愛の実践

21. 7月, 2013 • 0 Comments

聖霊降臨後第9主日(特定11) ルカ10:38-42

先週の「よきサマリア人のたとえ」と、今週の「マルタとマリア」の話。このふたつは日常生活における愛の実践という主題のもとに並べられています。

これらは読み方によっては、矛盾したことが述べられているようにも読めてしまいます。

– 「よきサマリア人のたとえ」では行動的な隣人愛の実践が勧められている、しかも祭司やレビ人を登場させて礼拝生活には熱心でも教会の外に出て行って愛の奉仕を行わない信仰者が批判されている。

– 「マルタとマリア」の話ではみ言葉を聞くこと、すなわち神を愛することへの集中が勧められている、しかもマルタを登場させて奉仕活動には熱心でも礼拝生活を軽んじている信仰者が批判されている。

このように読めば、一方は活動的な信仰生活の勧め、他方は観想的な信仰生活の勧め、ということになります。

実際、しばしばこのように読まれているということはないでしょうか。また、意識的にではなくても、自らを正当化し、人を批判しようとして聖書を開くと、このような読み方になってしまうということはないでしょうか。

しかし、どちらの話でも、二つの信仰者のタイプ、二つの信仰生活のスタイルが比較対照されているのではありません。それぞれの話をそのように読んでしまったら、続けて記されている二つの話が矛盾する教えを述べていることになってしまいます。そうではなく、どちらの話でも、愛の実践=歓待(ホスピタリティ)についての一貫したひとつの教えが述べられているのです。

ガリラヤからエルサレムへの旅路という設定で記されているルカ福音書の第二部(9~19章)は、十字架の死と復活、昇天へとその道を歩んだイエスに従うすべての者、『自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って』歩む人生の旅路にあるすべてのキリスト者への教えがまとめられています。このことが理解の前提となります。「よきサマリア人のたとえ」が旅の道中における出来事として語られていること、「マルタとマリア」の話が「一行が歩いて行くうち」と語り始められていることは偶然ではありません。

「よきサマリア人のたとえ」で、私たちは何を学んだでしょうか。イエスさまは、聴き手である私たちが、人生の旅路において追いはぎに襲われ、道ばたで倒れている、という場面を、まず提示されました。そこに、私たちの分身である祭司やレビ人を通らせ、自分たちの普段の姿を客観的に見るよう誘われました。そうした姿と対照させ、なんと神さまをサマリア人にして登場させ、そのサマリア人が私たちの姿を見て臓を掴まれるような思いをもって近寄り、抱きかかえ、治療をして、すっかり回復できるまでの配慮をした、という話を語られました。

イエスさまは、愛の実践とは、それを私たちが誰に対して如何に為すべきか、と問いを立てて、考え、実行するというような、人間が主体である行為の問題ではない、ということを語られたのです。聖書がいう愛とは、何よりも先ず、神様から私たちが受ける憐れみと恵みなのです。それへの応答として、その結果としての服従の行為として、愛は実践されるのだとイエスさまは語られたのです。

愛の実践の主体はあくまでも神さまなのです。神を愛しなさい、ということと、隣人を愛しなさい、ということは、別々の掟ではなく、神様が私たちを憐れみ、命を吹き込んでくださったことへの応答が、同時に、神を愛するということであり、隣人を愛するということなのです。先だって恩寵があり、それに対する感謝の応答なのですから、それを何か報いを受けるために為すべきこととして考えたり、そのためにいかに正しく行うかを論じることは見当違いな話です。

愛の中心は神である、ということの意味が、今日の「マルタとマリア」の話では、もっと明確に示されます。

「一行が歩いて行く内に…」と語られ始めています。この言葉を受けて、私たちは自分たちの教会の歩みに重ねながら「マルタとマリア」の話を聞くように誘われています。次にイエスはある村にお入りになった、と書かれています。イエスさまと弟子たちが、ではなく、イエスさまが、と、主語が単数形で書かれています。そのイエスさまを、マルタという女が家に迎え入れた、と書かれています。すなわち、読者に、自分たちの教会にイエスさまを迎え入れる場面を考えなさい、とルカは語っています。そのことを、自分たちの教会の歩みに重ねて考えなさい、と指示しているのです。

わたしたちは、初めて長坂聖マリヤ教会に来られた人をどう迎え入れているでしょう。また、互いをどう迎え入れているでしょう。歓待=ホスピタリティは、初めて会う人に対してだけ為される行為ではありません。既に互いに知り合っている人であっても、初めて会う人であるかのようにして迎え入れるとき、それは歓待=ホスピタリティの行為になります。私たちは互いをどのように歓待しているでしょうか。そのことは、イエスさまを私たちの中に迎え入れることと別のことではないですよ、とルカは語っています。

この「マルタとマリア」の話は、直接的には、イエスさまがご復活された後の、旅する宣教者たちへの教会内の人々の歓待のモデルとして示されているのですが、それを私たちがイエスさまにおいて互いに迎え入れあうことについての教えとして読むことは、ルカの意図から外れたことではないでしょう。

さて、マルタにはマリアという妹がいました。マルタがイエスさまを家に迎え入れ、一生懸命にもてなそうとして、料理を作るなどして忙しくしているというのに、マリアはイエスさまの足下に座って、イエスさまの話に聞き入っていました。マルタは、そんな妹に苛立ち、「イエスさま、何とも思われないのですか?」と不満を訴え、マリアに教え諭すよう求めます。

すると、イエスさまはマルタに言われました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけだ。マリアは良い方を選んだ。それが取り上げられることはない。」

マルタが忙しくしていた、ということを記すのに、ルカが使っている動詞は、ペリスパオーという言葉です。スパオーは引き抜く、引きはがす、ペリは周り、という意味ですから、あるべき中心から引き離され、周りに心を散らしていた、という意味合いになります。ホスピタリティにおいて、あるべき中心はなんでしょうか。お客さんですね。この場合はイエスさまです。

マルタは、どうもてなそうか、どんな料理を出そうか、と忙しく立ち働いているわけですが、その時、彼女は自分が中心になってしまっているのです。前回の話の、律法の専門家と同じです。自分を中心にすえて、いかに実践するかと、考え、行動している限り、よいおもてなしはできません。完璧にしようとすればするほど、むしろ相手を無視することにさえなりかねません。

もてなし/歓待/ホスピタリティは、自分を空しくして、相手を中心にしてこそ、よくなしうるものです。歓待は主客が転倒することで成立するのです。愛の実践とは、そういうものだ。あなたがたは、すべての人を、相手の中にイエス・キリストを見て、歓待しなさい、そう勧められているのです。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただひとつだけである。」

この愛情溢れるイエスさまの言葉は、教会生活の中でいろいろと思い悩み、心を乱すことの多い私たちに向かって語りかけられている言葉です。思い悩み、心を乱しているとき、思い起こしましょう。必要なことはただひとつだけ。自分を中心に置かず、イエスさまを中心におくならば、それは示されます。

結びに、今朝、日曜学校の礼拝でうたった聖歌の歌詞を祈りとして献げたいと思います。

神様。日々の歩みの中で、いつしか自分を中心に据えて陥ってしまった疑いと罪の沼、崩れ去った愛の中から、主よ、どうか私をひきあげてください。わたしたちは、今、心をみもとに高く上げます。アーメン

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