Archive for the ‘– 礼拝’ Category

礼拝覚書(17)礼/おじぎ(1)

By Michinori ManoNo Comments 31 7月

伝統的キリスト教が保っている所作の内、プロテスタント的感覚で見て最も違和感を持たれるのが「礼」かもしれません(十字を切ることもかもしれませんが、おそらくそれ以上に)。宗教改革で排除しようとした偶像崇拝的なものをそこに見てしまうからです。東方教会の信者がイコン等に口づけしているのを見ると「信仰の対象が違うのではないか」と思ってしまうのです。

19世紀半ばに聖公会を含む宗教改革を経験した教会の信者が、パレスチナに「巡礼」でなく「旅行」をするようになった時、かれらは一様に伝統的な巡礼者たちの様子を見て嫌悪感を抱きました。そのような「野蛮」な慣習は払拭され、「文明」化されるべきだと考えました。東方に対するそのような見方が「イスラエル建国」を支持するひとつの基礎になり、また現在もイスラム教に対する嫌悪に引き継がれています。

これはおそらく宗教改革以前から始まっていた変化、アレクサンドル・シュメーマンが西方教会を批判して言うように、「全宇宙を包含する教会全体の行為が、予約しておいた日時に教会の片隅で執行される個人的な儀式へと変わってしまった」結果であろうと思います。(『世のいのちのために』, アレクサンドル・シュメーマン)

「今日、あなたはわたしを土地の面(パニーム)から追放した。そして、わたしはあなたの顔(パニーム)から隠される」(創世記4:14)というカインの言葉が示すように、この世界は「神との交わり」として、神の存在を経験する手段として、与えられていたにもかかわらず、きょうだい殺しの罪を犯した結果、この世界は逆に「それ自体が目的とされるもの」、偶像崇拜の対象に堕落してしまいました。

しかし、キリストの十字架の死と復活の内にいのちは再び神との全き交わりへと回復されたのです。キリストヘの信仰において「世界はそのとき真にキリストの存在の機密(サクラメント)、神の国と永遠のいのちの成長の場になります。…世界は死ではなく、その真の理解とともに再びかれのいのちとなります。喜びと人間性の真の力が取り戻されます。」(シュメーマン)

口づけをしたり、お辞儀したりするのは、この信仰において、神との交わりを与えるものとして、敬意を表しているということなのです。死となった世界にひれ伏しているのではなく、それからの離脱(キリストと共に死ぬこと)を前提に、与えられた新しいいのちへの感謝、喜びからそうしているのです。それはシスター・ジョアンが指摘するように、西方教会でも元来は持っていた理解、現在でも辛うじてかもしれませんが保たれているはずの理解です。

「多くの修道院では、祈りをささげるためにチャペルに入る際、祭壇に向かっておじぎをした後、共に行列で歩くシスターの方を向いておじぎをする慣習があります。そのような修道院の慣習の意味は明らかです。神は、チャペルにおられ、祭壇上におられるのと同様に、自分たちを取り巻く世界におられ、互いの中におられる、ということです。神は人生の内実です。わたしたちの魂そのものの息です。神は、いのちを、そのあらゆる形において、より深く理解するように求めておられます。」(ジョアン・チティスター)

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礼拝覚書(16)十字を切る (3)

By Michinori ManoNo Comments 31 7月


十字をしるす時、「父と子と聖霊のみ名によって」と唱えます。この「十字の祈り」は、心で唱えることも、声に出して唱えることもあります。

左手を軽く開いて胸の少し下に置き、軽く開いた右手の中指を額に当てて「父と」唱え、そこから胸の下までおろして「子と」唱え、その手を左肩から右肩にひくときに「聖霊のみ名によって」と唱え、両手を胸の前に合わせて「アーメン」と唱えます

※ 最後に、手を胸に持って行く形、指先を唇に持って行く形もあります。早く小さく手を動かすのでなく、ゆっくり大きく手を動かすようにします。

この十字のしるしと祈りは、聖堂の出入りのときに、礼拝の始まりと終わり、及び前回書いたような箇所で、また、日常生活の中で、祈りをささげる前後に(特に自分の言葉で祈るとき)、起床就寝時、食事のとき、家を出るとき、そして生涯最後のときに唱えられてきました。

「一歩毎に。一動作毎に。入る時、出る時。服を着る時、靴を履く時。入浴の時。食卓につく時。明かりをつける時。横になる時、座る時。日々のすべての行動で、わたしたちは額に十字をしるす」とまで、テルトゥリアヌス(c.200)は述べています。

晴佐久昌英神父は著書『十字を切る』(女子パウロ会, 2012)で、次のように書かれています。

「十字の祈りは、ひと言で言えば神と人を結ぶ祈りです。正確に言うと、神と人がすでに愛の内に結ばれていることに目覚める祈りです。…十字の祈りは、天と地を結ぶ祈りです。すなわち、永遠なる“天の救い”に目覚めて、この世にありながら天を生きるという“地の救い”をもたらす祈りです。」

「<み名によって>は、<その中に入る>とか<一つに交わる>という意味です。つまり、十字を切るとは、<神の愛の中に入る><神の愛と一つに交わる>ということです。正確に言うなら、十字を切って、<わたしは今、神の愛の中にいる><わたしは神と一つある>ことを受け入れ、信じ、救われます。人間にとって、神の愛の中に入り神と一つに交わることこそ生きる目的ですから、十字を切ること自体がすでに救いなのです。」

