もう泣かなくてよい

12. 6月, 2013 • 0 Comments

聖霊降臨後第3主日(C年)説教(ルカ7:11-17)

今週の福音書は、先週の百人隊長の話に続く箇所です。「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた」という言葉で始まっています。ナインという町は、遠くメソポタミアからシリアのダマスカスを通りガリラヤ湖北岸、カファルナウムの辺りに出て、そこから地中海岸へと続く古い通商路沿いにあった町です。カファルナウムから西南に約40キロくだり、イズレエルの谷に出るところにありました。

イズレエルという土地は、その所有欲と宗教を堕落させた罪とで古代イスラエルで悪名の高い王アハブや女王イゼベルと、大預言者エリヤが対決した場所として記憶されている場所です。本日の旧約聖書でお読みしたように、預言者エリヤによって顕された印象的な奇蹟のひとつがフェニキア人のやもめの一人息子の蘇生でした。ナインの町での出来事は、この旧約の出来事と響き合うように語られています。

さて、イエスさまが町の門に近づかれた時、葬送行列に出会われました。棺というと箱のようなものをイメージしますが、当時は逝去者を板の上に乗せて運んだようです。ですから、何が起こったのかすぐに見て取ることができたでしょう。それは、ある母親の一人息子が死んで、棺がかつぎ出されたところでした。「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくてよい』」と言われました。ここで使われている「憐れに思い」という言葉は「はらわたがちぎれる思いをする」という意味の言葉です。家族を失って苦しむ多くの人たちのカウンセリングをしてこられた方によると、最も立ち直るのが困難なのが、家族に自死された人と、子に先立たれた親、とくに母親みだということです。イエスさまは、子を失った母親の嘆きを見て内蔵がちぎられる思いにかられ、母親に声をかけられたのでした。

もし、この時、嘆き悲しむ母親を目にしながら、イエスさまが通り過ぎておられたとしたら、どうでしょうか。イエスさまのすべての教え、すべての業は、わたしたちが最も助けと慰めを必要とするときに意味を持たないものになっていたのではないでしょうか。

イエスさまは、死の別れはこの世の常である等々と言って、そのまま行き過ぎようとはされませんでした。内蔵のちぎれる思いをされ、近づき、棺をお掴みになって言われました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。すると、死人が起き上がってものを言い始めました。

これを目撃した人々は皆恐れ、口々に神への賛美を口にした、と書かれています。人々は何と云ったでしょうか。「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った、と書かれています。

先週の福音書には、イエスさまの教えや業を伝え聞いたローマ軍の百人隊長が、そこにイエスさまの技量や知識ではなく、神の働きを見た出来事が記されていました。イエスさまは百人隊長の信仰を賞賛され、その瀕死の僕を癒されました。今週の福音書では、同じテーマがさらに展開されています。今やひとりの人ではなく多くの人がイエスさまにおいて神の働きを見るようになりました。そして、瀕死の人ではなく、既に亡くなった人が蘇生されるという奇蹟が顕されたのでした。

この出来事を目撃した人々は、神を賛美しました。奇蹟行為者としてのイエスさまの能力を賛美するのではなく。人々が口にした「神はその民を心にかけてくださった」と訳されている言葉は、「心にかけて、訪問してくださった」「恵みを持って顧みてくださった」という意味を持つエピスケプトマイという言葉で言い表されています。これはルカ文書でキーワードになっています。新約聖書全体で11回の用例がある内、半数以上がルカの文書にあります。第一章にあるザカリヤの賛歌では2回も使われています。祈祷書の訳で読んでみましょう。

「ほめたたえよ、主イエスラエルの神を。神はその民を訪れてこれを解放し、わたしたちのために力強い救いを、僕ダビデのために建てられた。昔から聖預言者の口をもって語られたように、私たちを敵から、また憎む者の手から救い、わたしたちの先祖を憐れみ、聖なる契約を心に留められた。父祖アブラハムに誓われたとおり、わたしたちを敵の手から救い出し、生涯清く正しく、み前で恐れなく仕えさせてくださる。幼子よ、あなたはいと高き者の預言者と呼ばれる。主のみ前に先立ち、その道を備え、罪の赦しによる救いを、その民に知らせる。神の憐れみ深いみ心によって、あけぼのの光がわたしたちに臨み、暗闇と死の陰にいる人を照らし、わたしたちの足を平和の道に導く。」

「神はその民を訪れてこれを解放し」の「訪れて」、「あけぼのの光がわたしたちに臨み」の「臨み」が、今日の福音書にある「心にかけてくださった」と同じ、このエピスケプトマイという言葉で言われています。ルカは、ナインの出来事においてこのザカリヤの預言が成就したと言っているのです。今日の福音書の箇所にすぐ続いて、洗礼者ヨハネが弟子たちをイエスのもとに送り、「来たるべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせるというエピソードが記されているのもそのためでしょう。

かつて預言者エレミヤは、バビロニア帝国によって国を滅ぼされ、家を追われ、親しい人たちを失って嘆きと失意の底にあったイスラエルの民に、告げました。「そのときには、と主は言われる」という言葉で始まる、エレミヤ書第31章の「新しい契約」と題された箇所です。

「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」

<そのとき>がイエスさまにおいて実現したのでした。それは、たまたまナインのやもめの息子においてだけ実現したのではありません。イエスさまのご復活によって、すべての人において永遠のいのちにあずかる望みが与えられたのです。

イエスさまがナインのやもめにかけられた『もう泣かなくてよい』という言葉は、ご復活の主から私たち皆に向けられている言葉なのです。

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