ネストリオス派の流れ

8. January, 2014 • 0 Comments

【初代教会におけるユダヤ主義の分離 -4(2014/1/12,19,26 週報のコラム)】

初代教会には、イエスの道に従う者となりながら、割礼を受けなければ無意味だ、割礼を受けない者とは食卓を共にできないと主張する、ファリサイ派出身の人々がいました。いわゆるユダヤ主義者です。使徒言行録には、彼らがエルサレム教会を拠点にして各地の教会を廻って自分たちの主義を広めていたこと、パウロが彼らと闘ったこと、両者及びエルサレム教会の指導者たちの間で話し合いが持たれ、神に立ち帰る異邦人については「偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けること」を守ればよい、と合意されたことが記されています(15:1-33)。この合意は双方が自分に都合よく解釈できるものであったため、ユダヤ人クリスチャンが律法について取りうる考え方には広い幅が残されました。パウロ書簡が書かれたのは、この文脈においてのことでした。

厳格な律法遵守を主張したユダヤ主義者たちは、やがてエビオン派と呼ばれる群れとなって、さらにグノーシス主義と結びついたり、ずっと後にはイスラームとなる流れを作りました(※1月1日、5日のコラム参照)。

異邦人の律法遵守について穏健な立場をとったユダヤ人クリスチャンは、アンティオケアでマタイ福音書を生みだし、イエスが真に人として生きたことを強調するキリスト論や、旧約聖書の歴史的意味を比喩的解釈によって捨象せずに新約の予型として捉えることに特色を持つアンティオケア学派を形成していき、教理の確立に寄与しました。しかし、その最盛期、代表的な神学者でコンスタンティノポリスの主教であったネストリオスがアレクサンドリア学派との争いの末に異端宣告を受け、彼に従う者たちはローマ帝国から排除されてしまいました(431年エフェソス公会議)。

セム的宗教の伝統を保つキリスト教はしばしば言われるように4世紀に絶えたのではなく、このネストリオス派を継承したアッシリア東方教会において存続し、14世紀に壊滅的打撃を受けるまで繁栄を享受しました。アンティオケアはシルクロードの起点です。ネストリオス派はこの通商ルートに沿ってローマ帝国の外で広まりました。前6世紀の捕囚以来、東方には多くのディアスポラのユダヤ人がいましたので、それら共同体が伝道の基盤になったのでしょう。使徒言行録にある聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事の記事で、「わたしたちの中には、パルティア(イラン高原東北部)、メディア(イラン高原北西部)、エラム(イラン高原南西部)からの者がおり、また、メソポタミア、……などに住む者もいる」(2:9)とあって、後にアッシリア東方教会が栄えた地域がまず言及されていることが注目されます。第二次ユダヤ戦争後、ユダヤ人の精神的中心地はパレスチナからメソポタミアに移って3~5世紀に隆盛を見ましたが、ネストリオス派も5世紀にササン朝ペルシアの首都クテシフォン・セレウキア(古代のバビロンの後継都市)に中心を置いて基礎を築きました。8-9世紀には、総主教テモテの下、19人の府主教(聖公会での大主教)、85人の主教がいて、中国、インド、チベット、中央アジアにまで教会が広がっていたのでした。

※ アッシリア東方教会については、主に”The Lost History of Christianity” (Philip Jenkins, 2008, Harper-Collins Publishers)を参考にしています。

◆(補足)ネストリオス派の中国宣教

sv043sビザンチン帝国の歴史家プロコピウスは、550年頃、ユスティニアヌス1世がソグド人(イラン系の民族=西胡)のネストリオス派の僧侶に命じて、蚕を中国から密かに持ち帰らせたことを記しています。公には、635年に阿羅本(Alopen)らアッシリア東方教会の宣教師が長安(現在の西安市)に到着し、638年には教会設立の認可を唐朝から受け、伝道を開始しました。道教を熱心に奉ずる武宗によって禁教されるまでの約200年間、中国には、主教座が置かれ、幾つもの修道院が作られました。陝西省(せんせいしょう)には、この時代に建てられた大秦塔(ローマ塔)と呼ばれる景教の修道院の建築物が残っています。781年には、教義や伝来が記された「大秦景教流行中国碑」が立てられました。碑には漢字の他、古いシリア文字も刻まれています。9世紀初めには府主教がいた記録がありますので、複数の主教がいるほどに信徒が増え、教会(大秦寺)が作られていたのでしょう。しかし、伝道が始まって既に150年が過ぎようとしている時代に建てられた碑に記されている名前が全てシリア系であることから、根付くことに成功していなかったことも窺われます。

