Archive for the ‘- 礼拝’ Category

礼拝拾遺(13) -弟子への任職

By Michinori ManoNo Comments 14 Sep

私たちは、洗礼を、何か成人式のような通過儀礼、あるいは資格授与式のようなものとして捉えてはいないでしょうか。通過儀礼は、その場で終わる出来事、その後は時に何か証明するものによって受けたことを示すもの。しかし、洗礼という秘跡(神と人を結ぶ儀礼)は、それを受けてそこで完了するものでなく、常に身にまとうおおいとして生き続けられるもの(ガラ3:27)、それにあずかっただけでなく、あずかっているもの(ロマ6:3-4)、単なる始まりではなく、私たちが人生を通して信仰において歩むもの、弟子としての成長において、召命を生きる中で、私たちを形作り続けるものです。 (more…)

more

礼拝拾遺(12) – 洗礼の誓約

By Michinori ManoNo Comments 7 Sep

4月に沖縄で開催された平和協議会での米国聖公会からの報告を翻訳していて、米国聖公会祈祷書と日本聖公会祈祷書における洗礼式の違いに目が留まりました。 (more…)

more

礼拝拾遺(10)&(11) – 礼拝の呼称の変化と奉献

By Michinori ManoNo Comments 25 Aug

(*) 長坂聖マリヤ教会 2013年8月25日, 9月1日の週報に掲載

キリスト教の礼拝(聖餐式)の呼称には変遷があり、多くの場合にそれは奉献の理解と関連していました。 (more…)

more

礼拝拾遺(9) -奉献と宗教改革

By Michinori ManoNo Comments 18 Aug

(*) 長坂聖マリヤ教会 2013年8月18日の週報に掲載

私たちは陪餐後祷で、「天の父よ、わたしたちはみ子によって、心も体も生きた供え物として献げます」と唱えます(祈祷書p.182)。この言葉には、主日礼拝の本質が言い表されています。

しかし、礼拝とは「献げる」ものである、というこの理解は、宗教改革で強い抗議を受けました。人間の側から神に対して為しうることは何もない、「献げる」という理解は、律法主義的な功績主義、人間中心主義に立つものだ、それは悪くすれば供え物によって神に自分の望みをかなえさせようとするような堕落に道を開くものだと、カトリックの礼拝理解を宗教改革者たちは批判したのでした。その理解においては、イエスさまの十字架の死も「自己奉献」ではなく、その出来事において行動されたのはただ神のみであって、そこで究極的な恩寵である罪の赦しがもたらされたのだ、ということになります。 (more…)

more

礼拝拾遺(8) -奉献の歴史

By Michinori ManoNo Comments 11 Aug

(*) 長坂聖マリヤ教会 2013年8月11日の週報に掲載

陪餐者皆が供え物を「持ち寄り」、執事がそれを「差し出し」または祭壇に「持って登り」、主教がそれを「献げる」という儀礼の形が、ニケア公会議(325年)以前の史料で共通して確認されます。教会の援助で生活していた孤児たちは、水を携えて参加しました。重大な罪を犯した者は、犠牲の奉献への参加が禁止されました。「陪餐停止」ではなく、信徒は供え物を持ってくる事、執事はそれを持って上がる事、主教はそれを献げる事が禁止されました。未受洗者は献げものをすることはできませんでした。信徒も聖職も犠牲の奉献において各自の職制上の役割を果たすことが共同体のいのちに与ることを意味しました。 (more…)

more

礼拝拾遺(7) -奉献の意味(2)

By Michinori ManoNo Comments 4 Aug

(*) 長坂聖マリヤ教会 2013年8月4日の週報に掲載

前々回、奉献は、厳密には、司祭が感謝聖別文が唱えられる時に為される、と書きました。また、祈祷書で「奉献」と小見出しがついている部分は「奉献の準備」なのだと(※以下、紛らわしさを避けるため、ローマカトリックでの用語法に倣い、「奉献の準備」の部分を「奉納」と呼びます)。しかし、それだけの理解では、所詮、その行為自体は固有の意味を持たない「準備」に過ぎないという印象が否めません。 (more…)

more

礼拝拾遺(6) -奉献の意味(1)

By Michinori ManoNo Comments 28 Jul

(*) 長坂聖マリヤ教会 2013年7月28日の週報に掲載

聖餐の部は、(1)パンと葡萄酒を取り(奉献)、(2)感謝を捧げ(感謝・聖別)、(3)パンを裂き、(4)パンと葡萄酒を分かち与えた(陪餐)、という最後の晩餐におけるイエスさまの四つの所作を象っています。これらが司祭の所作で表されます。本来は実際の食事の中で行われ、食事の始まりでパン裂きが行われ(四つの所作)、終わりで葡萄酒が分かち合われましたので(三つの所作)、合わせて七つの所作でした。

