<忍耐>によって命を得る

17. 11月, 2013 • 1 Comment

聖霊降臨後第26主日(特定28)ルカ 21:5-19

イエス・キリストの弟子として歩む霊的な旅路についての教えをたどってきましたが、いよいよその結びを迎えようとしています。

先週は、復活後のいのちについてのイエスさまの教えを学びました。

サドカイ派は、死後のいのちの希望を、子孫の繁栄の中に見ました。ファリサイ派は、復活を信じましたが、しかし、復活後のいのちを現世で満たされなかった願望の実現として考えました。命の希望を、子孫の繁栄の内に見ようとしたり、あるいは満たされない願望のあの世での実現に見るような考え方は、古代イスラエルに限られたものではなく、日本を含め、古今東西、広く見られるものです。しかし、イエスさまは、現世の延長の内にいのちの希望を託す、そうした考え方は、いのちは神によって与えられるという、信仰の根本を見失った考え方だと指摘されました。

わたしたちが命への希望をどのように抱くのか、ということは、わたしたちが今をどう生きるのか、どのような価値観をもって、どのような選択をしながら生きるのか、ということと関わります。

金持ちや貴族にはしばしば見られることですが、サドカイ派のように、いのちの希望を子孫の繁栄に見るならば、血筋、家、祭祀の存続ということが最も大事なこととされます。本日の福音書の冒頭にも、見事な石で築かれ、奉納物で飾られた神殿に見とれる人たちが出てきます。その人たちは、ただ壮麗な神殿の様に見とれていたということではなくて、神殿に誇りを感じ、神殿とその典礼制度に安心感を与えられていた、ということなのです。それによって、子孫の存続、自分の民の存続が保障されていると感じて、彼らは神殿に見とれていたのです。しかし、イエスさまは、そのような希望の持ち方の空しさを指摘されました。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」とおっしゃったのでした。

他方、現世で満たされない願望が死後に満たされる、というファリサイ派のような希望の持ち方は、<今、ここ>におけるいのちの軽視に道を開いてしまいます。ジハドの戦士になる、などという極端なことにはならずとも、ニーチェが『ツァラトゥストラ』で「背面世界論者」批判として仮借ない言葉で記したように、当人は自分を厳しく律する生き方をしているつもりでいても、実際には、「苦悩と無能が創りだした妄想」の中での現実から逃避した生き方になってしまうのです。

ツァラトゥストラはかく語りました。「肉体と大地をさげすみ、天上の世界と救済的な血のしずくとを発明したのは、病人と瀕死の者たちだったのだ。しかも、これらの甘やかな、よどんだ毒にしてからが、それはかれらが肉体と大地からつくったものなのだ。かれらは惨めさから脱出しようと願った。しかし星はかれらには遠すぎた。それで彼らは嘆息した。『ああ、今とは別の存在と幸福とに入れる天上的な道があればいいのに』と。それで彼らは、彼らの抜け道と血の飲み物とを発明したのだ。」

ニーチェは、これをキリスト教批判として書いたつもりでいたわけですが、これはファリサイ派あるいは熱心党に、または殉教すれば天国に入れると教える現代イスラムのジハディストにはあてはまるとしても、イエスさまの教えに対しては的外れなものです。ニーチェの批判はむしろイエスさまの教えと響き合います。ニーチェは、大地から抜け出そうとするな、大地に忠実であれ、と呼びかけましたが、それこそイエスさまが教えたことだからです。

本日の福音書は、「忍耐によって、あなたがたは命を得なさい」というイエスさまの言葉で結ばれています。忍耐というと、日本語では「我慢すること~自分を押さえること~服従すること」といったニュアンスで受け取ってしまいかねませんが、聖書で<忍耐>と訳されているヒュポモネーという語は、<ヒュポ=~のもとに>という語と、<メノー=留まる>という語の合成語で、「神のもとにとどまる/辛抱強く神を待ち望む/救いへの期待を持ち続ける」という意味と、「この世のもとに留まる/この世を耐え忍ぶ」という意味を合わせ持たせて使われている言葉です。大地から抜け出そうとするな、それによって命を得よ、と、イエスさまは呼び掛けておられるのです。