キリスト教がネストリオス派によって東方に伝道された時代は、仏教が盛んに伝道された時代とも重なっています。仏教がチベットに入ったのも7世紀のことでした。般若三蔵(Prajna)は782年にインドから長安にやってきました。しかし、携えてきたソグド語の「大乗理趣六波羅蜜多経」を中国語に翻訳できずにいたところ、それを助けたのが既に聖書の中国語訳に取り組んでいたアダム主教(景淨)でした。ちなみに、804年に長安入りした空海がサンスクリット語を学んだのは、この般若三蔵からでした。空海が住居にした西明寺の近くには教会があったこともあり、空海もアッシリア東方教会の聖職たちとの交わりを持ったことは想像に難くありません。

※ 画像は、河北省房山近郊で発見されたネストリオス派の石彫品。蓮の花の上にギリシア十字が乗っている(『モンゴル帝国とキリスト教』江上波夫著, サン パウロ, 2000 所収)。蓮は、仏教では仏の智慧や慈悲を象徴します。これが十字架と組み合わされている図文を見て、私は韓国で民衆神学を切り拓き、今も活躍しておられる金容福先生が民衆の「命の知恵」の運動、宣教として、もうひとうのキリスト教史・宣教神学を構想されたことを思い起こしました。以前翻訳した論文:http://michinori-mano.net/?p=892

◆(補足)ネストリオス派の異端宣告について

ネストリオスが異端宣告を受けたのは、マリアを「テオ・トコス(神の母)」ではなく、「キリスト・トコス(キリストの母)」と呼ぶべきだと主張したためでした。

この論争に賭けられたのは、イエスの神性と人性についての理解でした。ネストリオスは、キリストの神性を否定するアリウス主義と、キリストは神の霊しか持たなかったとするアポリナリオス主義の、両極の異端を論駁する文脈で「テオ・トコス」という表現を問題にしたのです。しかし、この言葉は既に教会で広く馴染まれていていたため、ネストリオスが代表するアンティオケア学派に対立していたアレクサンドリア学派によい攻撃の機会を与えてしまいました。

アレクサンドリア学派は区別が強調されるあまりにイエスが神であることが曖昧にされることを警戒し、アンティオケア学派はイエスが人間であったことが曖昧にされることを警戒しました。アレクサンドリア学派の背景には、プラトンやピュタゴラスの哲学を援用した聖書理解、ヘレニズム化したユダヤ人の伝統があり、アンティオケア学派の背景には、ヘブライの伝統を色濃く残したパレスチナのユダヤ人クリスチャンの伝統とアリストテレスの哲学がありました。

正統教理は、このような対立を調停しようとする中で確定されました。それが今もわたしたちが唱えている「ニケヤ信経」です。日本語訳では気にならない表現になっていますが、ギリシア語の原文では聖書にない概念語が鍵として使われていて、それには当初から多くの反対がありました(「父と一体です」は、原文では「父と同一本質です」)。そうしてまで「信条」を決定したのは、正しい信仰理解を保とうとしたからだけではなく、帝国の統一維持に資するものとして公認された教会の一致を保つため、会議を招集したローマ皇帝がそれを求めたためです。

高尚な神学論争のようでも、背景には教会の一致を求めるローマ帝国からの要請で生じた教会内の地位と主導権をめぐる醜い対立と、ローマ帝国の支配者(ギリシア語を使う人々)と被支配者(各々の土地の言葉を使う人々)の対立がありました。その過程で分かれたのがネストリオス派であり(431年 エフェソス公会議)、またエジプトのコプト教会、シリア正教会、アルメニア正教会などのオリエンタル・オーソドックスでした(451年 カルケドン公会議)。カルケドン公会議に従った教会がそれを拒絶した教会から「皇帝派(メルキート)」と呼ばれたことに、背景にあった政治的要因の大きさが表れています。後に中東で多くのクリスチャンがイスラム教に改宗することになったのも、ひとつにはローマ帝国と一体化した教会への強い反発があったためでした。

そのようなわけで、今日ではネストリオス派やオリエンタル・オーソドックスに対する異端宣告は、信仰ではなく、歴史的情況に関わるものであったと見られるようになってきています。1994年には、アッシリア東方教会の総主教マル・ディンハ4世と、ローマ・カトリック教会の当時の教皇ヨハネ・パウロ2世が、「両教会は互いの典礼と信心を尊重する」とした『キリスト理解におけるカトリック教会とアッシリア東方教会の共同宣言』を出しています。コプト教会とローマ・カトリックは1988年に、コプト教会と正教会(カルケドン派)は1990年に、共同宣言を出しています。

(*)“COMMON CHRISTOLOGICAL DECLARATION BETWEEN THE CATHOLIC CHURCH AND THE ASSYRIAN CHURCH OF THE EAST”

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