ラビ・ユダヤ教とキリスト教の成立

15. December, 2013 • 0 Comments

【”ユダヤ教”とキリスト教 -3(2013/12/22 週報のコラム)】

ナザレ派や他のユダヤ教諸派を呪う言葉、ビルカト・ハ・ミニームが十八祈祷文に加えられ、シナゴーグから排除されるようになった状況が、マタイ福音書とヨハネ福音書の背景をなしています。その状況下、自分たちこそが父祖からの信仰を真に継承した群れであるという認識を改めて確認しながら、イエス・キリストによって示された道を伝える対象をユダヤ人から異邦人へと転換していった共同体が生み出した福音書が『マタイによる福音書』でした。

ファリサイ派は、神殿なき後の宗教の再建にあたって、ビルカト・ハ・ミニーム発布の他、ギリシア語訳聖書(『七〇人訳』)、ギリシア語で書かれた黙示文学等を排除して、既に前2世紀頃までに正典化されていた「律法」「預言書」以外の「諸書」について<正典化と閉鎖>に着手しました(*)。ナザレ派をはじめ、彼らが異端と断じた諸派が、ギリシア語訳聖書を使っていたためです。

このようにして、ひとつの根から、今日の我々が言うところの「ユダヤ教」と「キリスト教」が生まれたのでした。ただしこの段階では、既にキリスト教はほぼ基礎ができていましたが(※ 新約聖書としてまとめられる諸文書が書かれ、職制も形成されつつあった)、「ユダヤ教」はまだ基礎ができていませんでした。

ヘブライ語聖書から導き出される前300年頃からの法規・戒律や口伝律法をまとめたミシュナが後200年にラビ・イェフダによって編纂され、さらにそれについてのラビたちの注釈集成書(=タルムード)が後400~500年頃にパレスチナで、後500~600年頃にバビロニアでまとめられ、それで初めて、いわゆるユダヤ教が成立したのです。キリスト教にとっての新約聖書が、ラビ・ユダヤ教にとってのタルムードです。ユダヤ教はキリスト教よりも新しい宗教なのです。実質的にはミシュナやタルムードの完成以前に形ができていたとはいえ、神殿崩壊の前後では同じ宗教と見ることはできず、イエスさまの時代のそれは「初期ユダヤ教」等と呼ばれます。

ローマ帝国がキリスト教とユダヤ教を区別するようになったのは後250年。それによりキリスト教は帝国の庇護の外に出され、迫害されました。後313年のキリスト教公認後は立場が逆転します。さらにキリスト教会は信徒にユダヤ人との接触を禁ずる教会法を定めたり、説教で勧告したりして(結婚するな、食卓を共にするな、等)、ユダヤ教とキリスト教とは決定的に分離していくことになったのでした。

(*) 第一次ユダヤ戦争後(66-73)、ラビ・ヨハナン・ザッカイがエルサレム西部の地中海沿岸の町ヤムニア(ヤブネ)に宗教学校を作ることをローマ帝国に許され、そこに集まったラビたちによって、十八祈祷文にビルカト・ハ・ミニームが加えられたり、聖書の正典化・閉鎖が着手されたと考えられています。また、ユダヤ暦が制定され、総主教職(ナスィ)が立てられ、ユダヤ人を迫害したドミティアヌス帝(在位81-96)の死後、ローマ帝国は総主教の首長としての地位を認めました。総主教は、かつてのエルサレムの大祭司に代わって、ローマ帝国全体におけるユダヤ人共同体の首長として確立されていきます。第二次ユダヤ戦争(132-135)によってユダヤ人はエルサレム近郊に居住することを禁止され、ラビたちはヤムニアを追われてガリラヤ地方へと移りました。なお、しばしば後85年頃に「宗教会議」がヤムニアで開かれて決定された、と説明されてきましたが、それは19世紀後半にミシュナに伝えられる「伝説」に基づいて立てられた仮説で、その後、そのような会議が開催されたことを支持する史料は何も見つかっておらず、現在はその存在は否定的に考えられています。そのため、ビルカト・ハ・ミニームが加えられた時期は明確には分かりません。ヘブライ語聖書の正典化は1世紀末から3世紀はじめにかけての長い時間をかけて行われたと推測されます。

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