Archive for the ‘– 礼拝’ Category

礼拝覚書(8) 礼拝の「決まりごと」

By Michinori ManoNo Comments 9 6月

祈祷書は、ひとりひとりの信仰生活にとって大切なものである、というだけでなく、共同体の礼拝を整えるための定めが記されている書でもあります。

英国で最初の祈祷書が作られた時、同一国内では同一の祈祷書を用いるべきであり、「儀式の中のあるものを取捨選択すること自体は小事に過ぎないが、教会の共同の秩序規律を正当な手続き、権威によらずに個人が勝手に変えるのは神の前に大きな違反である」とされました。祈祷書は、国王と国会によって承認され、礼拝統一法によって、その使用が義務づけられました。

礼拝は、唱える言葉だけでなく、聖堂の作りや装飾、聖職や信徒の所作、祭具やその用い方等々、様々な要素から成っています。その中で何か「違う!」と思わされることがあると、思いがけず深刻な紛争になることがあります。そういう時は、そもそも何が定められていることなのか、何が慣習に属することなのか、ということをわきまえる必要があります。

礼拝についての定めは、祈祷書に記されていることが全てです。聖公会手帳、カレンダー、教会歴・日課表など、便宜のために広く参照されているものがありますが、それらに書かれていることは必ずしも「定められていること」ではありません。

例えば、祭色は、手帳やカレンダーに書かれていますが、祈祷書では定められていません。祭色は礼拝の意向によって決まります。礼拝の意向は祈祷書の定める教会暦・日課表でほぼ決まりますので、実際には使われる祭色がそんなにばらつくことはありませんが、選択が分かれうる日もあります。例えば顕現節は、日本聖公会では、慣習的に、顕現日までは白、その後は緑、ただし顕現後第1主日・主イエス洗礼の日と被献日は白ということになっていますが、英国教会では、そのようにしている教会もあれば、伝統に従って被献日まではずっと白を使う教会もある、というように、必ずしも統一されていません。

ロウソク、鐘、花、祭服、香、聖水の使用についても、日本聖公会の祈祷書では定められていません。何か別の書物に礼拝に関する決まり事が書かれているということはありません(組織・運営については『日本聖公会法憲法規』で定められています)。これらは、すべて慣習に属することです。慣習は、多様性があって、それぞれに意味、歴史があるものですが、どれが正しいということは言えないものです。そのような事柄について意見が分かれた時には、そもそも祈祷書が作られた目的のひとつは、宗教的対立に解決を与えるためであった、ということを思い起こす必要があります。祈祷書で定められていないこと、慣習に属することについて、自分の正しさを主張することは、聖公会の精神に反するのです。

慣習に属することについては、その教会の司祭が、信徒が慣れ親しんできた形を踏まえつつ、礼拝の意向、典礼の神学等を踏まえて決定すべきことです。

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礼拝覚書(7) 祈祷書の大切さ

By Michinori ManoNo Comments 2 6月

祈祷書を開いた最初のページに何と書かれているかご存知でしょうか。「本書は原本と相違ないことを証明する。祈祷書等検査委委員」とあります。森紀旦主教は『マラナ・タ – 楽しい「日本聖公会祈祷書」入門』で、この文言に注意を促して、「原本と違っている祈祷書が全国的に広がっていること、つまり“その教会独自のコピーによる聖餐式文”を嘆きたいのである」と述べられました。便利なのに、どうしてでしょうか?

森主教は、そのエッセイでは、せっかくその時々に用いる言葉をふさわしく選べるよう工夫されているのに、その教会で使わない選択肢が削除されてしまっていることを特に嘆かれたのでしたが、コピーを使うことで祈祷書を手にしなくなることのもたらす弊害はそれだけではありません。

祈祷書を大切にしたい第一の理由は、それが単なる礼拝式文集ではなく、信仰生活に具体的な指針と目に見える秩序を与えてくれるものだからです。祈祷書は、「ゆりかごから墓場まで、神のみもとに至る旅路が、イエス・キリストを中心にして展開されているもの」であって、「それに従う新生のリズムに躍動する生活において、恵みから恵みへと導かれてゆく」のです。ですから、たとえ礼拝ではチャントの曲譜を参照する必要等からコピーを使うとしても、祈祷書は聖書と共に常に手もとに置き、親しむべきなのです。

第二の理由は、祈祷書は、聖書と切り離せない関係にあるものだからです。英国教会で祈祷書が作成された時に、その意図として最も強調されたのは、聖書の言葉に養われた信仰生活をできるようにする、ということでした。そのために一年で聖書の大部分を読めるように教会暦と日課が整備されました。また、もっと根本的なこととして、そもそも聖書はつねに伝統に照らして、すなわち礼拝で経験されるものに解釈の鍵を与えられて読まれてきたのであり、その伝統を教えるのが祈祷書である、ということがあります。古代教父エイレナイオスは「われわれの教えはわれわれが聖餐において行っていることと一致しており、聖餐の祝いはわれわれが教えることを確立する」と述べています。

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礼拝覚書(6) ロウソク

By Michinori ManoNo Comments 23 5月

ロウソクに火を灯すことは、礼拝に必須の行為でしょうか?それは、どんな意味があるのでしょうか?

