“貧しい農民と労働者の司教”ラメント師父の殉教

22. December, 2006 • 3 Comments

ヘロデ王はメシアが生まれると聞いて不安を抱き、ベツレヘムとその周辺にいた幼い子どもたちを皆殺しにしました。その子どもたちの姿にフィリピンで続く政治的殺害の犠牲者たちの姿が重なって見えてなりません。イエス様がお生まれになった頃に民衆が受けていた政治的抑圧と搾取による苦しみ、そして、ヘロデ王に子どもたちを殺された人々の悲しみに、フィリピンの民衆の姿、政治的殺害の犠牲者の遺族の姿が重なって見えてなりません。クリスマスを前にしたこの時にあって、フィリピン独立教会の元首座司教アルベルト・ラメント師父のことを振り返りたいと思います。

2006年10月3日朝4時頃、タルラック市にある教会のアルベルト・ラメント司教の居室に、正体不明の暗殺者が押し入りました。師父は、6~7箇所を刺されて殺害されました。69歳でした。

警察による捜査は異例のはやさで進められました。現場検証の後すぐに、政治的な動機はない単なる強盗致死事件であると発表し、3日後には容疑者とする4人を逮捕して事件は解決したと発表しました。ちなみに、警察は、遺体が発見された後、現場を封鎖して現状確保する措置を取りませんでした。また現場検証には、タルラックの市長、国家警察のタルラック州長官、および町長と町役員が立ち会った一方で、遺族や司祭は1人として立ち会うことが許されず、その後に聞き取りが行われることもありませんでした。殺害の前日に司教の住まいの前で不審なオートバイが1人の司祭によって目撃されていますが、警察は取り合いませんでした。

警察は、タルラック市のマジック・スター・モールでスリなどを常習的に行っていた悪名高い窃盗団が、ラメント司教がストリート・チルドレンに炊きだしを行っているのを見て犯行を思いついたのだとしています。9月11日と23日に、司教の居室に泥棒が入ってDVDプレイヤー、少額の現金、指輪、安価な携帯電話が盗まれていたのですが、その泥棒がまた侵入して殺害したのだというのです。ちなみにラメント師父は9月11日は不在で、9月23日の時は寝ていたのですが危害を加えられていません。

なぜ「悪名高い」窃盗団が、盗むものもないと分かっているところに何度も繰り返し入り、僅かばかりのものを盗むために殺害までしたというのか?犯人の家から見つかったというDVDプレイヤーなどが証拠として示されていますが、職業的窃盗集団が何故2週間前に盗んだものをまだ自宅で持っていたのか?など、この警察による発表は理解しがたい不審が多く、遺族や関係者は誰もその発表を信じていません。ラメント師父の殺害は、政治的動機によって入念に計画されたものであって、民衆の闘いに関与したことの必然的な結末であったと信じられています。

この2年間、ラメント師父は殺害を予告する脅迫状を何通も受け取っていて、国家警察はそれを「知って」いたことを認めています。また、師父が運営委員をしていたカビテ輸出加工区の労働者支援センター(WAC)によると、フィリピン国軍の「オプラン・バンタイ・ラヤ(自由を守る作戦)」の暗殺リスト(Order of Battle)に入れられていたという情報があるとのこと。師父は家族に、「彼らは次に私を殺すだろう。しかし、私は神への義務と人々に仕えることを決して放棄しない」と話していました。また、周りの人に命の心配をされると、「自分はもう片方の足を墓に入れている。もはや何も恐れることはない。神と人々に仕えるという誓いを全うするために自分の命を賭けるだけのことだ」と話していました。

なお、ラメント師父殺害の3日後、ミンダナオのアントニオ・アブロン牧師は「アブロン牧師、元首座司教ですら殺されたんだ。お前をこの地域での見せしめにしてやろう」と書かれた脅迫状を受け取っています。他にも、パンガシナンのテリー・レボリド牧師、ビザヤ地方のロメオ・タグド牧師、マルコ・スラヤオ牧師、西ミンダナオのソニー・テレロン牧師が同様な脅迫状を受け取っています(いずれもフィリピン独立教会の司祭)。

1993~1999年まで首座司教をつとめたラメント師父は、近年はフィリピン独立教会の司教会議の議長としてアロヨ政権下の政治的弾圧、人権状況の悪化に対して強い非難を繰り返し、特に、活動家、弁護士、報道関係者、教会関係者や一般市民の超法規的殺害が続いていることを強く糾弾していました。また、憲法改悪に反対し、アロヨ大統領の選挙不正疑惑を問い、辞任を要求していました。司教会議の議長としてサインした最後の手紙では、信徒に次のように呼びかけていました:「勇気を見いだして、国のたましいを呑み込もうとしている闇に立ち向かおう。フィリピンの民衆の利益と福祉のために純粋に尽くす政府と公正な社会の建設に向けて歩みを続けよう。」

