祈る者の希望

11. 8月, 2013 • 0 Comments

聖霊降臨後第12主日(特定14)ルカ12:32-40

ガリラヤからエルサレムへと十字架に向かう道を歩みながら、弟子たちにお教えになった永遠の命への道について、約1ヶ月半にわたって学んでまいりました。弟子としての心構え、愛の戒め、祈りの姿勢と目的について、学んでまいりました。

ここ2回は、主の祈りに始まって、祈りが主題でした。

前々回は特に祈りの姿勢について考えました。自分は特別に功徳を積んでいる、と誇るようなことはなくても、自分が神の恵みから排除されなければならないような謂われはない、というような思いが心の底に潜んではいないか。そのように、神に対して要求するに足る義が自分にはあるという態度でいるかぎりは、神さまは決して祈りに応えてはくださらない。ただ永遠の命に入らせてくださる神の約束を信じ、恥や外聞を捨てて神の憐れみに信頼し、その御手に自分の願いを委ねるとき、神さまは必要なものを何でも与えてくださるのだ、イエスさまはそうお教えになりました。

前回は祈りの目的について、考えました。確かに、神様は必要なものは何でも与えてくださる、とイエスさまはおっしゃった。では、私たちは、心の中にわき上がってくる願いを何でも率直に神さまに求めればよいということなのか。商売繁昌、家門反映、交通安全、健康回復、受験の成功、…。祈りとは、そうしたことを願い求めることなのか。自分の財産に命の源と希望を見る「愚かな金持ち」のたとえを通して、そもそも自分は何に命の源と希望を見ているのか、どこに自分の心があるのか、空しいものに頼ろうとしていないか、自分で自分の命を思うようにできると考えてはいないか、と問われました。神にこそ命の源と希望があるのだ、ということ。そのことを忘れて何を願っても空しいのだ、ということ。だから、神ならぬものに命の源と希望を見てしまうような誘惑に陥らぬように、求めるべき善いものを求めることができるように、聖霊の賜物を祈り求めなければならない、ということを学びました。

神様に何を願っても良いのです。しかし、それによって、神のみ名があがめられますように、ということが、根っこにあるかどうかが問題です。自分の抱いている願い、思いを絶対化して、それが実現しなければ、自分は生きていけない、幸せになれないと思い込むこと、それは神ならぬものに神を見ようとすることです。私たちには、自分が祈り求めていることがみ心にかなうものなのかどうか、分かりません。しかし、み名が聖とされますように、という願いが根っこにあって、それがその上での願いであるならば、その願い自体がたとえ叶えられなくても、私たちは失望しません。それ自体が究極の目的ではないから、それ自体に自分の命の源があるとは思っていないから、神様は私にもっとも善いものを与えてくださると信頼しているから、です。

本日の福音書では、信仰者の持つべき、そのような終末論的な希望について、イエスさまはお教えになっています。終末論的、というと難しく聞こえるかもしれませんが、確実な未来から自分たちの取るべき態度を考える、ということです。

あらためて私たちにイエスさまは語りかけられます。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と。そして、たとえをもってお教えになりました。とても短いたとえ話ですが、究極的な希望と、信仰者への祝福を語る、珠玉のたとえ話です。

○ 腰に帯を締め、灯火を灯していなさい。主人が婚宴から帰って来て戸を叩く時、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。

 ○ 主人が帰って来た時、目を覚ましているのを見られる僕達は幸いだ。

  ○ 主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、<そばに来て>給仕してくれる。

 ○ 主人が真夜中に帰っても夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕達は幸いだ。

○ このことをわきまえていなさい。あなたがたも用意していなさい。

このたとえは、ヘブライ文学に特徴的な仕方で語られています。サンドイッチのように文章の始まりと終わりから挟み込むようにして語って、その真ん中に行くほど大切なことが語られています。サンドイッチは、まず外側にパンがあります。その内側にレタスなどがあります。その内側にマヨネーズなどがあって、さらにチーズがあり、そして真ん中にハムや卵など、そのサンドイッチのメインの食材があります。

まず、はじめとおわりに、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」「このことをわきまえていなさい。あなたがたも用意していなさい。」と、備えの勧めが語られています。

その内側には、「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」と、主が来られること、またその時に備えができていて目覚めている者は幸いだ、と語られています。

そして、真ん中で、「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、<そばに来て>給仕してくれる。」とあって、主が顕現されること、そして、その主がわたしたちを食事の席に着かせ、給仕してくださることが語られているのです。

3段階で、順に、踏み込んだ内容が語られ、真ん中でメッセージの核心が語られています。

まず、信仰者は、常に目覚め、備えていなさい、と語られています。言い換えれば、常に祈りの内に生きなさい、ということです。

そして、そのように、常に祈りの内に生きている者は神からの祝福を受けている、と語られています。後で祝福を受けるために、今は目覚めていなさい、ということではなくて、目覚めている者は今、神からの祝福を受けている、と語られているのです。本田神父さんは、「主人が来て、しっかり気を張っているところを見られるしもべたちは、神から力を受けているのだ。」「主人の帰りが夜更けでも夜明け前であっても、そのようにしているしもべは、神から力を得ているのだ」と訳しておられます。現在のことなのです。

さらに、あろうことか、そんなしもべたちには主が顕現され、私たちが主で、主がしもべであるかのように、わたしたちを食卓につかせ、給仕してくださる、と言われます。これは、確実に来る<時の終わり>、終末における出来事の、先どりとしての現在の出来事です。

最後の晩餐において、主は弟子たちの足を洗われ、弟子たちに給仕をされました。毎主日の礼拝で、そのことを記念し、聖餐にあずかるとき、わたしたちもまた、その恵みを体験します。このたとえ話の食事の場面は、実は私たちが守っている聖餐式のイメージです。

日本語訳や、あるいは欧米の言語訳では、分かりにくい表現になっていますが、このたとえで、主人は婚礼の祝宴が終わったから帰ってくるのではありません。伝統的なアラブ語訳ではそれが分かる表現になっているということですが、まだ祝宴は続いていて、主人はその途中で席を外し、主人に直接に仕えることを楽しみに願っているしもべたちのところに来るのです。

すでに始まっていて、いつ終わるともなく続いてる天上の祝宴から、主は、霊的に目覚めている弟子たちのもとに、世から拒絶され、あるいは罵られ、たえず叫びを上げている人々のもとに、来臨され、天上の祝宴からもってこられるご馳走を給仕してくださる、というイメージが、このたとえでは語られているのです。主は、しもべらの涙を目から拭われ、主の愛を味わわせ、苦しみを忘れさせてくださいます。そのとき、もはや僕は僕ではなくなり、愛における同労者、友となる、と言われるのです。

これが私たちの終末論的な希望です。主の言葉に信頼し、忠実な僕として、共に歩んでまいりましょう。結びに本日の特祷を改めてお捧げします。

永遠にいます全能の神よ、わたしたちに信仰と望みと愛とを増し加え、またあなたが約束してくださるものを得るためにあなたが命じられることを愛させてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

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