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対テロ戦争の名の下にフィリピンで続く人権活動家殺害
10. 1月, 2006 • 0 Comments※ 雑誌『軍縮問題資料』2006年3月号に寄せた記事に、情報ソースなどを加えた。
◆続く人権活動家の殺害
2005年5月12日、夕方6時半、エンマ・ラプスが彼女の父の葬儀から戻ってきて、夕食を終え、親戚や友人13人でくつろいでいたときのこと。エンマは夫エジソン・ラプス牧師の向かいで目を瞑って休んでいた。銃声に目を覚ますと、2人の長袖の服を着た見知らぬ男が立っていた。一人はエジソンのこめかみと腹を撃ち、もう一人が一緒にいた小作農の組合リーダーのマリナオの胸を撃った。エジソンは即死、マリナオは息があったが助からなかった。2人の襲撃者は外に停めてあったエジソンの車の右後輪を撃ち抜き、約20メートル離れたところで待っていた2台のバイクに乗って逃走。4人の男はヘルメットで顔を隠していた。犯人はまだ捕まっていない。
襲撃者の4人は正体不明だが、国軍兵士、あるいはジョビト・パルパラン将軍に雇われた私兵であろうと強く疑われている。
エジソン・ラプス牧師はフィリピン合同教会の東北レイテ教区の監督、「教会人の社会的応答を促進するネットワーク(PCPR)」を創設した1人で、人権NGOカラパタン、パーティーリスト政党バヤンムナのメンバー。フェデリコ・ダカット・アリアンス判事殺害の真相解明を求める会の代表として、パルパラン将軍の下に東ビザヤ地方で激化した、軍による一般市民に対する暴力や超法規的殺害を糾弾する急先鋒だった。また、1995年鉱業法に関する地域会議の準備を進めていたところであり、1ヶ月後には沖縄での日比教会協議会で米軍のフィリピン再駐留に関して報告を行う予定になっていた。日本のNGOや教会と親交を持つ人であり、彼の死は協議会の準備をしていた我々に深い衝撃を与えた。
フィリピンでは2005年に入って人権活動家の殺害がかつてない頻度で相次ぎ、日本キリスト教協議会でも対応を考えていた矢先のことだった。結局、2005年は1年間で教会関係者だけで7名が殺害された。最も被害者が多いフィリピン合同教会では、過去3年間で10件、18人が被害を受け、その内の9人が殺害されている。軍の暗殺リストに名前が載せられている聖職者もいて、脅迫、殺害未遂が起きている(フィリピン独立教会5名、カトリック教会1名。)
「殺害事件の頻度は2000年以降、年々上がっており、2005年に入って最初の数週間で急に増え、新聞報道によると少なくとも34人が殺されている。…アムネスティ・インターナショナルは、これらの殺害に関して犯人の起訴にまで繋がる捜査が行われた例を全く聞いていない。このような犯罪が処罰されることなく横行する状況がさらに悪化することを我々はおそれている。」(2005/2/1 アムネスティ・インターナショナル)
2005年だけで100人近い人権活動家、牧師、弁護士、判事、ジャーナリスト、市会議員、副市長、合法政党の活動家などが殺害された。内、80人は、アロヨ政権の政策に批判的な活動家であったことが確認されており、残りの人々は軍によってシンパ、支持者とみなされていた者か、または共産党員か反体制イスラム教徒の親族だった。
他に、フィリピン国軍と警察は、7件、51人の集団虐殺を犯している。ちなみに最も被害者が多かったのはビクタンでモロ民族の26人が虐殺されたケースだが、その中で警察が襲撃の理由とした牢獄破りに関わっていた者は6人に過ぎなかった。
アロヨ政権が発足した2001年1月から2005年12月までの間に、人権NGOカラパタンが記録する超法規的処刑、不当逮捕、拷問、裁判なしの処刑、強制失踪、強制退去などの人権侵害のケースは4692件、26万2036人にのぼる。なお、2005年の強制失踪者(軍に連れて行かれたまま戻ってこない者)41人の内、33人のケースは、ラプス牧師が殺害された東ビザヤで起きた。現在(2005/12)、牢獄に入れられている政治犯は285人。内、13人は女性で、18人は未成年である。
2005年に殺害されたジャーナリストは10人で、2001年以降の累計は35人となった(*National Union of Journalists of the Philippines)。フィリピンは、イラクと並んで、ジャーナリストにとって世界で最も危険な国となっている。
