世が与える平和、主が与える平和

6. 5月, 2013 • 1 Comment

復活節第六主日(C年)説教(ヨハ14:23-29)

いよいよ復活節も終わりに近づいてまいりました。今週の木曜日9日には「昇天日」を、さ来週の日曜日には「聖霊降臨日」を迎えます。

今年はいつになく気候が不順でしたが、「聖霊降臨日」を迎える頃には、田植えが終わり、夏野菜の苗も植え終わっているのではないでしょうか。先ほど読まれた使徒言行録(14:8-18)やヨエル書(2:21-27)には、自然の摂理の内に神の恵みの業とその確かさを見て、天地の創造主である神をこそ信頼しなさいという教えが述べられていました。

そして、福音書には、その神こそ、イエスさまの御父であり、御父はイエスさまの名によって聖霊を遣わし、時間と空間を超え、すべてのイエスさまを愛する者にすべてのことを教え、み言葉の真の意味を悟らせて下さる、と述べられていました。これは、ヨハネ福音書の13章から16章にかけて記されているいわゆる「告別説教」の一部です。イエスさまが十字架につけられる直前、悲しみ、混乱する弟子たち、自分たちが歩んできた道が無意味なものになるという恐れと惑いに囚われた弟子たちに向かって、ご自分が天に上げられた後の弟子たちの歩みのために語られた言葉です。

ヨハネ福音書では、ここで初めて「平和」という言葉が登場します。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(14:27)

次に登場するのは、告別説教の結びにおいてです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)

そして、復活されたイエスさまは、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのでした。

「平和」という言葉のこの使われ方を見ると、それに特別な意味が込められていて、それが弟子たちの共同体、教会に与えられている賜物を言い表す鍵となる言葉であることが分かります。

「平和」とは一般に、秩序が乱されていない状態、争いがない状態と理解されます。イエスさまを十字架に付けた者たちが熱心に求め、あるいは保とうとしたのは、その意味での「平和」でした。イエスさまは、宗教指導者たちからも、政治指導者たちからも、体制を転覆する者として憎まれ、処刑されたのです。

その前夜、イエスさまは、彼らの「平和」に対置するように、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」と言われました。

では、このイエスさまが「わたしの平和」と言われた平和、教会に与えられ、教会が世に与えるべき平和とは、どういう平和でしょうか。

世が与える平和が高みに立つものが担うものであるのに対して、イエスさまの平和は低みに立つものが担うものです。世が与える平和が人間の支配が作り出し、犠牲を出してでもそれを維持しようとするものであるのに対して、イエスさまの平和は神の支配の現れであり、すべてを癒し、新たにしようとするものです。それは、自己充足的な在り方ではなく相互に関わり合う在り方において、強さではなく弱さにおいて、語りたがるのではなく耳を傾け合う開かれた在り方において、特徴付けられるものです。

世は、復活されたイエスさまを見ることができず、イエスさまのこの平和を理解することができません。

そのよい実例が、<憲法九条>、特にその第二項後段の交戦権放棄をめぐる議論です。世は、それを占領下で押しつけられた暫定的な規定、無責任な楽観主義、国際法上の非常識としか考えません。しかし、その実際の生みの親で、戦後の初代総理大臣となった、幣原喜重郎は、国際政治の現実への無知や楽観から憲法九条を発案したのではありませんでした。全く逆でした。彼は外務大臣としての経験を踏まえて、こう言っています。「軍縮交渉とは形を変えた戦争である。平和の名をもってする別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性など初めからないものなのだ。…要するに軍縮は不可能である。絶望とはこのことであろう。…非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。…要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。」そして、こうも語っています。「原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることによって再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。死中に活というのはその意味である。」

幣原喜重郎はキリスト者でした。彼は九条について幾通りかの仕方で弁証していて、国連のような組織による暴力の独占というビジョンを語っていたりもするのですが、今ご紹介した弁証では世の語る物語の破綻を指摘していて、世が与える平和からの転換を明確に語っています。このことを、私たち日本のキリスト者は覚えておくべきでしょう。

ただし、彼の議論は世の論理を放棄するところで留まった観があることは否めません。主の平和は、もっと積極的な響きを持つべきものです。

イエスさまは、高みから語られる物語、為政者が語る偽りの物語では見落とされていた人々、排除されていた人々を弟子に召され、共に歩まれて、その新たな物語を通して神の国を示されました。“家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。”イエスさまに結ばれて、イエスさまと共に低みに立つ共同体では、どんな人の物語も忘れられず、切り捨てられることがなく、むしろそれらの内に真実が聞き取られ、それによって進められる真に完全なるものへの歩みは既に祝祭的な兆しを帯びます。それは、当てにならない遠い将来に向かう不確かな歩みとは違います。

4月の半ばに沖縄で第二回世界聖公会平和協議会があって、わたしもお手伝いで参加させて頂きましたが、幾度となく実感したのはこのことでした。そこに集まったのは、米国、カナダ、イギリス、アイルランド、オーストラリア、フィリピン、韓国、そして日本、ヤマトとウチナーの教会のメンバーでした。北東アジアの緊迫した状況、沖縄が経験した地上戦とその後の歩み、米軍基地といったことが取り上げられ、外国から来た参加者の中には知らなかった現実にどう考えればよいのかと戸惑う人も少なくなかったようですが、信頼関係の内に耳を傾けあい、話し合うことができました。フィリピンの首座主教さんは、沖縄に比べれば自分たちの置かれている状況は複雑でないと言われました。韓国の司祭さんは、沖縄戦が終わった時の孫を抱きしめているおじいの写真を見て、そこに御父とイエスさまの関係を重ねて説教されました。アメリカ人の信徒の参加者は、ここに集まっている我々は68年前は敵同士だったんだよね、と呟いていました。協議会そのものが、大韓聖公会と日本聖公会の協力によって成立したものでした。政治やマスメディアの世界、あるいはインターネットで語られている物語からは全く想像できない和やかな関係が、世界に広がる主の教会に確かに存在していることを改めて実感しました。「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」というイエスさまの言葉が現実になっていることを覚え、喜びを感じました。

教会には意見の相違がないわけではなく、またそこで論争が排除されるべきでもありません。しかし、聖霊の現存とその働きに信頼できるならば、私たちは心乱されず、与えられた平和を生きることができるのです。移り変わりの多いこの世において、常に心を変わることのない喜びに置くことができますようにと祈りながら、共にこの道を歩んでまいりましょう。

1 Comment to “世が与える平和、主が与える平和”

  1. Michinori Mano より:

    ※参考資料:「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について-平野三郎氏 記―」(憲法調査会事務局)
    http://kenpou2010.web.fc2.com/15-1.hiranobunnsyo.html

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