この形は、「犠牲(いけにえ)の会食」に由来する、古代イスラエルにおける儀礼的な食事で守られていたものです。(※ 古代の形をよく残すシリアのヤコブ派やネストリオス派の教会では、聖餐のパンは初子を意味する“ブクラ”と呼ばれています。)犠牲の会食とは、犠牲の行為によって(=本来神のものであるものを神に献げることによって)、自分たちが神に受け容れられた(=神との正しい関係に回復された)しるしとして、神と聖なる食事を共にするということでした。元々は聖所で行われた特別な儀礼的な食事でしたが、預言者たちによって動物を犠牲として献げることが「砕かれた心」を献げることとして捉え返され、またファリサイ派やイエスさまによって日常の場での食事がこの意味での会食として捉え返されて変容し、聖餐式となりました。 (more…)

more

礼拝拾遺(5) -奉献における儀礼の形

By Michinori ManoNo Comments 21 Jul

(*) 長坂聖マリヤ教会 2013年7月21日の週報に掲載

儀礼の形は、司式者の趣味嗜好や、あるいは会衆の慣れ親しんだ形を根拠にして決められるべきものではありません。その共同体の歩みの中で、常にその意味を、より明確に、より豊かに表現しようと工夫を重ね、育てていくべきものでしょう。 (more…)

more

礼拝拾遺 (1) – 平和の挨拶について

By Michinori ManoNo Comments 12 Jun

(*) 長坂聖マリヤ教会 2013年6月9日の週報に掲載

「平和の挨拶」は最も古く大切な礼拝要素のひとつです。聖書では、「聖なる口づけ(愛の口づけ)によって互いに挨拶を交わしなさい」(ロマ16:16, Ⅰコリ16:20, Ⅱコリ13:12, Ⅰテサ5:26, Ⅰペト5:15)と記されているのがそれで、「平和の絆で結ばれた、聖霊による一致」(エフェ4:3-4)を表すものです。 (more…)

more

神学生で作った<代祷>文

By Michinori ManoNo Comments 6 Mar

昨日の卒業記念礼拝での代祷(とりなしの祈り)は、特別学期に自分たちで整えたものを用いました。今後、神学院での礼拝で、祈祷書で定められた祈祷文に代えられるものとして使われて、さらに改訂されたり、他のパターンが作られたらと思っています。

この機会に代祷についていろいろと学びましたが、私にとって印象的だった気づきのひとつは、代祷が、祈祷書に定められた成文祈祷を用いるのでなく、各教会で各主日のために作ることを原則とする傾向が世界的に顕著になっていることです。 (more…)

more

聖公会とカトリックの聖職按手式文の比較

By Michinori ManoNo Comments 18 Dec

聖公会とカトリックの聖職按手式文の比較

礼拝学のレポートの課題として、会衆の関わりの視点からの考察を中心として、聖公会とカトリックの聖職按手式を比較してみました。これをテーマにしたのは、カトリックから聖公会に転会した人の聖職志願に対する考え方に違和感を覚えたのがきっかけでした。

more

代祷・懺悔と共同体の営み

By Michinori ManoNo Comments 14 Dec

代祷・懺悔と共同体の営み

礼拝学Ⅰ-Bのレポートとして「代祷・懺悔と共同体の営み」について書きました。2009年1~2月の特別学期のテーマを決めるための議論でもめ、結局はひとつのテーマのもとでの共同学習はできませんでした。このレポートは、私を含めた数人が提案していた「社会で生きづらい人々と共に、礼拝共同体として歩むために」というテーマでやりたかったことの序論的なものです。

more

英国教会祈祷書・代祷文(私訳)

By Michinori ManoNo Comments 29 Oct

英国教会祈祷書の代祷文

英国教会の祈祷書“コモンワーシップ”の代祷文(原文)を、神学院の課題で翻訳しました。5つ用意されている式文と結びの諸祈祷です。以下は、翻訳していて気づいたことのメモです: (more…)

more

現代における聖務時祷(朝夕の礼拝)を考える

By Michinori ManoNo Comments 10 Sep

以下は「教会の礼拝 1-A」前期末レポートとして書いたものである。「現行祈祷書における朝夕の礼拝の構造を解析し、批判的考察も含めながら実践を思案せよ」という課題であった。教会史のレポート「1~3世紀における聖務時祷」と対になっている。 (more…)

more

1~3世紀の聖務時祷

By Michinori ManoNo Comments 10 Sep

礼拝学の授業で学んで聖務時祷(毎日定時に行う礼拝、聖務日課とも云う)の成立について関心を持ち、ロバート・タフトの『東方教会及び西方教会における聖務時祷』(“The Liturgy of the Hours in East and West”)を読んだ。以下は、1~3世紀における聖務時祷について古代教父が書き残したことを主な史料として書かれたその第二章の抄訳である。 (more…)

more
Newer Entries »