2005年に殺害された法曹関係者は7人、暗殺未遂が11件。暗殺未遂で標的にされた人の中には、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所の非常勤判事だったロメオ・カプロン氏も含まれている。2004年には、3人の判事、3人の女性弁護士を含む、7人の法曹関係者が殺害された。1999年から数えると9人もの判事が殺害されている。
2004年5月の選挙で国会に議席を得たパーティーリスト政党(バヤンムナ、アナクパウィス、ガブリエラ)の関係者は、アロヨ政権下で2004年までに61人が殺害されている。2005年は、バヤンムナのメンバーが28人、アナクパウィスのメンバーが14人(内8人は人権活動家)殺害された。また、国軍や警察による、これら政党のメンバーの不当逮捕・拘留、威嚇、事務所の焼き討ちなども相次いでおり、政治的弾圧の様相を見せている。
◆誰も裁かれていない
これは20年前に終わったマルコスの戒厳令下の話ではなく、民主国家であることを誇るフィリピンで、今、起きていることである。
国連人権委員会では既に2003年に、「市民的及び政治的権利に関する国際規約」に関するフィリピン政府の報告に対する最終見解(2003/11/6)で、国軍や警察によってジャーナリストや少数民族のリーダーに対する人権侵害、超法規的殺害、不当逮捕、拷問などが行われていること、その処罰、被害者の保護・救済が行われていないことに懸念を表明し、直ちに公正な事実調査を行うことなどを勧告している。
米国国務省も、2005年2月の報告書で、フィリピン国軍が深刻な人権侵害に責任があり、軍が超法規的な殺害、強制失踪、拷問、不当逮捕・拘留などを行っている証拠があると述べている(一方で、米国国防総省はそのフィリピン国軍への軍事援助を続けているのだが)。
フィリピン人権委員会(1987年憲法に基づいて設置されている独立した委員会)は、2005年に多くのケースを記録したことを報告して、「問題は、犯罪を立証し、罪を犯した者を罰することである」と述べ、犯罪者が全く処罰されていないことに警告を発している。
しかし、依然としてフィリピン政府は姿勢を変えておらず、被害者の正義を回復するための何の行動も取っていない。
2005年の極端な人権状況の悪化を受け、ジャーナリストや法律家の団体、人権NGOなどが現地へ事実調査団を送り、世界教会協議会も2005年7月に「精神的支援のためのエキュメニカル訪問団」をフィリピンへ派遣した。日本キリスト教協議会からは議長の鈴木伶子と国際担当幹事の私が参加した。以下の記述は、その訪問に基づいている。
◆スリガオデルスルのケース
「約束の地」とも「紛争の島」とも呼ばれるミンダナオでは様々な問題が起きているが、ミンダナオ島カラガ州スリガオデルスルでの1つのケースを紹介する。
カラガ州は森林資源と鉱物資源が豊かでありながら、フィリピンで最も貧しい地域の一つである。住民の多くが先住民族のマノボ族であり、農業を営み、山地に暮らしている。外から収奪の手が入ったのは1950年代で、米国系の木材業者が入っていた。金、石炭、鉄、クロームなどが豊富で、現在、多くの開発が申請されている。カラガ州スリガオデルスルのアンダップ峡谷は国内有数の石炭埋蔵地であり、1980年代に計6千ヘクタールの土地の採掘権を獲得して操業を始めた会社があったが、「治安上の問題」で開発を断念していた。当時、この地域は、新人民軍の強固な根拠地だったのである。
2005年4月1日、スリガオデルスルのハンアヤン村に、突然、58人の国軍兵士が現れた。翌々日、別の部隊の兵士59人が現れ、アンダップ峡谷に向かった。4月4日、国軍兵士が再び現れ、住民を捕まえ、近辺に新人民軍がいないかを尋問。村人3人を強制的に道案内として連れ去った。3人は部隊のキャンプに着くと解放され、家に帰ることを許された。これが前触れだった。
4月28日、兵士を満載した大型トラック11台が現れる。朝8時、3人の村人が兵士に捕まり、新人民軍のキャンプの所在地やメンバーを聞き出すのが目的の尋問が行われた。翌日も別の2人の村人が尋問を受けた。尋問は拷問を伴った。殴られ、蹴られ、着ていた服で縛られ、轡をされ、殺すぞと脅迫されながら、尋問される。「NPA(新人民軍)はいるか」「いない」「犯罪者はいるか」「いない」「活発な組合はあるか」「ある」「活発な学校はあるか」「ある」「ならばNPAがいるに違いない」…。4月30日、朝10時頃、村人たちが畑仕事をしていると14人の兵士が現れ、男性と女性・子どもを分け、尋問が始まった。女性と子どもは銃を突きつけられ、生きたまま土に埋めるぞと脅迫された。我々は、その拷問を受けた10歳の男の子に会って話を聞いた。素手で自分の墓となる穴を掘らされ、その中に座らされ、ナイフを首に当てられ、「どうせ大きくなったらNPAになるのだから、今殺してやる」と脅されたという。重い口を開き、ポツリ、ポツリと小さな声で話してくれるのを聞きながら、訪問団のメンバーで戦慄と涙を押さえられる者はいなかった。彼は今でも恐ろしくて畑に出られず、家に籠もる毎日だという。この数日間に理由もなく射殺された者が何人もおり、道案内として連れ去られて未だに行方不明の者が4人いる。畑や家を焼かれて失った人、神経に異常を起こした人もいる。我々は15人の村人から次々と証言を聞いた。
