弟子として歩む覚悟

8. 9月, 2013 • 0 Comments

聖霊降臨後第16主日(特定18) ルカ 14:25-33

2020年のオリンピック開催地が東京に決まりました。早速、施設などの建設が始まっていくのでしょう。くれぐれも難民・移住労働者、野宿生活者の人権がないがしろにされている東京の現実、そして東日本大震災による被災地の現実、とくに未だに応急的な対応を後手後手に行っているばかりの原発の問題が、このことで覆い隠されてしまうようなことにならないように、緊張感をもって誠実に取り組むきっかけになって欲しいものだと思わされます。

古代ギリシアのオリンピックは紀元前8世紀から約千年間行われました。それを19世紀末に国際的な祭典として復活させたクーベルタン男爵の言葉として、「オリンピックで大切なのは勝つことではなく参加することだ。人生で肝心なのは、人を打ち負かすことではなくて、よく闘うことだからだ」という言葉があります。3年間勤務していた世界YMCA同盟はこのクーベルタン男爵の屋敷を事務所に使っているので関心を持って調べたことがあったのですが、この言葉は、実は、米国聖公会の第15代総裁主教エセルバート・タルボット師父の言葉だということです。

1908年、オリンピックのロンドン大会が開催された時、ちょうど世界の聖公会の主教が集まるランベス会議が開かれていました。当時、米国、英国は犬猿の仲で、嫌がらせや競技の判定にアメリカ人は不満を募らせていました。そのような中で、エセルバート・タルボット総裁主教は、説教に招かれたロンドンの聖パウロ大聖堂で、「大切なのは勝つことではなく参加することだ」というこのメッセージを語ったそうです。聖餐式に来ていたアメリカの選手たちは感激して、気持ちを新たにしたそうです。彼らは“勝ち負け”よりも“よく闘うこと”に、歓迎されない中をイギリスに来て競技に臨んでいること自体に、大きな意義があるのだと気づかされたのでしょう。

このエピソードを聞いたクーベルタン男爵がオリンピック関係者を招いて行った晩餐会の席上で紹介したところ、オリンピックの理念を象徴するクーベルタン男爵の演説として広まったそうです。人を打ち負かして賞賛を受けることよりも、むしろ、無理解、敵意や誹りに遭うような逆境の中で最善を尽くす、そこに栄光があらわされるということ。オリンピック運動は、昔も今も政治的、経済的な思惑にまみれて、その理念が顧みられていない観がありますが、そこに小さな福音の種が含まれていることを覚えておきたいものです。

ところで、古代ギリシアにはオリンピックを含め、四つの名の知られたスポーツの祭典がありました。その一つ、コリントで行われていたイストミア大祭を見て、パウロが残した有名な言葉があります。コリントの信徒への手紙Ⅰ9:24-27にあります。

「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。」

本日の福音書には、弟子として歩もうとする者に対して、それにふさわしい覚悟を求めるイエスさまの言葉が再び記されています。ガリラヤを離れてエルサレムに向かう霊的な旅路の初め、9章の結びでも、同様なことが語られていました。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」

弟子として歩もうとする者、あるいは弟子として歩んでいる者に対する、これらのイエスさまやパウロの厳しい言葉は、現代の教会で、私たちの耳に、どのように響くでしょうか。

度々引用していますが、ボンヘッファーは、宗教改革において、教会は神からの高価な恵みを再び見いだしながらも、すぐにそれを見失ってしまった、現代の教会は安価な恵みを説いている、と批判しました。

「安価な恵みは、悔い改め抜きの赦しの宣教であり、教会戒規抜きの洗礼であり、罪の告白抜きの聖餐であり、個人的な告解抜きの赦罪である。安価な恵みは、服従のない恵みであり、十字架のない恵みであり、生きた・人となりたもうたイエス・キリスト不在の恵みである。」

ボンヘッファーは教会戒規抜きの洗礼、すなわち、陪餐停止を口にしない洗礼と言っていますが、週報の裏面で連載した「奉献・奉納」についての記事で書きましたように、古代の教会では、聖餐を受けることではなく、奉納が停止されました。受けることでなく、献げることが停止されました。神から受けることの停止となると、人がどうしてそんなことを決められるのか、などという話になりかねないわけですが、元々、人間が神に対して持つべき畏れからの、神に献げることの停止だったのです。このことだけを見ても、現代の教会では神の恵みの理解が複雑に転倒してしまっていることがよく分かります。

今日の週報の裏面に、米国聖公会と日本聖公会の洗礼式を比較して気づかされたことを書きました。

日本聖公会の洗礼式で、「誓約」と小見出しが付けられている部分は、米国聖公会の洗礼式では「志願者の推薦と試問」となっています。日本聖公会で「誓約」と呼んでいるものは、米国聖公会では「試問」と呼ばれています。質問は”Do you ~?”(あなたは、今、~と考えていますか)という現在形ですから、それに答えることは、いわば信仰の宣言なのですね。

では、米国聖公会の洗礼式で「誓約」はどこで行うのか。日本聖公会の洗礼式で「信仰告白」と見出しが付けられている箇所に、「洗礼の誓約」という小見出しが付けられています。父・子・聖霊なる神への信仰を告白するところまでは同じですが、米国聖公会の洗礼式では、それに続いて「弟子となることが意味するところを明らかにする」五つの誓約を行います。質問は”Will you ~?”という未来形です(あなたは、これから、~していきますか)。

1. あなたは、使徒の教えと共同体、パンを裂くこと、祈ることにおいて歩み続けますか?
2. あなたは、悪への抗いにおいて耐え忍び、罪に陥ったときには常に悔い改めて主に立ち返りますか?
3. あなたは、言葉と範を示すことにおいて、神からのキリストにおけるよき知らせを宣言しますか?
4. あなたは、隣人をあなた自身のように愛し、すべての人の中にキリストを見いだして仕えますか?
5. あなたは、正義と平和のために努め、すべての人の尊厳のために働きますか?

ひとつ、ひとつが、全てのキリスト者の歩みにおいて欠かすことのできないことです。この洗礼の誓約が、毎年の復活前夜祭で確認されます。

しばしば、自分で聖書を学んでいるからそれでいいのだ、家でお祈りをしているからそれでいいのだ、ということを聞きます。しかし、“共同体”において歩む、“パンを裂くこと”において歩む、ということを抜きにしたら、イエスの弟子であるとは言えないのです。

また、マザー・テレサのような立派な人にキリストを見て仕える人は多くても、自分が敵意、憎しみ、落胆、あるいは無関心の目でしか見ることができない人の中にキリストを見いだして仕える人は少ないのではないでしょうか。しかし、そうでなければ、イエスの弟子として歩んでいるとは言えないのです。

日本聖公会の洗礼式でも、信仰の宣言の中に洗礼の誓約が含まれていると考えることはできます。しかし、このようにはっきりと具体的な言葉で弟子としての誓約を意識し、言い表すことは、意義深いことではないでしょうか。

説教の結びに、本日の特祷をおささげいたします。

主よ、どうか主の民に世と肉と悪魔との誘惑に打ち勝つ恵みを与え、清い心と思いを持って、唯一の神に従うことができますように。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

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