シオニズム以前の<シオニズム>

4. August, 2005 • 0 Comments

シオニズムがユダヤ人の民族主義運動として展開を始めたのは19世紀末であるが、ユダヤ人がパレスチナに帰還して国家を再建するという考えは、それに先だってプロテスタンティズムにおいて再生した千年王国論によって広まっていた。

千年王国運動のモチーフから、17世紀には既にユダヤ人のパレスチナ帰還を支援することを求める陳情が行われており、19世紀にはパレスチナにおけるユダヤ人国家再建が「ユダヤ人問題」と「東方問題」を解決する政策としてのメリットに訴える形で提案されていた。

「東方問題」とは、崩壊しつつあったオスマン帝国と立ち現れつつあったアラブ世界の、西欧列強による獲得競争のことである。英国にとってはオスマン帝国は、最重要な植民地であるインドへの道を確保するための生命線であった。逆に、ロシア、フランスにとっては、英国の覇権を破って帝国を拡張するために、オスマン帝国を支配することが鍵であった。

パレスチナは、オスマン帝国とアラブ世界の中心にあって、スエズ運河をおさえるのに必要な地域であったために、重大な政治的意味を持った。パレスチナに、「尖兵」「楔」あるいは自国に友好的な緩衝国となる期待を込めて、ユダヤ人国家を作ることが発想されたのである。それは同時に、ヨーロッパのユダヤ財閥の富と世界的商業ネットワークを利用するための画策でもあった。


ナポレオンはエジプト・パレスチナの遠征を行い(1798-99)、「エルサレムを、フランスによる保証と庇護と共に、正統なる継承者であるあなた方に与えよう」(1799)という宣言を用意した(*)。

(*) “Letter to the Jewish Nation from the French Commander-in-Chief Buonaparte” 1799、※”Napoleon’s Proclamation of a Jewish State”として知られる。

そしてヨーロッパ中からユダヤ人代表者を集めて「大サンヘドリン」(古代ユダヤ人議会の名称)の名のもとに会議を開かせ(1807)、法的解放、ユダヤ国家建設と引き替えに、対ロシアの戦争、対英国の貿易拒否に協力させようとした。

しかし、法的解放は歓迎されたが、パレスチナにユダヤ国家を作る提案は拒否された。それどころか、「ユダヤ教徒はもはや”民族(corporate nation)”を構成するものではない」と宣言されてしまった。

ナポレオンが招集した大サンヘドリンは、レオン・ピンスカーのユダヤ民族会議、ユダヤ民族機関のアイディア(1882)に始まり、現在の世界ユダヤ人会議、世界シオニスト機構などに至る国際的ユダヤ人組織の先駆を為すものとなった。

このフランスのシオニズムの流れは、その後もナポレオン三世(1848-70)の下で継続した。ナポレオン三世の私設秘書であったカトリックのアーネスト・ラーランヌは『東方についての新しい問題:ユダヤ国家の再建』というアピールを発表した(1860)。これに影響を受けてモーゼス・ヘスは『ローマとエルサレム』(1862)を書き、「インドと中国に続く道がフランスの大義に忠実な民(ユダヤ人)によって植民されることは、フランスの利益になることである」と、フランス植民地主義に忠実であるようユダヤ人に呼びかけた。

※ プロテスタンティズムの「シオニズム以前のシオニズム」からユダヤ教への影響の最初期の例としては、フランスの駐デンマーク大使Isaac de la Peyrere (1594-1676)の”Prae-Adamitae”(1655)によるアムステルダムのユダヤ人神学者Menasseh Ben Israel(1604-1657)への影響がある。イサクは、メシアの再臨が近いとして、それを早めるためにパレスチナへのユダヤ人帰還を主張した。彼は、ユグノーの家に生まれてカルヴァン主義の教会で育ち、後にカトリックに改宗した、ユダヤ系と考えられている人物である。マナセは、ユダヤ人が世界の隅々まで離散することがメシア来臨の条件であると考えて、英国にユダヤ人の居住禁令を解くよう陳情し、クロムウェルに招かれたが失敗し、失意のうちに死んだ。マナセは多くのクリスチャンにも影響を与えた。ドイツ人の神秘家のAbraham von Frankenberg(1593-1652)や弁論の巧みさで名をなしたJohannes Mochinger(1603-1652)等の他、マナセが失われた十支族について著した”The Hope of Israel”は、スコットランドのカルヴァン主義者John Dury(1596-1680)、”Jewes in America”(1650)を著したThomas Thorowgood(ca.1600-ca.1669)、Nathaniel Holmes(1599-1678)等に支持された。