「あたかもさまざまな祈りの初めと終わりに付け加える決まり文句程度に思われがちですが、実はこの祈り自体が祈りの一つの完成形であり、至高の祈りなので、これだけでも十分な祈りです。教会の大切な典礼や、人生の重要な局面で必ず十字が切られるのは、そのためです。十字の祈りは、普遍的で本質的、完全な祈りなのです。」

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礼拝覚書(15)十字を切る (2)

By Michinori ManoNo Comments 23 7月

『公会の慣習とシンボル』(聖ヨハネ修士会, 1962)は次のように教えます。

「聖堂の入口に聖水が置いてある教会もあります。その時には右指先を聖水に浸して、自分自身に十字架の形をしるし、“主よ、ヒソプをもて我を清めたまえ、さらば我きよくならん。我を洗いたまえ、さらばわれ雪よりもしろくならん”(詩51:7)と唱えます。

横浜教区でも主教座聖堂には聖水が置いてあります。“我を洗いたまえ”は、ゴスペル”Oh Happy Day”で歌う言葉ですね。十字をしるすことは、前回書いたように、洗礼を記念する行為なのです。

「そして祭壇に礼をし、自分の席を見つけて、ひざまずき、十字架の形をわが身にしるして静かに祈ります。それは、自分が主の十字架によって贖われたこと、日々十字架を負って主に従うべきこと、“キリストの十字架を恥とせず、生涯キリストのしもべとなり、また忠義なる兵卒となり、その旗もとにありて、勇ましく罪と世と悪魔に向かいて戦う”ことを表します。

「礼拝中に十字架のしるしをするのは、(1)礼拝の始め、(2)大栄光の頌の終り、(3)ニケア信経の終り(“..来世の命を待ち望みます..”)、(4)赦罪のとき(“..すべての罪を赦し..”)、(5)聖餐のパンとぶどう酒を受けるとき、(6)祝祷のとき(“..父と子と聖霊なる全能の神の恵みが..”)、(7)礼拝後の感謝の祈りが終わったとき。聖餐式で福音を聞く時には、右手の親指で、額と口と胸に小さな十字架をしるします。それは福音を聞いて理解し、人に宣べ伝え、心におさめることを表します。

なお他に、(8)「聖なるかな」(サンクトゥス)に続く「ほめたたえよ」(ベネディクトス)を唱えるとき、(9)感謝聖別の祈りにおけるパンとぶどう酒の奉挙のときにも、よく行われています。

ただし、米国聖公会でよく参照されているルブリック解説書(”Prayer Book Rubrics EXPANDED”, 1979)は、上記の内、(2)についてはそこで十字をしるす根拠が不明である、 (8)についてはおそらく誤解から始まったものである、と注意を促しています。

朝夕の礼拝では、(1)礼拝のはじめ、“主よ、わたしたちの口を開いてください”のとき、右手の親指で口の上に小さな十字をしるす、(2)使徒信経のとき(“..永遠の命を信じます..”)、(3)礼拝の結び、“主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり..”のとき、しるします。

司祭が人やモノに向かって十字を切るのは、祝福する時、献げる時、罪の赦しを祈る時ですが、手をおく形に比べて新しい形です。ちなみに、聖別で十字を3回切る(父・子・聖霊)、5回切る(キリストの傷の数)、33回切る(イエスの地上の生涯の年数)等の慣習がありますが、神学的裏付けはなく、典礼を不可解なものにするので、現在は推奨されていません。所作は複雑なほど「ちゃんとしている」感じ、「ありがたい」感じを与えることがありますが、そういう満足が追求されれば、典礼の意味が見えなくなったり、歪めて理解されたりしかねません。初代教会の典礼はシンプルなものでした。その回復に努めてきたのが聖公会の伝統です。

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礼拝覚書(14)十字を切る (1)

By Michinori ManoNo Comments 23 7月

十字架は、言葉としては、すでにペテロやパウロが象徴的に用いていますが(使徒言行録2:36, Ⅰコリ1:23, ガラ6:14)、所作としては、3世紀までには、悪の力と闘うために、額に十字のしるしを刻むようになっていました。迫害下の古代教会で、自らの苦難とイエスの十字架を重ね、救いを求めて行われるようになったのでしょう。

礼拝覚書(9)で紹介した聖ヒッポリュトスの『使徒伝承』(紀元215年頃)には、洗礼式の結びに「額にしるしをする」(十字を記す)ことが記されています。聖公会の洗礼式では、この時、司式者は次のように言います。「これはキリストのしるし、あなたが神の民に加えられ、永遠にキリストのものとなり、主の忠実な僕として、罪とこの世の悪の力に向かって戦うことを表します。」そして、会衆一同が「アーメン」と唱えます。教父テルトゥリアヌス(紀元200年頃、カルタゴ)は、「われわれキリスト者は額を十字のしるしで磨り減らしている」と書き残しています。

十字のしるしは、代々のキリスト者が、信仰生活の始まりに受け、自分がキリスト者として生きる者であることを自分に思い起こさせるしるしとして自らに記してきたものなのです。

その意味で、聖餐式では特にニケア信経の結びに十字を切るのは望ましいことでしょう。

教父ヨハネス・クリュソストモス(4世紀)は次のように教えました。「家を出る時には、こう言いなさい。『サタンよ、わたしはおまえに仕えることを放棄する。キリストよ、わたしはあなたと共にいます。』この言葉を口にしないでは、決して外出しないように。そしてこの言葉と一緒に、額の上に十字を刻印しなさい。」