ラメント師父は、フィリピン教会協議会(NCCP)の元議長で、エキュメニカル司教会議(EBF)の共同議長もつとめていました。フィリピン共和国政府とフィリピン民族民主戦線(NDF)の間の和平対話の監視団のメンバーであり、フィリピン人権連合(KARAPATAN)のタルラック地方の指導者であり、「平和を求める巡礼者」の呼びかけ人でした。

しかし、こうした指導者としての働き以上に、何よりもラメント師父の思い出を特徴づけているのは、貧しい民衆の中に自然に溶け込んでしまうような素朴で飾らない人柄であり、労働者の現場と関わって共に闘う姿でした。引き込まれるような笑顔を持っていました。人を笑わせるのが大好きな方でした。「誰でも会った最初は司教様だと気づかないような人だった」という言葉が葬儀に寄せられた中にありましたが、私も実は亡くなられるまで知りませんでした。

私はラメント師父に2004年11月末にミンダナオで開かれた「いのちのための平和」第1回民衆会議で初めてお会いしました。その10日ほど前に、タルラックの砂糖農園ハシエンダ・ルイシータで、デモのために集まっていた農園労働者に対して国軍や国家警察が無差別発砲し、7人を殺害(後日さらに7人)、181人に傷害を負わせるという事件が起きたことを話してくださり、「さあ、このことを神学しなさい。(Now, theologize this!)」と会議参加者に促されました。私は、この時、ラメント師父が、「白昼に公然と国家が民衆を殺害するなんて、マルコスの時代でもなかったことだ」と言われるのを聞いて、フィリピンの政治的弾圧に関する現状認識を改めたのでした。同様にハシエンダ・ルイシータの農園労働者を支援していたフィリピン独立教会のウィリアム・タデナ牧師が殺害されたのは、その4ヶ月後のことでした。ラメント師父に殺害を予告する脅迫状が送付され始めたのもその頃のことです。

ハシエンダ・ルイシータ農園の労働者支援と共に力を入れていたのが、1998年から関わっていたカビテ輸出加工区の労働者支援でした。

マニラの南方約30kmにあるカビテ輸出加工区は、日本のODAで作られました(国際協力銀行(JBIC)による円借款33億4500万円(1991-1997))。政府主導で作られたこの輸出加工区の「成功」を受けて、その後、カラバルソン地域を中心に私企業による特別経済区が28も作られています(フィリピン全体の約半数)。入居する企業は、韓国系40.7% (109)が最も多く、次が日系32.5% (87)、他にフィリピン系12.7% (34)、台湾系4.5% (12)、中国系2.6% (7)となっています。カビテ輸出加工区で働く工場労働者は63,654人、関連部門で8,184人、その内の女性の比率は64.9%。(※ 数値はいずれも2003年のもの)

2003年にJBICによって行われたフィールド調査の報告には、労働者が置かれている状況について、A4版15頁の中でわずか4行の言及があります:「最低賃金よりも低い賃金しか支払われていないなどの問題が生じた場合は、従業員は輸出加工区(CEZ)の産業関係部門に苦情を申し立てることができる。CEZは、問題の企業に改善勧告を出し、もし従わなければ、輸出入の認可を停止する。1つの企業が認可を取り消され、是正措置を実施した例がある。」

しかし、同年に出されたフィリピン政府・女性地位向上委員会(NCRFW)によるカビテ輸出加工区の労働者に関する報告は以下のように報告しています(国連アジア太平洋経済社会委員会のオンライン・アーカイブで参照):
・46000人の女性労働者が、睡眠時間の不足、くつろぐための時間と施設の欠如、行列で待たされることなどによる疲労を強いられていること。
・女性労働者は、平均12時間の労働に従事した後、家事や子育てなどで平均7時間の労働をしていること。そのため、集中力が欠けがちになり、事故が起こりやすくなっていること。
・多くの住まいは、明かりに乏しく、風通しが悪く、窮屈で、衛生状態が悪く、ベッドをシフト制で共有していて、飲料水の配水管が通されていないために離れた場所まで水汲みに行く必要がある状態であること。

