「ユダヤ人」という言葉

23. December, 2013 • 0 Comments

【初代教会におけるユダヤ主義の分離 -1(2013/12/29週報のコラム)】

四福音書全体で「ユダヤ人」という言葉は計91回使われていますが、内訳は、ヨハネ福音書が74回と断トツで、マタイでは5回、マルコで6回、ルカでは6回(※ 使徒言行録で86回)です。

それに対して、「ファリサイ派」という言葉は計88回使われていて、内訳は、マタイで29回、マルコで12回、ルカで26回(使徒言行録で8回)、ヨハネで21回。「サドカイ派」という言葉は計9回使われていて、内訳は、マタイで7回、マルコで1回、ルカで1回(使徒言行録で5回)、ヨハネで0回。

福音書の中でも特にユダヤ人クリスチャンの共同体で編まれたヨハネ福音書とマタイ福音書において、「ユダヤ人」や「ファリサイ派」といった言葉が多く使われていることが分かります。また、「ユダヤ人」という言葉と、「ファリサイ派」や「サドカイ派」という言葉の使用頻度が比例していないことにも気づかされます。これは、共観福音書、特にマタイ福音書では他の初期ユダヤ教諸派との関係に関心があるのに対して、最も遅く成立したヨハネ福音書では「ユダヤ人」からの自らの分離を課題としたためと考えられます。

ヨハネ福音書の共同体では、キリスト論が共観福音書におけるそれよりもさらに深められて、もはや他のユダヤ人には受け入れがたい段階に達し、互いに対する断絶感が決定的なものになっていたと考えられるのです。共観福音書では、すべてが父なる神を中心に旧約聖書との相互参照関係において語られ、イエスは荒れ野の誘惑の記事によって、またその神性が復活までは大部分の弟子や世の人々に対して隠されていたとすることによって、あくまでも「人の子」として語られ、その神性の主張がユダヤ人にも受容しやすい形になっていました。しかし、ヨハネ福音書では、イエスというひとりの人間に排他的に神が受肉したことが自身によって主張され、すべてがキリストの側から規定される形で語られ、イエスは弟子によって「わたしの神」と告白されています。「ユダヤ人」の側では、そのように告白するに至ったヨハネ福音書の共同体をますます憎むべき異端としてみるようになって迫害の強度を増したでしょうし、ヨハネ福音書の共同体の側では自分たちを迫害する「ユダヤ人」を「この世の支配者=サタンの意志に従う者=ローマ帝国」に従属する者として否定して、自分たちを異なるアイデンティティにおいて見るようになったのだと考えられます。

なお、注意すべきこととして、「ユダヤ人」という言葉を、現代人は非歴史的に捉え、民族的、人種的、宗教的に同一性をもつ集団として理解するのが一般的であると思いますが、新約の時代の人々は異なる異なる観念において使っていたということがあります。「ユダヤ」という言葉は、イスラエル十二部族の中の一つ、ユダ族に由来し、いにしえの時代に於けるその土地とほぼ重なることから、捕囚からの帰還民が住んだエルサレムを中心とする一帯を指して使われた言葉です。新約聖書で「ユダヤ人」という言葉が使われるときには、歴史的な限定の中で、その「ユダヤ」の人々が意味されているのです。言語や民族の起源との関係で使われる「ヘブライ人」、あるいは「神の民」と言い換えられる「イスラエル人」といった歴史的制約のない言葉とはイコールではありません。そういうわけで、「ユダヤ人」であっても、違うと見られる在り方をするようになると、新しい「人種(種族)」として「ナザレ人」と呼ばれるということが起きましたし、逆にヨハネ福音書で見られるようにユダヤ人クリスチャンが「ユダヤ人」を批判する、ということが起きたのでした。

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