現在のように、額からみぞおちへ、そして左肩から右肩へ、(掌を開いた右手の)中指で十字を切る形は4世紀頃には行われるようになっていましたが、詳しい由来は分かりません。※ 東方では、右手の親指、人差指、中指の三本を合わせて(聖公会でも見られます)、あるいは人差し指と中指の二本で、十字の横棒は右肩から左肩へ書きます。また最後に、王なるキリストが世界の王であることを表して地面に触れます。

額に十字をしるす形は、今も灰の水曜日や塗油の式に残っています。これらでは、古代教会の人々が額に十字をしるしたのと同じ意味がはっきりと保存されています。

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礼拝覚書(13)ロウソク(2)

By Michinori ManoNo Comments 12 7月

※ 甲府聖オーガスチン教会週報コラム(礼拝覚書(6)の続き)

み言葉の礼拝の時、祭壇のロウソクは点すのでしょうか、点さないのでしょうか。

聖公会では、宗教改革後、礼拝でロウソクを点さなくなっていましたが、19世紀に再びロウソクが用いられるようになりました。その際に、聖餐式の時には祭壇に2本のロウソク(Eucharistic Candle)を点し、朝夕の礼拝等では6本のロウソク(Office Lights)を点す、という区別が生じました。

しかし、そのような区別はそれ以前には知られていなかったことで、またロウソクを使うこと自体が慣習に属し、ルブリックで指示されていることではありませんから、どうするのが正しいということはありません(※ 礼拝覚書(6)参照)。

現在も、聖餐式の時は祭壇にロウソクを点し、朝夕の礼拝やみことばの礼拝ではロウソクを置かない、点さないという形で区別を残している教会がありますが、そのような伝統が一貫して存在するわけではありませんので、現在は聖餐式かどうかの区別なく特別な時以外は2本のロウソクを点すことが推奨されています。

 

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礼拝覚書(12)祈る時の手の形

By Michinori ManoNo Comments 9 7月

所作を代表するのが、祈る時の手の形でしょう。

日本聖公会では、(立ち、あるいは跪き)、両手の指を真直ぐに伸ばしたまま手のひらを合わせ、親指をX印の形に重ね、胸のあたりに軽くあてる形が、標準的です。これはすべての物事から手を離し、ひたすら神に向かうことを表しています。

プロテスタント教会では、(跪き)、両手を折り重ねる形がよく取られます。これは西欧の封建時代、家臣が領主に忠誠を表す時に取った手の形に由来すると言われます。この形をつくって領主の手の中に置いて、忠誠が誓われていました。
聖書時代からの形は、(立ち)、手をのばし、手のひらを上に向ける形です。神が与えてくださるものを受ける形です。聖公会では、司式者が会衆のために、あるいは会衆を代表して祈る時に、この形が取られています。「わたしが望むのは、男は怒らず争わず、”清い手を上げて”どこででも祈ることです。」(テモテへの手紙Ⅰ2:8)

イスラム教では、この古代からの形が保たれています。福音派では、この形が回復され、賛美、祈りの時に会衆が取る標準的な形になってきているようです(神さまのハグを求め、受ける形と表現されています)。聖公会やローマカトリックでも、主の祈りを唱える時にこの形を取ることを会衆に勧める教会が増えているようです。

司祭が、人やモノに、手を置く、あるいは手をかざすのは、祝福のため、献げるため、あるいは罪の赦しのために、聖霊が働いてくださることを祈る時です。
司祭が、胸の前に合わせている手を開くのは、招きのしるしです。

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礼拝覚書(11)ルブリックにない会衆の所作

By Michinori ManoNo Comments 26 6月

教会の大切な伝統のすべてが祈祷書に記されているわけではありません。慣習はルブリックに書かれていなくても、どうでもよい、意味がない、ということを意味しません。また、明示的に禁じられているのでなければ、禁じられているわけではありません。

所作は、各人の信心の表現であり、各教会で育まれる文化であるので、ルブリック(礼拝細字規定)として細かく指示されていないのです。所作は敬虔を表現するだけに、しないことが不敬虔なことであるかのように感じられることになってリタジーを歪めることにもなりかねないので、その感情を過剰に強調しないように、ということもあるでしょう。

例えば、ご聖体を噛んではいけない、歯を立ててはいけない、と言われることがあります。イエスさまが「わたしの肉に齧りつけ(トローゴー)」(ヨハネ6:54)と言われたのにも関わらずそう言われることがあるのは、ひざまずく姿勢が取られるのと同じく、ご聖体への「恐れ多さ」が強調される結果です。古代教会では、恐れ多さの強調のあまりに、聖餐式は「戦慄の食卓」等とも呼ばれ、聖餐式の回数まで減ることになってしまいました。しかし、そもそも聖餐式は、主の喜びにあずかる式です。「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるため」と言われ、自らを与えてくださったイエス・キリストの御体にあずかるのです。恐れ多さを覚えるのは当然だとしても、そのあまりに喜びを感じられないとしたら、それどころか間違いを起こしてはならない、といった意識に囚われるのなら、何の式だか分からないことになってしまいます。

では、所作はどうして大切なのでしょうか。パウロは、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と言いました(ローマの信徒への手紙10:9)。心で信じているから言い表す必要はない、ということはないのです。わたしたちの信仰は、わたしたちを世に派遣する信仰です。だから、わたしたちは、口で、身体で、言い表すのです。