ロウソクについての指示は、日本聖公会の祈祷書のルブリックになく、慣習に属します。鐘を鳴らすことや祭壇の近くに花を飾ることと同様で、ロウソクはなくてもよいのです。米国でも同様です。英国では、1547年にエドワード六世が「キリストが世の真の光であること」を示すために祭壇に2本のロウソクを灯すように命じて以来、それが基本とされています。日本聖公会ではそれを慣習として継承しています。

甲府聖オーガスチン教会では、祭壇のロウソクは、礼拝の5分前に灯され、後奏の間に消されます。ふさわしい心構えで礼拝に臨むには、礼拝開始の遅くとも15分前には準備に入るのが望ましく、5分前にロウソクが灯された時には、すべて準備が整っているようにしましょう。また、礼拝後も、ロウソクが消されるまでは沈黙して席に座っているようにしましょう。

ちなみに、ローマ・カトリックには、司教司式の盛儀ミサでは7本、荘厳ミサでは6本、盛式ミサでは4本あるいは6本、読唱ミサでは4本あるいは2本、司祭が司式するミサでは2本…という伝統がありますが、それは聖公会の伝統ではありません。しかし、19世紀に典礼の伝統を復興しようとする流れが起こって、一部の教会はローマ・カトリックに倣うようになりました。他方、それに対する強い反発も起こり、ロウソクの使用自体を禁止すべきであるという議論もされましたが、決議には至りませんでした。また、ローマ・カトリックには、蝋はキリストの体/人性を、芯はキリストの魂を、炎はキリストの神性を表すので、蜜蝋を使わなければいけない、という規則もありますが、元々は獣脂でできた安い蝋は悪臭を放つために禁じられたことに由来する規則です。

ロウソクは明かりとしての実際的な必要から使われ始め、教会は当初典礼的な意味を込めての使用には慎重でした。異教の祭儀で広く用いられていたため、宗教の混淆を恐れたのでしょう。しかし、古代末期には、東方教会では、明かりの必要がなくても、福音書が読まれる時には「喜びの目に見えるしるし」として灯火を点すようになっていました。西方教会で、祭壇にロウソクが置かれるようになったのは12世紀ですが、「神の臨在を象徴する」、「玉座たる祭壇から輝き出て、そのみ前に集った民を照らす光であるキリストを象徴する」、「『世の光』であるキリストを象徴する」、「み言葉の朗読によって『照らし』を受けることを象徴する」、「神のみ前に立ち上る会衆の祈りを象徴する」といった理解があります。聖餐式は喜びの祝祭であるから点すのだ、という理解もあります。

また、祭壇の2本のロウソクを、ゴスペルキャンドル(左側)、エピッスルキャンドル(右側)と呼び、点灯は右から左の順で、消灯はその逆順で、という伝統があります。このように点灯、消灯すると、ゴスペルキャンドルが1本だけ点されている状態になりませんが、それは、福音書は使徒書や旧約聖書と共に成立するもので、単体では成立しないことを象徴すると言われます。

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礼拝覚書(5) 鐘

By Michinori ManoNo Comments 16 5月

教会の鐘は、何のために鳴らすのでしょうか。礼拝が始まります!と知らせているのでしょうか。鐘の音が聞こえたら、礼拝堂に向かえばよいのでしょうか。それとも?

鐘の使用は慣習に属することで、一般的な定めはありませんが、現在は大きく分けて二つの目的で鳴らされます。第一の目的は、予鈴として、礼拝の開始が近いことを知らせ、聖堂に会衆を呼び集めるため。第二の目的は、本鈴として、また、それぞれの場で祈りをささげることができるように、祈りの時を知らせるためです。他にも昔は地域共同体に関わる様々なことを伝達するために用いられていました。

第一の目的では、英国では、教会区(パリッシュ/小教区)の信者が家から聖堂まで歩くのに必要な時間を見て、大体30分前に鐘が鳴らされます。日本では、信者は必ずしも所属教会の近辺に住んでいませんから、礼拝開始の5分前、あるいは10分前に予鈴が鳴らされることが多いようです。

