Archive for the ‘– 礼拝’ Category

大斎節中の礼拝

By Michinori ManoNo Comments 23 3月

※ 2014年度 長坂聖マリヤ教会 大斎節講話資料

◆ 改められた教会暦上の強調点

1990年祈祷書が作られる際、併せて「別冊諸式」として『大斎節中の礼拝』が作られました。そこには、大斎始日(灰の水曜日)、復活前主日、聖木曜日、聖金曜日(受苦日)、聖土曜日(復活徹夜祭)の礼拝式文が含まれています。(※ 末尾に各々のポイントを書いてあります)

これは、教会暦の頂点として、キリストの受難と復活を記念する「聖なる三日間」(木~土)の典礼を回復しようとする、典礼改革のひとつの要として整えられたものです。 (さらに…)

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断食について

By Michinori ManoNo Comments 10 3月

※ 2014年度 長坂聖マリヤ教会 大斎節講話資料

◆ 聖公会の暦を見ると、「斎日」「断食日」と書かれている日があります。聖公会では、信者の「義務」とされているわけではありませんが、信仰生活に有益な伝統として、節制と断食が勧められています。その具体的な守り方については、カトリック教会に準じた内容で勧められていることが多いと思われます。

・「斎日」(節制する日)は、毎週金曜日、および紫の季節(大斎節、降臨節)の週日
・「断食日」は、大斎始日(灰の水曜日)、および受苦日(聖金曜日) (さらに…)

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礼拝拾遺(17) -洗礼のイメージ(3)

By Michinori ManoNo Comments 12 10月

新約時代の洗礼式の実際について知ることができることは多くはありませんが、そのひとつに、洗礼式で使われていたと考えられる賛歌があります。

「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 (さらに…)

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礼拝拾遺(16) -洗礼のイメージ(2)

By Michinori ManoNo Comments 5 10月

洗礼の理解を言い表すのに、西欧では四世紀以後は<洗礼とはキリストの死と復活にあずかること>とするパウロの神学に立つ<過ぎ越し>のイメージが、排他的に強調されてきました。

しかしそれ以前は、意外にも、例えば二世紀の神学者ユスティノスは、洗礼を語るのにパウロが用いたようなイメージは一切使っておらず、新生、洗い、照明、といった言葉を使いました。四世紀のシリアの教父たちも、キリスト者の洗礼を新しい生への誕生として描き、洗礼槽はヨルダン川であり、子宮であると語りました。東方教会は、その伝統を今も継承しています。 (さらに…)

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礼拝拾遺(15) -洗礼のイメージ(1)

By Michinori ManoNo Comments 29 9月

洗礼式の中に、水の聖別のために聖霊を求める祈りがあります(279頁)。これは、洗礼の場所が川や湖から室内の浴槽へと変化したことの一つの結果として生まれてきたものだろうと考えられています。自然に流れる川や湖の水は神の霊が吹き込まれた“生きた”ものと見られ、それに対して貯められた水には欠けがあると考えられたのでした。(※ ブラッドショー)

この起源とも関わりがあってのことでしょう。この祈りでは水との関わりにおける<洗礼>のイメージが言い表されます。先々週書きましたように、前世紀後半、<洗礼>の本来的な意味とそれを表すイメージの回復が行われるようになって、日本聖公会でも<洗礼>を「罪を洗うしるし」(1938年祈祷書、1959年祈祷書)から、「万物を清めて新しい命を与えるしるし」(1990年祈祷書)へと表現が改められ、同時に、1959年祈祷書まで式の冒頭の特祷の中にあった、洗礼とは救いの箱船に入れられること、という表現が削除されました。それは、洗礼とは人生を通して信仰において歩むもの、弟子としての成長において召命を生きる中で私たちを形作り続けるもの、という理解にそぐわないのです。

英国教会の新しい祈祷書(コモン・ワーシップ, 2000年)の水の聖別の祈りには、さらに明確な言い方を見ることができます。私訳でご紹介します。 (さらに…)

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礼拝拾遺(14) – 信仰告白の位置

By Michinori ManoNo Comments 19 9月

奉献についての連載で、会衆がパンと葡萄酒を捧げる<奉納>が、それ自体の意義が忘れられ、奉献の準備としか見られず、省略されることさえ多いことについて、キリストへの服従という観点から再考したいものだと書きました。古代教会における洗礼式の<信仰告白(洗礼の誓約)>の変化に関わっても似たようなことがあります。 (さらに…)