ただし、そこでニーチェは個々人に勇気を求めましたが、キリスト教では<忍耐>が個々人の強さで可能になるとは考えません。それは神からの希望によって可能になるものであり、またナウエンが言うように共同体によって保たれるべきものです。

「キリスト者の共同体とは、心の内にある希望のともしびを絶やさないようにする場であり、それを大切にすることによって、そのともしびは大きくなり、強くなります。こうしてわたしたちは共にいることで、絶えず襲ってくる絶望感に屈することなく、わたしたちを生かす霊的な力がその集いの中にあることを確信させ、勇気を持って生きることができるようになるのです。だからこそ、たとえわたしたちの周りに憎しみしか見えなくとも、神は愛の神であると言い切ることができるのです。だからこそ、たとえわたしたちの周りに死や破壊や苦悶しか見えなくとも、神は命の神であると主張することが出来るのです。わたしたちはそれを共に主張します。互いにそれを承認し合います。また、共に待ち続け、さらに、すでに始まっていることを育み、その実現を期待します。これこそが、結婚、交わり、共同体の持つ意味であり、信仰生活の意味することです。」(ヘンリ・ナウエン)

イエスさまは、先々のことを思い煩って、惑わされるなと警告されます。あなたたちは確かに様々な艱難に遭うであろう、戦争や暴動といったことが起こる、民は民に、国は国に敵対して立ち上がる、大きな地震、津波、台風、原発事故があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる、しかし、世の終わりはすぐには来ない。メシアを自称する者がたくさん現れ、「時が近づいた」などと言うが、それらの者たちはすべて偽者である。惑わされないように気をつけなさい、と注意されています。戦争、災害などは確かに世の終わりの徴ですが、しかし、イエスさまが強調されたのは、それらは神のご計画の内にあるものだということ、そして世の終わりはすぐには来ない、ということです。

「これらのことがすべて起こる前に」と言って、イエスさまは<今・ここ>における私たち自身の在り方に目を向けさせます。イエス・キリストから与えられた希望に生きる者は、様々な艱難に遭うことは避けられず、親しい者に裏切られたり、殺されたりさえするかもしれませんが、しかし、そこで<忍耐>をもって生きるならば、すなわち、与えられた希望を保って世の現実から逃避せず、神のもとにとどまるならば、その姿は救いの証しとなり、また、「髪の毛の一本も決して滅ぼされない」、すなわち、魂はいささかも傷つけられることなく守られる、と教えられたのでした。

この世の現実のただ中にあって、神のもとに生き、命を得ましょう。「既に」と「未だ」の間の時を、イエス・キリストにおいて始まった新しい創造と、裁きと復活を伴うその完成との間の時を、<忍耐>をもって歩みましょう。そのために、心の内のともしびを絶やさないようにするための場である、このわたしたちの共同体を大切にしてまいりましょう。そして、ともしびが、ますます大きく明るく燃え立つように、いつイエスさまが来られても慌てることのないように、怠らない信仰生活に励みましょう。

1 Comment to “<忍耐>によって命を得る”

  1. Noboru Tanizuka より:

    この世の事に惑わされず、この世のことから逃げない。この世で生きることの大切さ。大切なものは両極端の中に無い。両極端の間、現実の中にある。人は真理でない。現実の中で真理でない自我が真理と向き合い出あう苦難の中で、真理に降参する。生きるのはここから始まる。イエ・キリスト(真理)にある共同体が、歩みに必要なことが教えられる。人々のことばと行いとによって教えられること。自身もその中の一人として参与すること。自我でなく真理によって歩むことが教えられ導かれること。苦難や忍耐の中で生きることの意味。

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