「『身体とは、親なる神の愛と子なる人の魂がふれあう場所である』という言い方も可能かもしれません。人はその身体で神の愛を受け止め、その身体で神に賛美と感謝をささげているということです。」(『十字を切る』晴佐久昌英, 女子パウロ会)

※ プロテスタントは所作を迷信的な行為と見るような感覚を持つに至っていますが、ルターは『小教理問答書』で、十字を切ることを勧めています。「朝、起きたらすぐに、聖なる十字架のしるしによって自分自身を祝福し、次のように言いましょう。『父、子、聖霊なる神さまのみ心がなされますように。アーメン』。それから、ひずまずいても立ったままでもよいですから、使徒信経を述べ、主の祈りを唱えなさい。」

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礼拝覚書(10)ルブリックが指示する所作・姿勢

By Michinori ManoNo Comments 24 6月

キリスト教の礼拝(リタジー)は、生きたキリストの現存の祝祭です。同時に、キリストによって新しくされた生の在り方を<しるし>として表すものです。このことに、礼拝でとる所作・姿勢の必然と意味があります。それは霊的な姿勢として、またしるしとして意味があるのであって、身体的な動作自体に意味があるのではありません。

所作・姿勢には、祈祷書のルブリックで指示されているものと、指示されていないものがあります。

所作は次第に増え、リタジーを混乱させ、その構成・均衡・意味を歪めてしまうものです。そのため、英国教会で第一祈祷書がつくられた時(1559年)、信心を表す所作は徹底して削られ、ただし各人がそれをするのはかまわないとされました。

「立つ」「着席する」「ひざまずく」等はルブリックで指示されています。これらは、礼拝者がリタジーで取るべき姿勢です。

「立つ」:立つのが、礼拝の基本姿勢です。わたしたちはキリストと共に立たせられた者であるからです。わたしたちは聖霊を受けて、神の民としてみ前に立ち、主の祭司として主とすべての人々に仕えるのです。なお、福音書の朗読の時は、「一同立つ」に加えて「一同福音書の方を向く」と指示されていることに注意してください。わたしたちは福音を神の言葉として聞き、教会の内に受け止めるのです。

「着席する」:日課の朗読、説教を聞く時、また朗読の合間の詩篇交唱の時に着席します。立ったままでは大変だから、ということではなくて、わたしたちは耳を傾けます、ということを表現しています。なお、聖書の時代は「立つ」のが、祈り、傾聴、服従の姿勢でした。聖堂には、中世末期まで、椅子は、病気や高齢の人の席、司式者・補式者の席として置かれていただけでした。その後、西方教会では椅子が置かれるようになりますが、長椅子が置かれるようになったのは16世紀以後のことです。

「ひざまずく」:懺悔、告白の時、嘆願の時にひざまずきます。元来は奴隷が主人に対する時にした姿勢で、主である神の前に謙遜に従う表現です。なお、感謝聖別祷が唱えられる時(祈祷書172頁以後)ひざまずきますが、それは中世半ば以後に広まった信心表現の名残りで、本来は立つのがふさわしいのです。英国教会でもローマ・カトリックでも既に改められています。

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礼拝覚書(9) ルブリック(礼拝細字規定)

By Michinori ManoNo Comments 16 6月

聖ヒッポリュトスは紀元215年頃に『使徒伝承』を著しました。彼は、「よく教えを受けた者が、わたしたちの説明に耳を傾け、現在まで受け継がれてきた伝承を守り、理解し、確信が持てるようにするために、わたしたちは教会の認める伝承の真髄に、諸聖徒への愛に促されて触れていこう」と述べて、礼拝の心得、組織、所作、祈りの言葉を記しています。

わたしたちの用いている祈祷書は、いわばその『使徒伝承』の系譜を引くもので、単なる礼拝式文集ではなく、教会の在り方を教えるものです。『使徒伝承』には、祈祷文の他に、例えば、「教えを受けるために、連れてこられた人の携わっている仕事と職業について調べられる。…権力のもとにある兵士は人を殺してはならない。人を殺すように命令されても実行してはならないし、誓ってもならない。もし、これを望まないなら、退けられる」というように、具体的な指示が記されています。このような指示は後に赤インクで筆写あるいは印刷されるようになって、ルブリックと呼ばれるようになりました。日本語では「礼拝細字規定」と呼びます(カトリックではルブリカ=典礼注記)。わたしたちの祈祷書では、それは小文字で記されています。

「私たちが、ルブリックに従い、教会の伝統的な作法や慣行によって、共に礼拝する事により、祈祷書は、ただ一冊の書物であることから、私たちの教会の、生きた礼拝の書となります。」(『信徒ハンドブック』, 日本聖公会教務院編, 1968)

各式の冒頭に置かれたルブリックには、その式の意味や心得が記されています。朝夕の礼拝(p.18)、嘆願(p.98)、聖餐式(p.159-161)、教会問答(p.258)、入信の式(p.268)、個人懺悔(p.298)、聖婚式(p.300)、誕生感謝の祈り(p.317)、病人訪問の式(p.323)、葬送の式(p.346)等で記されていることは、信徒に向けて書かれていることですから、読んでおくようにしましょう。ルブリックだけでなく、折にふれ、本文を読むことも大切なことです。