ラメント師父の殺害は、このカビテ輸出加工区で、フィリピン政府の経済区庁(PEZA)による労働組合・労働者弾圧が激しさを増している最中に起きました。

2005年1月に自動車部品などを製造する日本企業YAZAKIグループのEDS MANUFACTURING,Inc(EMI)の労働組合副委員長クリス・アバッド氏が殺害され、2006年4月28日にはYAZAKI-EMIの労働組合前委員長ジェラルド・クリストル氏が警察の諜報部員によって射たれて重傷を負う事件が起きていました。ラメント師父殺害の前後(9/25,27, 10/19)には、2つの韓国系の衣料品工場で、ストライキ中の労働者が地方警察、輸出加工区警察、及び工場警備員によって暴行を受ける事件が起きています。これらの事件に対する国際的非難の高まりを受け、フィリピンで生産している米国等の衣料ブランド企業、在比各国商工会議所は、それぞれ合同で声明を出し、民主的国家でこのような暴力が使われてはならないとアロヨ大統領に呼びかけました。異例なことです。衣料ブランド企業の合同声明は、ラメント師父殺害の真相究明も求めています。その後も、12月11日に、YAZAKI-EMIのゲート前で公衆の面前で2人の労働組合職員が射殺され、1人が傷害を負う事件が起きています。

ラメント師父の殺害は、日本のODAで作られてモデル的な位置づけを与えられている輸出加工区における、労働者の人権の制度的な蹂躙と、政治的弾圧の激化の過程で、起きたのです。

アロヨ大統領は、特に外国企業によるフィリピンへの直接投資誘致に積極的な取り組んでおり、優遇措置と規制緩和措置とを政策の中核においています。一方、輸出加工区に入っている日本、台湾、韓国などの企業は、フィリピンが他のアジア諸国よりも人件費が高くて競争力をもつことが難しいことなどを理由に挙げながら、労働組合の結成阻止、組合活動の抑止をフィリピン政府に対して公然と求めてきました。フィリピン政府がそれに応えて労働者の基本的な権利を著しく制限し、警察による物理的暴力や暗殺といった手段まで使うために、悲劇が繰り返されています。(※ 2005年のフィリピン日本人商工会議所による「会員企業の賃金・福利厚生水準実態調査」では、組合が存在するのが26社、存在するが形骸化が2社、存在しないのが107社。)

12月9日に行われた日比の首脳会談および外相会談で、阿部首相と麻生外務大臣は、ODAと関わらせて、フィリピンで続く政治的殺害に対して日本で懸念が広がっていることを伝えました。このアクション自体は、政治的殺害を抑止するための画期的な1歩であり、フィリピンの教会や市民団体からも高く評価されました。しかし、カビテ輸出加工区の例が示すように、日本の政府開発援助および民間企業の在り方もまた同時に問われていることを忘れてはならないでしょう。

関連リンク
フィリピン独立教会
日本聖公会の声明

カビテ輸出加工区 関連リンク
WORKERS ASSISTANCE CENTER
カビテ輸出加工区に関する国際協力銀行(JBIC)の報告書
フィリピン政府・女性地位向上委員会(NCRFW)による報告
POLOやGAPなどの衣料品企業による合同声明(11/7)
各国商工会議所による合同声明(11/13)に関する記事
YAZAKI – EDS MANUFACTURING, INC. (EMI)
KAIROSによるアロヨ大統領宛の公開書簡

3 Comments to ““貧しい農民と労働者の司教”ラメント師父の殉教”

  1. k,m says:

    家内の伯父、アルベルト ラメント司教殉教についての記事を寄稿してくださり有り難うございました。司教は親戚の集まりにも気さくに参加したりして、私の拙い英語にも嫌な顔一つせず会話をしてくださるお人でした。生活も本当に質素でこの寄稿文を拝見するまで、これほどまで偉い方とは思いもしませんでした。私も当時、フィリピンに駐在しており司教暗殺には大変驚きました。又、アキノファミリーとは懇意にしていたとの事で暗殺されるとは思いもしませんでした。

  2. k,m says:

    親戚の中にはアロヨに狙われたと言う人もいたと記憶しています。葬儀にはインゴイ元副大統領にも来ていただき、副大統領はずいぶん長い間棺の横でお別れをしていただきました。殉教されたのは随分と前の話ですが、寄稿文を拝見して、つい懐かしさのあまりコメントをしてしまいました。有り難うございます。 草々

  3. コメントをお寄せくださり、ありがとうございました。残念ながら今も状況はあまり変わっていないですね…。

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