英国における「シオニズム以前の『シオニズム』」の展開がフランスと異なる点は、政治的モチーフよりも、宗教的モチーフからの運動としての性格が強かったところにあるだろう。そのため、特定の政治家や政治的状況に依存しない持続性を持ち、ユダヤ人伝道やユダヤ人のパレスチナ帰還支援といった形で草の根運動としての展開が見られた。

パレスチナへのユダヤ人帰還を実現するための国際的な交渉がオスマン帝国との間で(1838年、その後も幾度となく)、プロテスタント諸国との間で(1840)、行われた。またオスマン帝国の正教徒に庇護を与えるロシア、カトリックに庇護を与えるフランスに対抗して、エルサレムに副領事を置き(1838)、英国教会の主教座を設置して(1841)、帰還を促しつつ、ユダヤ人の庇護者として自らを中東に確立していった。

※「英国聖公会のパレスチナ宣教と中東紛争の始まり」を参照

ただし、英国においても、シオニズムへの最も強硬な反対者は、当のユダヤ人であった。英国の駐シリア領事チャールズ・ヘンリー・チャーチルは、ユダヤ人自身がシオニズムのイニシアティブをとることが必須であるとしてロンドン・ユダヤ人評議会に呼びかけたが(1841)、支援はするが、旗振り役にはならないと拒絶されている。

チャーチルの失敗の後に任命されたのが、南オーストラリアで植民地統治の経験を積んだジョージ・ゴーラーであった。

英国はアイルランドの小作農、ウェールズの鉱山労働者、イングランドの農夫などを大量にオーストラリアに送っていたが、他方で英国への流入が続く東欧の貧しいユダヤ人への対応に悩まされていた。そこで提案されたのが、彼らのパレスチナへの入植であった。

英国の「シオニズム以前のシオニズム」の代表的な唱道者であるシャフツベリー伯爵は、ユダヤ人の同化に強く反対し、他方でユダヤ人のパレスチナ植民が最も安上がりで早い方法論であると訴えることによって、「預言の実現」を図った。彼が会長をつとめていた「ユダヤ人伝道協会」は、ロシアや東欧でシオニズムを広めることにも力を入れた。

ゴーラーは、植民地化成功の鍵は入植者の意志に配慮することであるとして、ユダヤ人を罵りながらパレスチナへの入植を強制することはできないと強調した。また「パレスチナはその九割は人の住まない土地であり、文明化された入植者を待っている!」と宣伝し、「パレスチナと東方世界をユダヤ人によって文明化する計画」を細部に渡って練って実行した。

英国に移民して、さらにパレスチナに渡った貧しい東欧ユダヤ人のこの中からは、後のシオニズム修正派の指導者ウラジミール・ヤボチンスキーが生まれている。なお、実践的シオニズム運動のパレスチナへの東欧移民も、資金は英国のユダヤ財閥ロスチャイルド家が出していた。

ビクトリア朝を代表する作家ジョージ・エリオットは『ダニエル・デロンダ』(1876)で、それまでのユダヤ人のイメージと全く異なり、現実には存在していない英雄的なユダヤ人愛国者=シオニストの姿を描き出した。

※ 彼女の夫はモーゼス・ヘスと親交があった。彼女は熱心な福音派の教会で育っているため、シャフツベリー卿が抱いていたような千年王国論的なビジョンを背景にしていたことも考えられる。

ジョージ・エリオットは、ユダヤ人が「いにしえのごとく、壮大で質実かつ公正なユダヤ新国家、東洋の専制主義の只中に輝かしい西欧の自由を凌ぐ平等さを持ち、平等に国民が保護されるような共和国」を建国すると「予言」して、シオニズム運動に大きな影響を与えた。Henrietta Szold、Eliezer Ben-Yehuda、Emma Lazarusといった人々は『ダニエル・デロンダ』の影響を強く受けてシオニストになる決断をしたと述べている。東欧のシオニストたちは、この小説のシオニズム以外の要素を大幅に省略して翻訳した。

前節で引用したテオドール・ヘルツェルの言葉はゴーラーやエリオットの言葉のほとんど引き写しに見えないだろうか。

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