洗礼とは

14. 1月, 2013 • 1 Comment

顕現後第一主日(C年)説教(ルカ3:15-16,21-22)

baptism-s洗礼者ヨハネは、自分は水で洗礼を授ける、しかしキリストは聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる、と言いました。その洗礼について福音書と使徒言行録には、「洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と記されています(マコ1:4, ルカ3:3, 使13:24,19:4)。

ここで問題です。私たちが受けた洗礼は、この洗礼者ヨハネが授けた洗礼と同じでしょうか。違うでしょうか。…洗礼者ヨハネの言葉からすると、違うように思われます。しかし、私たちが受けた洗礼は水を用いて授けられなかったでしょうか。するとやはり、洗礼者ヨハネが授けたのと同様な洗礼を私たちは受けたのでしょうか。こんな疑問を持って祈祷書の洗礼堅信式文を注意して読んでみると、何気なく流してしまっていた言葉に改めて気づかされます。今回読み直してみて、私は祈祷書の式文、特に279頁の祈りの言葉に、新鮮な感動を覚えました。皆さんもあとで是非、ゆっくり読み直してくださればと思います。

私は、洗礼者ヨハネについても、キリスト教における洗礼の意味についても、ちゃんと理解していなかったことに気づかされました。気づきのきっかけはYM姉に頂きました。昨年4月以来毎週木曜日に聖書の学びを続けていますが、12月の聖書の学びの時間にYM姉から「ヨハネ」という名前にはどんな意味があるのですか?という質問を頂きました。それが、私が、洗礼者ヨハネに対する見方を改めるきっかけになりました。

イエスさまのお名前は、毎年元旦に「主イエス命名の日」の礼拝がありますし、皆さんご存知だと思いますが、「ヤハウェ(神)は救い」を意味する言葉です(「イエス」は、音の表記、発音の仕方によって、イェシュア、ヨシュアともなります)。たしかに、聖書に出てくるこのようにYの音(ヤ、ヨなど)が入っている名前はまずヤハウェへの信仰を言い表す意味を持っていると思って間違いないので、「ヨハネ」という名前にも意味があるはず、ルカ福音書には、イエスさまの命名の場合と同じように天使ガブリエルを通して神さまは「その子をヨハネと名付けなさい」と命じたと書かれていますから、この名前の意味は重要なはずです。

そこで調べてみたところ、「ヨハネ」という名前は「ヤハウェは恵み深い」という言葉であることが分かりました。旧約聖書に時々出てくる「ヨハナン」という名前と同じ言葉です。

これまで洗礼者ヨハネというと神の審きを告げる厳しい預言者、旧約最後の預言者というイメージを持っていました。このイメージを修正しなければなりませんでした。それは洗礼者ヨハネに固有の具体的な働きを捉えたものではありませんでした。

イエスさまが、名前の通り、神からの救いであったように、洗礼者ヨハネは、名前の通り、神からの恵みであったのです。洗礼者ヨハネのミッションとは、まずもって、民すべてに対する神の恵みを告げることだったのです。

当時、古代イスラエルの宗教は様々な派に分裂していました。さらに、それぞれが信仰者につきつける要求によって、それを満たすことができる人とできない人が生じていたので、神の民は四分五裂の状態でした。そこに洗礼者ヨハネが現れ、神は悔い改める者をすべて赦される、と告げました。典礼をいかに守るか、聖書をどう理解するか、生活をどう整えるか、信仰と関わって文化的、社会的、政治的現実とどう対決するか、そうした様々なことをめぐって対立し合ったり、救いへの希望を失っていた人々を、洗礼者ヨハネは、神は命であり、愛であるという根源的な事実に立ち返らせ、悔い改めの歩みを起こした人に神の赦しの保証として洗礼を授けたのでした。

それはファリサイ派やエッセネ派がそれぞれの理解と定めに従って日に何度も繰り返していた清めの儀式とは、意味が違いました。神さまからの保証ですから、それは何度も繰り返される必要はなく、人生にただ一度だけの式でした。

このヨハネの授けた洗礼は、回心した個々人に神との契約に生きる新たな力を与えただけでなく、神の民の間にあった分裂を意味のないものとし、神の訪れに向けて共に備えることができるようにしました。まさにその意味で、洗礼者ヨハネは神からの恵みでした。

神のみ子であり、したがって悔い改める必要はないはずのイエスさまがヨハネの「悔い改めの洗礼」をお受けになったのは、このようなヨハネの働きに全面的に賛同されたからですし、また悔い改めの歩みを起こした人々と連帯するためだったのでしょう。

しかし、イエスさまが洗礼をお受けになった時、それはそれ以上の意味を持つ出来事となりました。

「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」

この言葉には天地創造の言葉が重なって響いています。

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。…神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」

(※「動いていた」と訳されている言葉は、原文では「羽ばたいていた(= hover tremulously、ピエル態(能動態・強意形))」といった意味合いの言葉で表現されていて、並行関係がより明瞭に分かります。先週取り上げたT.S.エリオットの詩の第二連、賢者がエルサレムについた場面の、「川が流れ、水車が闇を打っていた」という1節も、天地創造の言葉を響かせていないでしょうか。)

イエスさまの受洗は新しい創造の始まりを告げる出来事となったのです。イエスさまが洗礼を受けられた時に聖霊が降ったことによって、洗礼は、神からの赦しの保証であるだけでなく、新しいいのちを与えるものに、新しい人間へと変容させるサクラメントになったのです。

アダムにおいて失われた神の似姿としての人間の本来の姿が、今やイエスさまにおいて回復されたことを私たちは告げ知らされました。私たちは、洗礼を受けてイエスさまと結ばれることで、人間とこの世界の本来の姿を把握できるように変えられます。真の喜びを知る者に変えられます。同時に、それ故にまた、罪の真の悲しみが認識されるようにもなります。もはや自己中心的、自己充足的な、自らとこの世の在り方は、安住できるものではなくなります。T.S.エリオットの賢者たちが帰国した時に発見したように。洗礼は、キリストの剣を私たちの人生に投げ入れ、人生を真の葛藤に、成長への避けがたい苦痛と受難にします。その意味で、キリストによって授けられる洗礼は、聖霊と「火」による洗礼です。

しかし、わたしたちは、それに立ち向かうのに十分な力を与えられていることも知っています。イエス・キリストと結ばれている今、私たちは、その死と共に、復活にもあずかることを知っているからです。

1 Comment to “洗礼とは”

  1. Fusako/ Amano/ より:

    洗礼を受けることの意味を長い間考えておりましたが、”キリストの剣”に既に貫かれ、葛藤に燃え尽き、何かチャンスを逃したように思えます。同時に神の愛に活かされ、感謝する毎日であります。霊的にキリストを感じなさい、と教えてくれたスペイン語の先生のおかげでもあります。ありがとうイエスキリスト様。

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