「歌いまたは唱える」等、具体的な指示を内容とする式中のルブリックは、改めて目に留める必要を感じないかもしれません。しかし、礼拝は決まった形を繰り返せばよいというものではありません。それが生きた祈りとなるように、その教会の現実の中で常に新たに解釈され、実践されなければならないものです。それは司祭の仕事だと思われるかもしれませんが、司祭は会衆の理解がなければ変えられないものです。ルブリックの部分にも関心を持ってくださればと思います。

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礼拝覚書(8) 礼拝の「決まりごと」

By Michinori ManoNo Comments 9 6月

祈祷書は、ひとりひとりの信仰生活にとって大切なものである、というだけでなく、共同体の礼拝を整えるための定めが記されている書でもあります。

英国で最初の祈祷書が作られた時、同一国内では同一の祈祷書を用いるべきであり、「儀式の中のあるものを取捨選択すること自体は小事に過ぎないが、教会の共同の秩序規律を正当な手続き、権威によらずに個人が勝手に変えるのは神の前に大きな違反である」とされました。祈祷書は、国王と国会によって承認され、礼拝統一法によって、その使用が義務づけられました。

礼拝は、唱える言葉だけでなく、聖堂の作りや装飾、聖職や信徒の所作、祭具やその用い方等々、様々な要素から成っています。その中で何か「違う!」と思わされることがあると、思いがけず深刻な紛争になることがあります。そういう時は、そもそも何が定められていることなのか、何が慣習に属することなのか、ということをわきまえる必要があります。

礼拝についての定めは、祈祷書に記されていることが全てです。聖公会手帳、カレンダー、教会歴・日課表など、便宜のために広く参照されているものがありますが、それらに書かれていることは必ずしも「定められていること」ではありません。

例えば、祭色は、手帳やカレンダーに書かれていますが、祈祷書では定められていません。祭色は礼拝の意向によって決まります。礼拝の意向は祈祷書の定める教会暦・日課表でほぼ決まりますので、実際には使われる祭色がそんなにばらつくことはありませんが、選択が分かれうる日もあります。例えば顕現節は、日本聖公会では、慣習的に、顕現日までは白、その後は緑、ただし顕現後第1主日・主イエス洗礼の日と被献日は白ということになっていますが、英国教会では、そのようにしている教会もあれば、伝統に従って被献日まではずっと白を使う教会もある、というように、必ずしも統一されていません。

ロウソク、鐘、花、祭服、香、聖水の使用についても、日本聖公会の祈祷書では定められていません。何か別の書物に礼拝に関する決まり事が書かれているということはありません(組織・運営については『日本聖公会法憲法規』で定められています)。これらは、すべて慣習に属することです。慣習は、多様性があって、それぞれに意味、歴史があるものですが、どれが正しいということは言えないものです。そのような事柄について意見が分かれた時には、そもそも祈祷書が作られた目的のひとつは、宗教的対立に解決を与えるためであった、ということを思い起こす必要があります。祈祷書で定められていないこと、慣習に属することについて、自分の正しさを主張することは、聖公会の精神に反するのです。

慣習に属することについては、その教会の司祭が、信徒が慣れ親しんできた形を踏まえつつ、礼拝の意向、典礼の神学等を踏まえて決定すべきことです。

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礼拝覚書(7) 祈祷書の大切さ

By Michinori ManoNo Comments 2 6月

祈祷書を開いた最初のページに何と書かれているかご存知でしょうか。「本書は原本と相違ないことを証明する。祈祷書等検査委委員」とあります。森紀旦主教は『マラナ・タ – 楽しい「日本聖公会祈祷書」入門』で、この文言に注意を促して、「原本と違っている祈祷書が全国的に広がっていること、つまり“その教会独自のコピーによる聖餐式文”を嘆きたいのである」と述べられました。便利なのに、どうしてでしょうか?

森主教は、そのエッセイでは、せっかくその時々に用いる言葉をふさわしく選べるよう工夫されているのに、その教会で使わない選択肢が削除されてしまっていることを特に嘆かれたのでしたが、コピーを使うことで祈祷書を手にしなくなることのもたらす弊害はそれだけではありません。

祈祷書を大切にしたい第一の理由は、それが単なる礼拝式文集ではなく、信仰生活に具体的な指針と目に見える秩序を与えてくれるものだからです。祈祷書は、「ゆりかごから墓場まで、神のみもとに至る旅路が、イエス・キリストを中心にして展開されているもの」であって、「それに従う新生のリズムに躍動する生活において、恵みから恵みへと導かれてゆく」のです。ですから、たとえ礼拝ではチャントの曲譜を参照する必要等からコピーを使うとしても、祈祷書は聖書と共に常に手もとに置き、親しむべきなのです。

第二の理由は、祈祷書は、聖書と切り離せない関係にあるものだからです。英国教会で祈祷書が作成された時に、その意図として最も強調されたのは、聖書の言葉に養われた信仰生活をできるようにする、ということでした。そのために一年で聖書の大部分を読めるように教会暦と日課が整備されました。また、もっと根本的なこととして、そもそも聖書はつねに伝統に照らして、すなわち礼拝で経験されるものに解釈の鍵を与えられて読まれてきたのであり、その伝統を教えるのが祈祷書である、ということがあります。古代教父エイレナイオスは「われわれの教えはわれわれが聖餐において行っていることと一致しており、聖餐の祝いはわれわれが教えることを確立する」と述べています。

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礼拝覚書(6) ロウソク

By Michinori ManoNo Comments 23 5月

ロウソクに火を灯すことは、礼拝に必須の行為でしょうか?それは、どんな意味があるのでしょうか?

