礼拝拾遺(14) – 信仰告白の位置

19. September, 2013 • 0 Comments

奉献についての連載で、会衆がパンと葡萄酒を捧げる<奉納>が、それ自体の意義が忘れられ、奉献の準備としか見られず、省略されることさえ多いことについて、キリストへの服従という観点から再考したいものだと書きました。古代教会における洗礼式の<信仰告白(洗礼の誓約)>の変化に関わっても似たようなことがあります。

<信仰告白>は、式文(p.280, p.291)を見ると、父、子、聖霊なる神に対して三度重ねて信仰を告白する形になっています。これは2~3世紀の古代教会で行われていたことが確認できる形です。ただし、私たちの祈祷書では、頭に水を注ぐ<授洗>と分けて、その前にそれを行うようになっていますが、ローマや北アフリカでは当初は<信仰告白>と<授洗>は一体になった形で行われていました。<授洗>は川で全身を水の中に沈める<浸礼>の形で行われ、受洗者は、神の三位各位への信仰の表明の度に、計三度、水に沈められました。

しかし、やがて5、6世紀になると浸礼は行われなくなっていき、シリアの教会で使われていた洗礼定式(「私はあなたに…の名によって洗礼を授ける」)が一般的になり、洗礼式の中心的な要素であった<信仰告白>は、浸礼との繋がりを失って洗礼前の予備的な位置へと押しやられました。

「儀礼においてこのような変化があったために、後の神学者たちは、キリスト者となる過程において志願者たち自身の信仰がかつて担っていた重大な部分を軽視して、かわりに神の恵みを強調するという傾きを持ちやすくなったのである。」(ブラッドショー)

また、反比例するように、授洗者(司式聖職)の役割が前面に出ました(当のシリアでは、「私は…洗礼を授ける」に替わって「~に洗礼が授けられる」という表現が使われるようになって、それが東方教会の標準になっていきました)。

米国聖公会の祈祷書が<信仰告白>の中で<洗礼の誓約>を行うようにしたことは、元来そこで志願者たち自身の信仰が担っていた部分を回復しようとするものである、と見ることができるのです。

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