判されました。

なお、共にいた弟子たちが断食をせず(マタ9:14-17, マコ2:18-22)、イエスさまが「大食漢で大酒飲みだ」と非難されていた、ということが福音書に記されています。

初期ユダヤ教(イエスさまの時代にユダヤで行われていた宗教)では月曜日、木曜日が<節制>を守る日として定められていました。初代教会は水曜日、金曜日を<節制>の日と定めました(※ 1c後半~2c前半に書かれた『十二使徒の教訓』で確認される)。これは、初期ユダヤ教から自分たちを引き離すこともひとつの動機になっていたと思われますが、水曜日=ユダの裏切りの日、金曜日=主の受難の日を覚えるため、と位置づけ、日曜日(週の第1日にして第8日)を主の復活を覚える日としたことと共に行われた<時の聖化>の一環であったと考えられます。東方正教会では、現在も水曜日と金曜日が<小斎>の日となっています。

また、宣教旅行への派遣、教役者の按手等の前に、<断食>が行われました(使13:3、14:23)。

古代教会では、復活日前の40日間が、洗礼志願者の準備期間、大罪を犯した者が交わりを回復するための改悛期間として位置づけられ、<節制>が守られました。それを、当人だけでなく、共同体全体が共にするようになって、教会全体の節制期間(=大斎節)に発展しました。

西欧の修道制度の基礎となった『聖ベネディクトの戒律』(6c)には、完全に飲食を断つ断食の定めはありません。普段の食事は正午と午後3時あるいは日暮前の2回が基本ですが、ルカ21:34に基づき分量についての配慮が指示されています(『食べ過ぎて心が鈍ることがないように注意しなさい』)。断食・節制については、食事の時間についての戒律で次のように指示されています:聖霊降臨後の季節の水曜日と金曜日は、「畑の仕事がなく、あるいは夏の酷暑に悩まされることがない限り」、午後3時まで断食。9月13日から大斎節の始めまでは、午後3時に1回だけ食事。大斎節には、日暮前に1回食事。

◆ 断食の理解

預言者たちも、イエスさまも、しばしば断食を、偽りの敬虔として批判しました。それを根拠に、断食は意味がないことと考える向きがあります。さらに洗礼者ヨハネの弟子に対する「花婿が一緒にいる間…」という言葉から(マタ9:14-17)、復活の主が世の終わりまでいつも共にいてくださる(マタ28:20)私たちに断食はふさわしくないという主張もあります(同じ箇所に基づいて、十字架における死以後は再びイエスの弟子も断食をするのだ、という理解もあります)。しかし、イエスさまご自身が断食をされたこと、初代教会で行われていたこともまた聖書に明らかです。そこで断食の理解には以下のポイントを押さえることが必要であると思います。

1)断食をすることも、しないことも、信仰者としての忠実さ、敬虔さの基準にはならない。「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」(ロマ14:6)

2)断食を、内面的な謙遜として捉えてすませることも、外面的な行為として捉えてすませることも、いずれも偽りの敬虔である。

3)断食自体は善いことでも悪いことでもなく、それがみ心に適うかどうかは、目的次第である。断食することも、酒食を楽しむことと同じく、それ自体が目的になるならば、肉を「楽しませる」ことに他ならない。断食が、自分のために、神からの評価、人からの評価を求めて行われるならば、それは憎まれるべき偽りの敬虔である。

4)断食は、肉を霊に従わせるために行われる(Ⅰコリ9:25-27)。「どうか己に勝つ力を与え、肉の思いを主のみ霊に従わせ、常にわたしたちがその導きに応え、ますます清くなり、主の栄光を現わすことができますように」(大斎節第1主日特祷)

5)断食は、罪を悔い、嘆く、あるいは祈る、嘆願する(悲しみ、心の重み、あるいは、ひたむきさの)結果として、促され、神のために礼拝行為として行われる(ゼカ 7:5)。なおそれは、その形でしか生じえないようなものではなくて、むしろ同時に、あるいはそれに替えて、「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」(イザ 58:3-7)といった形をも取るはずのものである。

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