パウロの律法批判の文脈 :: 海辺のノート

パウロの律法批判の文脈

1. February, 2014 • 0 Comments

【初代教会におけるユダヤ主義の分離 -5(2014/2/2週報のコラム)】

初代教会に於けるユダヤ主義は、異邦人伝道との関係で、律法の遵守、殊に異教からキリスト教に改宗した信徒が割礼を受けるべきかどうかをめぐって問題になりました。このことについて、後にマタイ福音書を生み出したアンティオケア教会よりも徹底した立場を取ったのがパウロでした。

パウロは初めはアンティオケア教会で伝道者として按手され、バルナバと組んで働いていました。ところが、ペトロがアンティオケアに滞在中のある時、それまでは異邦人信徒もユダヤ人信徒も共に食卓を囲んでいたのに、エルサレムからやってきたユダヤ主義者を気にしてペトロが異邦人信徒と食卓を共にしなくなり、バルナバや他のユダヤ人信徒もそれに倣い、パウロがそれを厳しく面罵するという事件が起こりました(ガラ2:11)。それは、エルサレムでの使徒会議でパウロとユダヤ主義者たちとの間の論争が「調停」された後のことであったようです(使15:36-41)。

その時以来、パウロはアンティオケア教会とも袂を分かち、独自に伝道を開始します。パウロが、ユダヤ主義者の伝道に対抗して書いた手紙が『ガラテヤの信徒への手紙』と『フィリピの信徒への手紙』です。

この背景にあったのはクラウディウス帝(在位紀元41-54年)が出した勅令です。この勅令の下では各宗教の伝統の外に出ることはローマ帝国への反逆行為と見なされました。そのため、この時代のキリスト者たちは、しばしば他のユダヤ人からはローマ帝国による迫害を招きかねないトラブルの種と見られて弾圧をうけました。また教会内部でも、ユダヤの伝統的な宗教生活の枠組みに留まるべきだと主張するユダヤ主義者の主張が力を持っていました。

この構図は、後にユダヤ戦争が起きて神殿が破壊された後は、がらりと変わります。キリスト者の多くは神殿の破壊を神の裁きだと解釈し、いわばユダヤ主義の問題についての回答をそこに見てとったからです。

では、なぜ今、神殿破壊前の状況下でパウロが論じたユダヤ主義批判を理解する必要があるのでしょうか。それは一つには「律法」をどう考えるのか、もっと広く言えば、旧約聖書をどう読むのか、ということに関わるからであり、また反ユダヤ主義(アウシュヴィッツ)とシオニズム(“イスラエル”の政治的支持への動員)の歴史的現実を踏まえつつ、ユダヤ教との関係をどう考えるのか、ということに関わるからです。

「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係(律法)の下にはいません」(ガラ3:25)とパウロは言います。他方、マタイ福音書では、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われます。「律法」とは何でしょうか。私たちは、パウロの「律法」批判をどのように理解すべきなのでしょうか。(続く)

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