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礼拝拾遺(13) -弟子への任職

By Michinori ManoNo Comments 14 9月

私たちは、洗礼を、何か成人式のような通過儀礼、あるいは資格授与式のようなものとして捉えてはいないでしょうか。通過儀礼は、その場で終わる出来事、その後は時に何か証明するものによって受けたことを示すもの。しかし、洗礼という秘跡(神と人を結ぶ儀礼)は、それを受けてそこで完了するものでなく、常に身にまとうおおいとして生き続けられるもの(ガラ3:27)、それにあずかっただけでなく、あずかっているもの(ロマ6:3-4)、単なる始まりではなく、私たちが人生を通して信仰において歩むもの、弟子としての成長において、召命を生きる中で、私たちを形作り続けるものです。 (さらに…)

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礼拝拾遺(12) – 洗礼の誓約

By Michinori ManoNo Comments 7 9月

4月に沖縄で開催された平和協議会での米国聖公会からの報告を翻訳していて、米国聖公会祈祷書と日本聖公会祈祷書における洗礼式の違いに目が留まりました。 (さらに…)

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礼拝拾遺(10)&(11) – 礼拝の呼称の変化と奉献

By Michinori ManoNo Comments 25 8月

(*) 長坂聖マリヤ教会 2013年8月25日, 9月1日の週報に掲載

キリスト教の礼拝(聖餐式)の呼称には変遷があり、多くの場合にそれは奉献の理解と関連していました。 (さらに…)

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礼拝拾遺(9) -奉献と宗教改革

By Michinori ManoNo Comments 18 8月

(*) 長坂聖マリヤ教会 2013年8月18日の週報に掲載

私たちは陪餐後祷で、「天の父よ、わたしたちはみ子によって、心も体も生きた供え物として献げます」と唱えます(祈祷書p.182)。この言葉には、主日礼拝の本質が言い表されています。

しかし、礼拝とは「献げる」ものである、というこの理解は、宗教改革で強い抗議を受けました。人間の側から神に対して為しうることは何もない、「献げる」という理解は、律法主義的な功績主義、人間中心主義に立つものだ、それは悪くすれば供え物によって神に自分の望みをかなえさせようとするような堕落に道を開くものだと、カトリックの礼拝理解を宗教改革者たちは批判したのでした。その理解においては、イエスさまの十字架の死も「自己奉献」ではなく、その出来事において行動されたのはただ神のみであって、そこで究極的な恩寵である罪の赦しがもたらされたのだ、ということになります。 (さらに…)

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礼拝拾遺(8) -奉献の歴史

By Michinori ManoNo Comments 11 8月

(*) 長坂聖マリヤ教会 2013年8月11日の週報に掲載

陪餐者皆が供え物を「持ち寄り」、執事がそれを「差し出し」または祭壇に「持って登り」、主教がそれを「献げる」という儀礼の形が、ニケア公会議(325年)以前の史料で共通して確認されます。教会の援助で生活していた孤児たちは、水を携えて参加しました。重大な罪を犯した者は、犠牲の奉献への参加が禁止されました。「陪餐停止」ではなく、信徒は供え物を持ってくる事、執事はそれを持って上がる事、主教はそれを献げる事が禁止されました。未受洗者は献げものをすることはできませんでした。信徒も聖職も犠牲の奉献において各自の職制上の役割を果たすことが共同体のいのちに与ることを意味しました。 (さらに…)

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礼拝拾遺(7) -奉献の意味(2)

By Michinori ManoNo Comments 4 8月

(*) 長坂聖マリヤ教会 2013年8月4日の週報に掲載

前々回、奉献は、厳密には、司祭が感謝聖別文が唱えられる時に為される、と書きました。また、祈祷書で「奉献」と小見出しがついている部分は「奉献の準備」なのだと(※以下、紛らわしさを避けるため、ローマカトリックでの用語法に倣い、「奉献の準備」の部分を「奉納」と呼びます)。しかし、それだけの理解では、所詮、その行為自体は固有の意味を持たない「準備」に過ぎないという印象が否めません。 (さらに…)

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礼拝拾遺(6) -奉献の意味(1)

By Michinori ManoNo Comments 28 7月

(*) 長坂聖マリヤ教会 2013年7月28日の週報に掲載

聖餐の部は、(1)パンと葡萄酒を取り(奉献)、(2)感謝を捧げ(感謝・聖別)、(3)パンを裂き、(4)パンと葡萄酒を分かち与えた(陪餐)、という最後の晩餐におけるイエスさまの四つの所作を象っています。これらが司祭の所作で表されます。本来は実際の食事の中で行われ、食事の始まりでパン裂きが行われ(四つの所作)、終わりで葡萄酒が分かち合われましたので(三つの所作)、合わせて七つの所作でした。