ロウソクについての指示は、日本聖公会の祈祷書のルブリックになく、慣習に属します。鐘を鳴らすことや祭壇の近くに花を飾ることと同様で、ロウソクはなくてもよいのです。米国でも同様です。英国では、1547年にエドワード六世が「キリストが世の真の光であること」を示すために祭壇に2本のロウソクを灯すように命じて以来、それが基本とされています。日本聖公会ではそれを慣習として継承しています。

甲府聖オーガスチン教会では、祭壇のロウソクは、礼拝の5分前に灯され、後奏の間に消されます。ふさわしい心構えで礼拝に臨むには、礼拝開始の遅くとも15分前には準備に入るのが望ましく、5分前にロウソクが灯された時には、すべて準備が整っているようにしましょう。また、礼拝後も、ロウソクが消されるまでは沈黙して席に座っているようにしましょう。

ちなみに、ローマ・カトリックには、司教司式の盛儀ミサでは7本、荘厳ミサでは6本、盛式ミサでは4本あるいは6本、読唱ミサでは4本あるいは2本、司祭が司式するミサでは2本…という伝統がありますが、それは聖公会の伝統ではありません。しかし、19世紀に典礼の伝統を復興しようとする流れが起こって、一部の教会はローマ・カトリックに倣うようになりました。他方、それに対する強い反発も起こり、ロウソクの使用自体を禁止すべきであるという議論もされましたが、決議には至りませんでした。また、ローマ・カトリックには、蝋はキリストの体/人性を、芯はキリストの魂を、炎はキリストの神性を表すので、蜜蝋を使わなければいけない、という規則もありますが、元々は獣脂でできた安い蝋は悪臭を放つために禁じられたことに由来する規則です。

ロウソクは明かりとしての実際的な必要から使われ始め、教会は当初典礼的な意味を込めての使用には慎重でした。異教の祭儀で広く用いられていたため、宗教の混淆を恐れたのでしょう。しかし、古代末期には、東方教会では、明かりの必要がなくても、福音書が読まれる時には「喜びの目に見えるしるし」として灯火を点すようになっていました。西方教会で、祭壇にロウソクが置かれるようになったのは12世紀ですが、「神の臨在を象徴する」、「玉座たる祭壇から輝き出て、そのみ前に集った民を照らす光であるキリストを象徴する」、「『世の光』であるキリストを象徴する」、「み言葉の朗読によって『照らし』を受けることを象徴する」、「神のみ前に立ち上る会衆の祈りを象徴する」といった理解があります。聖餐式は喜びの祝祭であるから点すのだ、という理解もあります。

また、祭壇の2本のロウソクを、ゴスペルキャンドル(左側)、エピッスルキャンドル(右側)と呼び、点灯は右から左の順で、消灯はその逆順で、という伝統があります。このように点灯、消灯すると、ゴスペルキャンドルが1本だけ点されている状態になりませんが、それは、福音書は使徒書や旧約聖書と共に成立するもので、単体では成立しないことを象徴すると言われます。

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礼拝覚書(5) 鐘

By Michinori ManoNo Comments 16 5月

教会の鐘は、何のために鳴らすのでしょうか。礼拝が始まります!と知らせているのでしょうか。鐘の音が聞こえたら、礼拝堂に向かえばよいのでしょうか。それとも?

鐘の使用は慣習に属することで、一般的な定めはありませんが、現在は大きく分けて二つの目的で鳴らされます。第一の目的は、予鈴として、礼拝の開始が近いことを知らせ、聖堂に会衆を呼び集めるため。第二の目的は、本鈴として、また、それぞれの場で祈りをささげることができるように、祈りの時を知らせるためです。他にも昔は地域共同体に関わる様々なことを伝達するために用いられていました。

第一の目的では、英国では、教会区(パリッシュ/小教区)の信者が家から聖堂まで歩くのに必要な時間を見て、大体30分前に鐘が鳴らされます。日本では、信者は必ずしも所属教会の近辺に住んでいませんから、礼拝開始の5分前、あるいは10分前に予鈴が鳴らされることが多いようです。

第二の目的では、礼拝式のタイミングで鐘が鳴らされます。主日礼拝の開始時は、イエスさまの地上でのご生涯の年数分(33回)、鐘が鳴らされます。葬送式の開始時は、逝去者の生涯の年数分が鳴らされます。キャンドルマス(被献日の燭火礼拝)や棕櫚の日曜日の行列の間、鐘を鳴らす伝統もあります。礼拝中、例えば主の祈りをささげるタイミングで鳴らす伝統を持つ教会もあります。仕事等で礼拝に出席できない人が共に祈れるようにするためです。聖堂内で、元々は礼拝で使われるラテン語が分からない会衆が祈りや賛美を唱えたり、十字を切ったりするタイミングが分かるようにすることが目的であった、サンクトゥス・ベルを鳴らす慣習を残している教会もあります(※カトリックでは廃止)。

また、それぞれの人が自分のいる場所で定時の祈り(主の祈り、あるいはアンジェラスの祈り)をささげることができるように鐘が鳴らされます。朝6時、昼12時、夕6時が聖書時代からの伝統ですが、日本聖公会では朝夕の礼拝開始の時間に鳴らされています。

甲府聖オーガスチン教会では、予鈴ではなく、本鈴として、鐘が鳴らされています。鐘が鳴るのと共に戸が開かれ、わたしたちは神の家に入っていく(しかし、戸というものは開け放しにはされないものです!)、そういう心構えを持ちましょう。

