ナザレ派の排除 :: 海辺のノート

ナザレ派の排除

10. December, 2013 • 0 Comments

【”ユダヤ教”とキリスト教 -2(2013/12/15 週報のコラム)】

“ユダヤ教”とキリスト教の関係を決定的に新しい段階へと移行させたのがエルサレム神殿の破壊でした。

もちろん、それ以前から、「この道」に従う者たちの間では、イエスさまが示された「福音の真理」(ガラ2:14)を十分に理解せず、旧来の道に固執するユダヤ主義者たちがいて、とくに異邦人改宗者の割礼の必要や律法遵守をめぐって大きな論争があったことは、使徒言行録やパウロ書簡に記されている通りです。福音書に記されているファリサイ派、サドカイ派等への批判の元来の目的も、「この道」に従う者たちの間での福音理解の明確化だったのでしょう。ところが神殿崩壊後は、内部における福音理解の確立だけではすまなくなります。

70年の神殿崩壊と共に、神殿を足場にしていたサドカイ派、その反対党であったクムラン宗団(エッセネ派の中核的な一部)等は消滅します。また、ローマ支配に対して武器をとって立ち上がった民族主義的な潮流、熱心党、シカリ派等も消滅します。そして残ったのが、いずれも食卓の交わりを信仰生活の核にする、ナザレ派(クリスチャン)とファリサイ派でした。

ファリサイ派は、前2世紀のマカバイ戦争の時に下層民から生まれたハシディームを起源とし、ヘレニズム文化がユダヤに浸透する中でアイデンティティを堅持するために形成され、中間層に地歩を得ていきました(*1)。イエスさまの時代には幅があり、そのため史的実像も明らかではありませんが、ヒレル派、シャンマイ派など、七つの派に分かれていたとされます。神殿崩壊後、ファリサイ派は穏健なヒレル派のラビであるヨハナン・ベン・ザッカイの下に糾合され、異邦人の改宗者獲得にも熱心な、超民族的な姿勢をとって、ナザレ派と競合するようになります。パウロをはじめとしてファリサイ派出身のクリスチャンが少なくなかったのも故ないことではないのです(※ 使15:5)。

ユダヤ戦争後、ファリサイ派は、ユダヤ社会の権力を手中にして、その再建を開始します。そこでまず行ったことのひとつが、ナザレ派をはじめとする他のユダヤ教諸派を排除することでした。85年頃のことと考えられていますが、安息日の礼拝や日に三度の礼拝で必ず唱える「十八祈祷文」に、ナザレ派および他の諸派を呪う言葉(ビルカト・ハ・ミニーム *2)を加えて、クリスチャンがシナゴーグで礼拝を共にできなくしたのでした。それは次のような祈りです。

「異端者どもにはどのような希望もなくさせ、不遜な支配者(※ローマのこと)を急いで汝の手で根こそぎにしたまえ。ナザレ人らと異端どもはまたたく間に滅び失せ、生命の書から消し去られ、義人と共にその名を記されることがありませんように。」(ビルカト・ハ・ミニーム、大貫隆訳)

(*1) ユダヤのハスモン朝、サロメ・アレクサンドラ女王(在位 前77-67年)の時代に、それまで弾圧されていたファリサイ派はサンヘドリンに議席を得て、反体制勢力としての性格を変えていくこととなった。(※サンヘドリンは、この時代は王室諮問機関としての大法廷であった。後にローマ時代に自治機関となる。)

(*2) ビルカト・ハ・ミニームは現在は「ナザレ人と異端どもは」という言葉が「中傷者たち」という言葉に替えられて祈られています。いつ変えられたのかは、調べられませんでした。十八祈祷文の原文と英訳:
http://www.hebrew4christians.com/Prayers/Daily_Prayers/Shemoneh_Esrei/shemoneh_esrei.html

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