この形は、「犠牲(いけにえ)の会食」に由来する、古代イスラエルにおける儀礼的な食事で守られていたものです。(※ 古代の形をよく残すシリアのヤコブ派やネストリオス派の教会では、聖餐のパンは初子を意味する“ブクラ”と呼ばれています。)犠牲の会食とは、犠牲の行為によって(=本来神のものであるものを神に献げることによって)、自分たちが神に受け容れられた(=神との正しい関係に回復された)しるしとして、神と聖なる食事を共にするということでした。元々は聖所で行われた特別な儀礼的な食事でしたが、預言者たちによって動物を犠牲として献げることが「砕かれた心」を献げることとして捉え返され、またファリサイ派やイエスさまによって日常の場での食事がこの意味での会食として捉え返されて変容し、聖餐式となりました。 (さらに…)

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礼拝拾遺(5) -奉献における儀礼の形

By Michinori ManoNo Comments 21 7月

(*) 長坂聖マリヤ教会 2013年7月21日の週報に掲載

儀礼の形は、司式者の趣味嗜好や、あるいは会衆の慣れ親しんだ形を根拠にして決められるべきものではありません。その共同体の歩みの中で、常にその意味を、より明確に、より豊かに表現しようと工夫を重ね、育てていくべきものでしょう。 (さらに…)

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礼拝拾遺 (1) – 平和の挨拶について

By Michinori ManoNo Comments 12 6月

(*) 長坂聖マリヤ教会 2013年6月9日の週報に掲載

「平和の挨拶」は最も古く大切な礼拝要素のひとつです。聖書では、「聖なる口づけ(愛の口づけ)によって互いに挨拶を交わしなさい」(ロマ16:16, Ⅰコリ16:20, Ⅱコリ13:12, Ⅰテサ5:26, Ⅰペト5:15)と記されているのがそれで、「平和の絆で結ばれた、聖霊による一致」(エフェ4:3-4)を表すものです。 (さらに…)

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神学生で作った<代祷>文

By Michinori ManoNo Comments 6 3月

昨日の卒業記念礼拝での代祷(とりなしの祈り)は、特別学期に自分たちで整えたものを用いました。今後、神学院での礼拝で、祈祷書で定められた祈祷文に代えられるものとして使われて、さらに改訂されたり、他のパターンが作られたらと思っています。

この機会に代祷についていろいろと学びましたが、私にとって印象的だった気づきのひとつは、代祷が、祈祷書に定められた成文祈祷を用いるのでなく、各教会で各主日のために作ることを原則とする傾向が世界的に顕著になっていることです。 (さらに…)

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聖公会とカトリックの聖職按手式文の比較

By Michinori ManoNo Comments 18 12月

聖公会とカトリックの聖職按手式文の比較

礼拝学のレポートの課題として、会衆の関わりの視点からの考察を中心として、聖公会とカトリックの聖職按手式を比較してみました。これをテーマにしたのは、カトリックから聖公会に転会した人の聖職志願に対する考え方に違和感を覚えたのがきっかけでした。

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代祷・懺悔と共同体の営み

By Michinori ManoNo Comments 14 12月

代祷・懺悔と共同体の営み

礼拝学Ⅰ-Bのレポートとして「代祷・懺悔と共同体の営み」について書きました。2009年1~2月の特別学期のテーマを決めるための議論でもめ、結局はひとつのテーマのもとでの共同学習はできませんでした。このレポートは、私を含めた数人が提案していた「社会で生きづらい人々と共に、礼拝共同体として歩むために」というテーマでやりたかったことの序論的なものです。

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英国教会祈祷書・代祷文(私訳)

By Michinori ManoNo Comments 29 10月

英国教会祈祷書の代祷文

英国教会の祈祷書“コモンワーシップ”の代祷文(原文)を、神学院の課題で翻訳しました。5つ用意されている式文と結びの諸祈祷です。以下は、翻訳していて気づいたことのメモです: (さらに…)

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現代における聖務時祷(朝夕の礼拝)を考える

By Michinori ManoNo Comments 10 9月

以下は「教会の礼拝 1-A」前期末レポートとして書いたものである。「現行祈祷書における朝夕の礼拝の構造を解析し、批判的考察も含めながら実践を思案せよ」という課題であった。教会史のレポート「1~3世紀における聖務時祷」と対になっている。 (さらに…)

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