聖霊を受けるということ

20. 5月, 2013 • 1 Comment

聖霊降臨日(C年)説教(ヨエ3, 使2:1-11, ヨハ20:19-23)

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。…イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

福音書記者ヨハネは聖霊降臨の出来事をこのように記しました。ここで語られているのは最も根源的な信仰体験です。すなわち、敵を恐れていた民が、神の霊を受け、神に守られた民としての経験をし、それを通してひとつの神の民として再生する、誕生するという体験です。

旧約聖書は戦争の記事で一杯ですが、それはイスラエルという民が、<聖戦>の経験、すなわちヤハウェが自分たちを守って敵と戦われるという体験を通して形成されたことを反映している、と言われます(フォン・ラート『古代イスラエルにおける聖戦』)。<聖戦>というと、中世の十字軍であるとか現代のイスラムのジハドのように、神のために、神の義のために、などと、神さまを持ち出して人を殺すことを正当化するという忌まわしいイメージがつきまといますが、旧約聖書を丁寧に読むと、実は全く正反対であることが分かります。聖戦のきっかけになったのは、ヤハウェの祭儀に対する異教の祭儀の脅威ではありませんでした。政治的存在としてのイスラエルに対する他民族からの攻撃でした。すなわち、人が神のために戦ったのではなく、神が人のために戦ったのです。それが<聖戦>でした。

「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」(出14:13b-14)これは、追いかけてくるエジプトの軍隊を見て恐慌状態に陥った民に向かってモーセが語った言葉です。

イスラエルは、外面的に見れば弱小部族の緩やかな連合体に過ぎませんでした。彼らは職業軍人からなる軍隊を持っていませんでした。敵の脅威にさらされると、ヤハウェの霊に満たされた者が指導者として立ち、ヤハウェの霊を受けた者たちだけが集まって戦争に出ました。戦いを決したのは、彼らの武力によってではありませんでした。敵の心に引き起こされるヤハウェへの恐れによってでした。聖書はこの点で誤解が生じないように注意深く記されています。この<聖戦>という形象における宗教体験の中から、イスラエルはヤハウェの人格的な救いに信頼するひとつの信仰共同体として形成されていったのです。

人の力に頼って事態を見る者の目には絶体絶命の破滅的状況、希望がない状況、不安や恐れによって自らの周りに垣や塹壕をめぐらし、堅く閉じこもっている状況にあって、聖霊を受けて強められ、神に従って外に踏み出して行った時、神の創造的な業によって不可能と思われた状況が打開される、それがイスラエルの根源的な信仰体験だったのであり、聖霊降臨の出来事におけるイエスの弟子たちの信仰体験だったのです。

<聖戦>という宗教的制度は、イスラエルが国家を為したときになくなりました。戦争は職業軍人が行う世俗的な行為になりました。しかし、その信仰の伝統は預言者によって継承されて、深められていきました。かつての<聖戦>の伝承においては指導者と民の英雄的な姿が語られ、他方で敵は悪として抽象化されて人間として省みられることがありませんでした。ところが、先ほど紹介したモーセの言葉の例に見られるように、次第に<聖戦>は民が参加して戦われるものとしてではなく、ただ神の業を見るものとして記されるようになり、また敵の人間性に関心が持たれるようになります。神の業としての<聖戦>の把握が徹底されていったのでした。

前4~3世紀頃に書かれたと考えられるヨエル書には、神はすべての肉に霊を与える、と記されています(ヨエ3:1)。イスラエルの指導者だけでなく、また神の民にだけでもなく、すべての人間に、霊なるものから最も遠いところにあるすべての肉なるものに神は霊を与える、と言われたのです。

そして、それはイエスさまに至って、愛をもって恐れに応えよ、敵を愛せ、という教えに結晶します。敵を愛することが唯一の究極的ないのちを与える応答である、それが世にいのちを与えるために御子を送られた神の働きである、という理解に行き着きます。

『3.11後を生きる』という、いろんな方の説教を収めた小冊子のシリーズがありますが、その中の一冊、晴佐久神父さんのその名も『恐れるな』と題された本に、教えられる一節がありました。

「神から離れているからこそ、恐れにとらわれているのであり、その状態を罪と言います。実際にどんな苦難があるかということよりも、その苦難の中で神と離れているのか、いないのかが重要です。苦難の時は、恐れから解き放たれて神と結ばれる恵みの時だ、“海がどよめき荒れ狂う”ならば、罪からの解放の時が近づいているのだ、ということです。今こそ、そう言わなくてはなりません。」

恐れを作り出す生の心配、死の不安にさらされている苦難の時、それは聖霊を受け、天からの力に包まれて、恐れから真に解き放たれる時、神と結ばれる恵みの時、神の創造の業が行われる時です。「心を騒がせるな、脅えるな。」死に打ち勝たれ、復活されたイエスさまのこの言葉に信頼してエルサレムに留まり聖霊を受けた弟子たちが歩んだ道、神を愛し、人を愛する道を、私たちも歩んでまいりましょう。

1 Comment to “聖霊を受けるということ”

  1. Ozeki Toshiaki より:

    聖なる戦いというものを学ばせて頂きありがとうございました。私達が色々な事をしようとする時、「自分が」という思いになりがちですが、事を成就させて下さる方の力なくして叶わない事ですね。心したいと思います。晴佐久神父さんの言葉も感謝いたします。

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