人を赦せない者への言葉

17. 6月, 2013 • 人を赦せない者への言葉 はコメントを受け付けていません。

聖霊降臨後第4主日(C年, 特定6)説教
ルカ7:36-50

先々週からルカによる福音書の第7章をお読みしています。ローマ軍の百人隊長の僕を、百人隊長にもその僕にも会うことなく癒されたという出来事は、列王記下5章に記されている預言者エリシャがシリアの軍司令官ナアマンに指示を与えるだけで会うことなく癒された出来事を思い起こさせるものでした。ナインのやもめの息子が蘇生した出来事は、列王記上17章に記されているエリシャの先生、大預言者エリヤがフェニキア人のやもめの息子を蘇生した出来事を思い起こさせるものでした。そして、その後、今日の箇所の前に、これらの出来事を弟子たちから伝え聞いた洗礼者ヨハネがイエスさまのもとに二人の弟子を遣わして、「来たるべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせた出来事が記されています。

民衆は、イエスさまにおいて確かに神が働かれていることを見て取りました。神が自分たちを顧み、訪れてくださったことを喜び、しかし、イエスさま、その人のことは、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、エリシャやエリヤと重ねて見る他、実のところ、どういう方なのかは見当を付けられないでいました。その中にあって、洗礼者ヨハネは、イエスさまのことを「来たるべき方」なのではないかと考えたのでした。

ヨハネの弟子たちを帰した後、イエスさまは洗礼者ヨハネのことを「預言者以上のものである」「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」と述べます。洗礼者ヨハネが「預言者以上のもの」であるならば、ではイエスさまは一体どういう方なのか。それが本日の福音書でテーマになっています。

さて、ファリサイ派のシモンという人がイエスさまを食事に招きました。これは私たちがイメージするような、自宅に友人、知人を招いて行う私的な会食とは違います。元々はギリシア、ローマの文化で、食事を共にしながら議論を交わす「饗宴(シュンポジオン)」と呼ばれる会食であったと考えられます。シンポジウムという言葉は日本でも外来語として定着していますが、元々は食事とセットだったんですね。そのような場に今巷で話題のイエスさまを招いた、というわけです。招かれた客だけでなく、そこで交わされる話を聞こうといろんな人が集まっていたでしょう。客を招いた家には、客に会うために誰でも自由に出入りできるという習慣もあったようです。そこに、イエスさまが来られることを聞いて、ひとりの罪深い女が入ってきました。おそらくはその町で売春を生業にしていた女性だと思われますが、福音書記者は具体的なことは省き、ただ罪深い女と記しています。それは、問題の核心に目を向けさせると同時に、直前の箇所で言及されている『大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』というイエスさまに対する非難と繋げて捉えやすくするためでしょう。

彼女は後からイエスさまの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスさまの足に接吻して香油を塗りました。彼女が泣いていたのは何故でしょうか。

イエスさまに対する扱いを見て、心を痛めたからでしょうか。聖書の世界で古代から大切にされてきたこととして、<歓待の掟>があります。見知らぬ旅人であっても、敵対する陣営の人であっても、自分の家に入ってきた人は、大切にもてなし、自分の命をかけても保護しなければならないという掟です。それは信仰生活のモラルを表すものとして、ソドムとゴモラの話をはじめとして、聖書で度々モチーフになっています。しかし、この家の主人シモンは、イエスさまに親しく頬を寄せて挨拶をすることをせず、僕に命じて足のすすぎ水を出さず、髪の毛をオリーブ油で整えることもしませんでした。罪深い女は、その粗略な扱いを見て、涙を流したのかもしれません。

あるいは、おそらく既にイエスさまの話を聞く機会があって、その時に罪を深く痛悔して神に赦しを与えられていた彼女がイエスさまのそばに来て、愛と感謝の思いに圧倒され、涙を流したということかもしれません。あらかじめイエスさまのために香油を持ってきていたのですから、粗略な扱いを見てということよりも、イエスさまへの思いに圧倒されて、と受け取る方が自然かもしれません。

いずれにせよ、彼女のその涙を目にしながら、シモンはイエスさまに冷たい目を向けます。なぜ、シモンは、彼女の涙に感じるところがないのでしょうか。なぜ、シモンは、自分が為すべきであったもてなしを彼女がするのを見ながら、自分がイエスさまをどのように迎えたかということに、思い至らないのでしょうか。

シモンにとって、目の前で起きていることは、イエスさまの名誉に関わることであるのと同時に、それ以上に自分の名誉に関わる由々しき事態でした。女性が、イエスさまの足に触れていること、しかも髪を解いていることは、セクシュアルな行為と見えたでしょう。しかも、その女性は売春婦として知られていたのです。ファリサイ派は食卓を重視し、その備えとして清めを大切にしていました。彼は、イエスさまが罪深い女のすることを黙認されたために食卓が汚されたと感じ、被害者意識の中にいたはずです。

このようにして当事者であることで、わたしたちは、自分の為していることを客観的に見ることができなくなります。神さまとの関係において自分や相手のことを考えられなくなります。目の前の人を自分の立場や利害との関係でしか見られず、その人と神との関係に思いを至らせることなど思いもよらないこととなり、その人の赦しの問題など考えることができなくなります。

シモンは、この怒りを含んだ思いを心の中でイエスさまに向けます。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と。

そのシモンにイエスさまはたとえ話を話されます。二人の借金をしている人がいた。一人は50万円、もう一人は500万円。ふたりは借金を返すことができなかったので、金貸しは帳消しにしてやった。どちらが多く、その金貸しを愛するだろうかと。

このたとえ話は、シモンに自らを客観的に見る視点を与えるものでした。シモンはこの話を聞いて、まさかそれが自分について言われたのだとは思いもよらなかったでしょう。律法をきちんと守る生活をしてきた自分と人の道を踏み外した女とが同列に並べられるなどと、想像もできなかったでしょう。

しかし、神の目から見れば、二人の違いは、50万円の借金と、500万円の借金の違いだ、とイエスさまは言われるのです。しかも、「罪深い女」は、彼女の表した愛と感謝の大きさを見れば、自らの罪を神の前に痛悔することで、既に赦され、解放されていることが分かるではないか、「罪深い女」という過去とレッテル貼りを負いながらも新しい命を生き始めていることが分かるではないか、とイエスさまは言われるのです。そして、あなた自身はどうなのか、とイエスさまは、問いかけられるのです。

こうして、数々の驚くべき奇蹟、力ある業にも増して、ある意味では誰にでもできるはずの人を赦すということを通して、イエスさまは神さまの心を持っていらっしゃることを現されたのでした。「預言者以上の者」、洗礼者ヨハネに道を準備させた方であるイエスさまとは、一体どういう方であるのか、このエピソードほど、よく理解させてくれるものはないのではないでしょうか。

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