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礼拝覚書(4) 主の祭司として

By Michinori ManoNo Comments 9 5月

世に対する公の奉仕である礼拝、わたしたちはそれを何者として為すのでしょうか。

聖餐式をささげる時、わたしたちは感謝の祈りの中で、そのことを言い表します。「父は、み子を人として生まれさせ、十字架の死と復活によって、わたしたちを罪の鎖から解放し、み子をご自身の右に挙げられました。そして聖霊を送り、わたしたちを神の民としてみ前に立たせ、主の祭司として主とすべての人々に仕えさせてくださいます。」(感謝聖別文Ⅰ, 祈祷書 p.173)

これはヨハネの黙示録で言われていることです(復活節第三主日の日課)。「…あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。」(5:9-10)

わたしたちは、主の祭司として礼拝をささげるのです。そのことに信徒、聖職の区別はありません。男、女の区別もありません。

そもそも人は「祭司」として創造されました。神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた、と創世記にあります(2:19 ※これは「人」が男と女に分けられる前のことです)。「名付けるとは、そのものに代わり、またそのものの内に神を賛美すること」です。それは祭司の働きに他なりません。人は、本来、すべていのちあるものの祭司なのです。

「彼/彼女はこの世の中心に立ち、神を賛美し、神からこの世を受け取り、そして受け取ったこの世を神に献げるという両方向の行為を通じてこの世をひとつにします。そして、この世を感謝で満たし、この世から受け取った彼/彼女自身のいのちを神の内にあるいのちに、神との交わりに変容します。…人はこの宇宙的なサクラメントの祭司なのです。」

モノ、ワタシ、それ自体に価値を見、それ自体を目的とする生き方(偶像を崇拜する生き方)に堕落して神から離れ、祭司としての在り方を放棄していた私たちは、十字架において人の本来の在り方を回復されたキリストの霊を受けて、祭司としての在り方を回復され、礼拝をささげるのです。

※ 引用は『世のいのちのために』(アレクサンドル・シュメーマン, 新教出版社)から。文意を変えない範囲で語句を若干修正しています。

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礼拝覚書(3) ふさわしい服装

By Michinori ManoNo Comments 30 4月

さあ今日は主の家で宴です。どんな「服装」で参加しますか?主はふさわしくない「服装」をしている人を見つけて言われます。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか。」そして側近の者たちに言われます。「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ 22:8-14)

ふさわしくない服装とは、「滅びに向かっている古い人」のこと(エフェソ4:22)。ふさわしい服装とは、悔い改めの心のことです。たとえ外見はボロボロの格好をしていても、古い人に死んだわたしを主は遠くから見つけ、駆け寄って来られて、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と言い(ルカ15:11-32)、「神にかたどって造られた新しい人」を着せてくださいます(エフェソ4:24)。

祈祷書の聖餐式のルブリックには、次のように記されています(p.160-161)。

「受聖餐者のうち、明らかに大罪を犯すか、言行で隣り人を害して主の民の交わりを損なった者があれば、司祭はその人に対して、その罪を悔い改め、加えた害を償い、または後に償う決心を明らかにしないときは、陪餐してはならないことを告げなければならない。また、互いに恨みを抱く者があれば、前の規則により、陪餐させてはならない。ただし、一方がその受けた害を赦し、与えた害の償いを明言し、和を求めているのに、他方が、それを受けいれずに恨みを解かないときは、司祭は和を求めている者に陪餐を許し、受けいれないものには許さない。これらの処置をしたとき、司祭は2週間以内に主教に報告する。」

主イエスご自身、「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」とお教えになりました。

ですから、礼拝前、聖堂に入ったら、招いてくださった主に感謝をのべ、また懺悔の祈りをささげましょう。祈祷書143頁~158頁にある「聖餐準備の式」を用いるのもよいでしょう。

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礼拝覚書(2) 参入

By Michinori ManoNo Comments 28 4月

聖餐式の式文を開くと、はじめに「参入」と書かれています。何に参入するのでしょうか?!わたしたちは主に招かれて、主の家に行き、主の喜びに参入します。

それは、礼拝で、形においても表現されます。わたしたちの教会では、普段、初めの聖歌が歌われる中を司祭が入堂します。しかし、かつては、礼拝に参加する人全員が、聖堂の入口で待機し、聖職の先導によって行列で入堂したのです。ベラルーシで見た正教会では現在でもそうでした。日本聖公会でも、棕櫚の日曜日、イースター・ヴィジル(聖土曜日の礼拝)、聖堂聖別式などで、その形が残されています。

家と礼拝所が離れたために、外で集まってから一緒に入堂するということが難しくなったのでしょう。各々聖堂に入って座って待つのが普通になっていますが、わたしたちは主に招かれて、主の家に入るのだ、ということに変わりはありません。それにふさわしい心構えで臨みたいものです。

人の家に招かれて行って、勝手口から入るでしょうか?主人に挨拶もせずに、他の人たちと挨拶、雑談を交わしたりするでしょうか?聖堂には玄関から入って、席に着いたらまず(ひざまずいて十字を切り)招いてくださったことを主である神に感謝しましょう。礼拝前は、他の人に対する挨拶は、目礼だけにしましょう。何か事情があって必要があるならば、会館に行って会話するようにしましょう。