5月3日、2機のヘリコプターが現れ、アンダップ峡谷周辺にマシンガンと爆撃の音が響き続けた。5月9日、村々の強制退去が始まった。合計316家族、2241人が山を降り、教会や人権NGOカラパタンなどが用意した避難所に入った。
5月17日、地方議会、駐留部隊、教会の代表者、判事らが集まって、「平和と秩序を回復する会議」が開かれ、軍は強硬に反対したものの、軍事行動の中止と、住民の帰還が決議された。そして、5月19日から24日にかけて村人たちは家に帰ることができたのである。しかし、いつまたヘリコプターの音が響くかと、村人たちは今でも恐怖の中で生活している。
◆問題の背景~フィリピン政府の姿勢と日本の私たち
スリガオデルスルで行われた軍事行動は、地方政府には事前には全く知らされていなかった。ちなみに国軍の部隊はマニラから指令を受けており、しかも同じ地域に複数の部隊が別々の指令で入って行動しているため、部隊間で互いを新人民軍と間違えての交戦すらあったという。軍事行動の目的は新人民軍の掃討であると事後に説明されたが、近年この地域で新人民軍と地方政府との間では衝突は起きておらず、説得力がない。一方、2004年にアロヨ大統領がこの地域を木材業の地域と宣言しており、また2005年1月に最高裁判決が覆って1995年鉱業法が合法化されて鉱業開発が外国企業に開かれたというタイミングを考えると、軍が投入された意図が透けて見える。現地では、住民の強制退去、開発の地ならしが軍事行動の目的であったと考えられている。
フィリピンの経済は2002年にデフォルトを起こしたアルゼンチンに近いと言われるほどに危機的な状態で、政府は外国からの投資呼び込みに躍起になっている。そこで鍵の1つとされているのが1995年鉱業法である。潜在力の高い鉱業を経済成長の原動力にしたいのである。
1995年鉱業法は「持続可能な鉱業開発」を掲げ、開発の促進と地域住民保護の両立を建前としている。開発促進のための税的インセンティブ強化と外資規制緩和は功を奏し、日本を含む多国籍企業による多くの開発申請をもたらした。一方、この法律は地方分権の原則や先住民族の権利尊重の原則も含んでいるが機能しておらず、反対の融和や住民の合意の獲得のため、違法で暴力的な様々な行為が行われている。政府はそれを容認しており、また自らも軍隊を導入しているのである。(※『グローカルネットワーク~資源開発のジレンマと開発暴力からの脱却を目指して』(栗田英幸・晃洋書房)の分析を参照されたい。)スリガオデルスルのハンアヤン村では町の議員が買収工作を証言してくれた。冒頭に述べたエジソン・ラプス牧師の殺害も、かくして起きたのだった。
フィリピン政府は米国の「対テロ」戦争に便乗することで開発主義を強引に押し進めるお墨付きを得た。多くの合法的な市民団体、教会、政党を列挙した『汝の敵を知れ』と題する資料を国軍が作成するなどして人権活動家や住民運動の組織者、労働組合の指導者にまでテロリストのレッテルを貼り、事実調査や法的手続きを無視し、一般市民の巻き添えを付随的でやむをえないものとしながら先制攻撃を繰り返し、政府の政策の邪魔者を排除している。土地を守ろうとする先住民族はアブサヤフやNPAとして虐殺され、労働者や小作農の生活のための合法的な闘いは「反乱」として鎮圧されている。
ミンダナオからマニラに戻った我々は、マラカニアン宮殿でエドゥアルド・エルミタ官房長官と面会した。彼は、「我々が新人民軍との戦争状態にあることを分かって欲しい。人権侵害は、そのような状況では起こってしまうものだ。」と述べた。
この度を超した国家による暴力に日本は無関係ではない。日本の政府・企業からフィリピン政府へのトップの注文事項は「治安維持」であり、「労働争議の裁定」、「急進派の労働組合の上部団体の活動は収めること」である。フィリピン政府は死活問題である外国からの投資を確保するため、この注文に応えようと必死となり、「対テロ」戦争のレトリックを用い、軍隊を導入し、甚大な人権侵害を引き起こしているのである。日比間で自由貿易協定が結ばれようとしている今、我々はこの暴力の構造を見抜き、声を上げなければならない。