礼拝拾遺(16) -洗礼のイメージ(2) :: 海辺のノート

礼拝拾遺(16) -洗礼のイメージ(2)

5. October, 2013 • 0 Comments

洗礼の理解を言い表すのに、西欧では四世紀以後は<洗礼とはキリストの死と復活にあずかること>とするパウロの神学に立つ<過ぎ越し>のイメージが、排他的に強調されてきました。

しかしそれ以前は、意外にも、例えば二世紀の神学者ユスティノスは、洗礼を語るのにパウロが用いたようなイメージは一切使っておらず、新生、洗い、照明、といった言葉を使いました。四世紀のシリアの教父たちも、キリスト者の洗礼を新しい生への誕生として描き、洗礼槽はヨルダン川であり、子宮であると語りました。東方教会は、その伝統を今も継承しています。

他方、四世紀以前、ローマ・北アフリカでは、ヨルダン川での受洗でなく、キリストが死から復活へと歩んだ旅路が、モデルとされました。洗礼志願者は、象徴的にそれを共にするのです。悪の世を否み、水の中へとくだってそこで信仰を言い表し、上がってきて神の祭司の民として油注ぎを受け、キリストのものとして十字架のしるしを帯び、復活の主の霊を受け、約束の地に入るのです。<授洗>後の<迎え入れ>では(祈祷書282頁)、受洗者に「乳と蜜を混ぜたもの」を与えるということも行われました。神の民が乳と蜜の流れる地を受け継ぐという旧約の約束の成就への明確な関連づけがあったのでした。

洗礼は、聖書で、様々な言葉やイメージによって言い表されています。そこに見られるのは、「全信徒に共有された洗礼神学の標準ではなく、人がキリスト者になった時に何が起こるのかを実に多様に解釈し表現する、その幅の広さだからである。」(ブラッドショー『初期キリスト教の礼拝』)

逆に、聖書で「洗礼」という言葉を使って言い表されている文章を、私たちは「洗礼」について自分たちが持つ矮小化されたイメージを前提にして読んでしまってはいないか?と、問う必要もあるでしょう。

本田哲郎神父は、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(マルコ16:16)を、「信頼をもって歩みを起こし、身を沈められる人は救われ、信頼して歩みを起こそうとしない人は滅びの宣告を受ける」と訳されました。ここで言わんとされていることは、洗礼が救いの条件である、などということではなく、「福音に信頼してあゆみを起こすと、現場の苦しみに身を沈められることになるけれど、そのことによって自分が救われるのだ」ということであると。ここには、四世紀以前のローマ教会の洗礼イメージの回復があるのです。

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