聖餐式は「神の国の次元に入ってゆく教会の旅」です。聖堂に入る時、わたしたちは世から「離脱」します。祭壇に向かって進む行列は、イエス・キリストが世に降られ、十字架と復活に向かって歩まれたことを表します。また、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたその言葉に従って主の後を歩むことを表します。参入の聖歌を、わたしたちは、その行列に加わる者として歌うのです。

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礼拝覚書(1) 礼拝とは

By Michinori ManoNo Comments 20 4月

※甲府聖オーガスチン教会の週報のコラム用に書いたものです。

礼拝とは何でしょうか。祈りをささげることでしょうか。だとすれば、自宅でひとりで祈りをささげても、礼拝したことになるのでしょうか。

礼拝をささげる集まりは、ユダヤ教では10人の出席者がいなければ成立しません。キリスト教では2人の出席者がいなければ成立しません。 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタ18:20)と、イエスさまはお教えになりました。シナゴーグから排除された初代教会のキリスト者にとって、二人または三人がいれば礼拝が成立するという教えは大きな励ましになったことでしょう。

重要なことは、礼拝は、個人の行為ではなく、共同体の行為である、ということです。礼拝は、ギリシア語でレイトゥルギアと言います(英語のリタジー)。レイトゥルギアの語源は、ラオス(共同体を構成する民)のエルゴン(働き、仕事)です。一言でいうと「公共奉仕」です。

ただし、礼拝に先立って、また礼拝と関係なく、それを献げる共同体が既に存在している、というわけではありません。礼拝を通して、初めて、人々の集まりが単なる個人の群れではなくて、ひとつの共同体へと形成されていくのです。わたしたちは神さまに召し出され、礼拝において「神のエクレシア(民会)=“教会”」になるのです。

そして、礼拝は、それ自体が、この世に対してキリストとそのみ国を証しする奉仕であって、それゆえにレイトゥルギアと呼ばれます。礼拝は、この世と関係のない、集まった者たちが行う私的行為ではないのです。また、礼拝の中で個人に割り当てられる役割を為すことや、礼拝以外にする諸々のことばかりが奉仕なのではありません。礼拝に参加すること自体がもっとも大切な奉仕なのです。

主の喜びに入り、その証人になること、それが礼拝であって、奉仕の本質です。

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パレスチナ・イスラエルのための世界平和週間(2015/9/20-26) 式文

By Michinori ManoNo Comments 12 9月

※ 印刷用PDF http://anglican.jp/nagasaka/programs/WWPPI2015_liturgy.pdf

◆招きの言葉

司式者:わたしたちはここに、神の民としていのちを祝うために集まっています。日々の生活において神が共にいてくださることを感謝するために集まっています。神の民のために祈りを献げるために集まっています。人々を引き離し、交わりを壊し、生活、共同体を引き裂くあらゆる壁に、心と思いを向けましょう。石でできている壁もあれば、反移民法、偏見、経済的不正義、恐れによってできている壁もあります。本日は、ことに、パレスチナの人々を家族、友人、耕地、同胞から引き離している恥ずべき壁について省みましょう。心と思いを開き、「平和をつくる者になりなさい」「和解を呼びかけ、助ける者となりなさい」という神の呼びかけを聞きましょう。すべての不公正、不正義の克服を約束しておられる正義の神への希望と信仰を表しましょう。不公正、不正義なるイスラエルの分離壁が壊されることへの希望を、そのための献身を、言い表しましょう。 (さらに…)

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諸聖徒日と諸魂日

By Michinori ManoNo Comments 25 10月

※ 2014年10月19日の週報のコラム: 諸聖徒日と諸魂日(1)

教会暦の歩みは「終末」へと向かっています。この時に、私たち以前にキリストの道を歩んだ人々を記念する「諸聖徒日」を祝うことは意味深いことです。 (さらに…)

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パレスチナ・イスラエルのための国際平和週間2014 礼拝式文

By Michinori ManoNo Comments 19 9月

「パレスチナ・イスラエルのための世界平和週間(WWPPI)」は、世界教会協議会の呼びかけで、9月21~27日に守られます。2014年度はパレスチナの政治的囚人に焦点を当てています。

– 礼拝式文(英語版): https://pief.oikoumene.org/・・・/invitation・・・/Liturgy2014.pdf
– 資料(英語版): https://pief.oikoumene.org/・・・/invitatio・・・/finalE_Book1.pdf

≪≪≪ パレスチナ・イスラエルのための国際平和週間2014 (9/21-27) 礼拝式文 ≫≫≫

◆ 前奏

◆ 祈りへの呼びかけ

司式者: 三大陸の交差点にして、次々に花開く文明、文化に養われた地、宗教、帝国、闘い、奇跡の揺籃である、中東のこの小さな地から、主イエス・キリストに従う私たちは、深く地に根を下ろした信仰から溢れ出す勇気によって力を与えられ、あなたたちの祈りを私たちの祈りと合わせるよう呼びかけます。憐れみ深い創造主に、そのすべての子らの苦しみを終わらせてくださるように祈りましょう。ことに、預言者たちと私たちの主、救い主によって約束され、普遍的な人権の法律と宣言によって保障されているはずの解放を求める、捕虜、囚人、受刑者、亡命者のために祈りましょう。彼らはあなたたちが声をあげ、叫ぶことを期待しています。「あなたは彼らを尊厳をもって生きるように創造されました。み民を自由にしてください」と。唯一なる永遠の神、三位一体なる私たちの神、父と子と聖霊の名によって礼拝を始めましょう。 (さらに…)

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