第二の目的では、礼拝式のタイミングで鐘が鳴らされます。主日礼拝の開始時は、イエスさまの地上でのご生涯の年数分(33回)、鐘が鳴らされます。葬送式の開始時は、逝去者の生涯の年数分が鳴らされます。キャンドルマス(被献日の燭火礼拝)や棕櫚の日曜日の行列の間、鐘を鳴らす伝統もあります。礼拝中、例えば主の祈りをささげるタイミングで鳴らす伝統を持つ教会もあります。仕事等で礼拝に出席できない人が共に祈れるようにするためです。聖堂内で、元々は礼拝で使われるラテン語が分からない会衆が祈りや賛美を唱えたり、十字を切ったりするタイミングが分かるようにすることが目的であった、サンクトゥス・ベルを鳴らす慣習を残している教会もあります(※カトリックでは廃止)。

また、それぞれの人が自分のいる場所で定時の祈り(主の祈り、あるいはアンジェラスの祈り)をささげることができるように鐘が鳴らされます。朝6時、昼12時、夕6時が聖書時代からの伝統ですが、日本聖公会では朝夕の礼拝開始の時間に鳴らされています。

甲府聖オーガスチン教会では、予鈴ではなく、本鈴として、鐘が鳴らされています。鐘が鳴るのと共に戸が開かれ、わたしたちは神の家に入っていく(しかし、戸というものは開け放しにはされないものです!)、そういう心構えを持ちましょう。

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礼拝覚書(4) 主の祭司として

By Michinori ManoNo Comments 9 5月

世に対する公の奉仕である礼拝、わたしたちはそれを何者として為すのでしょうか。

聖餐式をささげる時、わたしたちは感謝の祈りの中で、そのことを言い表します。「父は、み子を人として生まれさせ、十字架の死と復活によって、わたしたちを罪の鎖から解放し、み子をご自身の右に挙げられました。そして聖霊を送り、わたしたちを神の民としてみ前に立たせ、主の祭司として主とすべての人々に仕えさせてくださいます。」(感謝聖別文Ⅰ, 祈祷書 p.173)

これはヨハネの黙示録で言われていることです(復活節第三主日の日課)。「…あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。」(5:9-10)

わたしたちは、主の祭司として礼拝をささげるのです。そのことに信徒、聖職の区別はありません。男、女の区別もありません。

そもそも人は「祭司」として創造されました。神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた、と創世記にあります(2:19 ※これは「人」が男と女に分けられる前のことです)。「名付けるとは、そのものに代わり、またそのものの内に神を賛美すること」です。それは祭司の働きに他なりません。人は、本来、すべていのちあるものの祭司なのです。

「彼/彼女はこの世の中心に立ち、神を賛美し、神からこの世を受け取り、そして受け取ったこの世を神に献げるという両方向の行為を通じてこの世をひとつにします。そして、この世を感謝で満たし、この世から受け取った彼/彼女自身のいのちを神の内にあるいのちに、神との交わりに変容します。…人はこの宇宙的なサクラメントの祭司なのです。」

モノ、ワタシ、それ自体に価値を見、それ自体を目的とする生き方(偶像を崇拜する生き方)に堕落して神から離れ、祭司としての在り方を放棄していた私たちは、十字架において人の本来の在り方を回復されたキリストの霊を受けて、祭司としての在り方を回復され、礼拝をささげるのです。

※ 引用は『世のいのちのために』(アレクサンドル・シュメーマン, 新教出版社)から。文意を変えない範囲で語句を若干修正しています。

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礼拝覚書(3) ふさわしい服装

By Michinori ManoNo Comments 30 4月

さあ今日は主の家で宴です。どんな「服装」で参加しますか?主はふさわしくない「服装」をしている人を見つけて言われます。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか。」そして側近の者たちに言われます。「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ 22:8-14)

ふさわしくない服装とは、「滅びに向かっている古い人」のこと(エフェソ4:22)。ふさわしい服装とは、悔い改めの心のことです。たとえ外見はボロボロの格好をしていても、古い人に死んだわたしを主は遠くから見つけ、駆け寄って来られて、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と言い(ルカ15:11-32)、「神にかたどって造られた新しい人」を着せてくださいます(エフェソ4:24)。

祈祷書の聖餐式のルブリックには、次のように記されています(p.160-161)。

「受聖餐者のうち、明らかに大罪を犯すか、言行で隣り人を害して主の民の交わりを損なった者があれば、司祭はその人に対して、その罪を悔い改め、加えた害を償い、または後に償う決心を明らかにしないときは、陪餐してはならないことを告げなければならない。また、互いに恨みを抱く者があれば、前の規則により、陪餐させてはならない。ただし、一方がその受けた害を赦し、与えた害の償いを明言し、和を求めているのに、他方が、それを受けいれずに恨みを解かないときは、司祭は和を求めている者に陪餐を許し、受けいれないものには許さない。これらの処置をしたとき、司祭は2週間以内に主教に報告する。」

主イエスご自身、「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」とお教えになりました。

ですから、礼拝前、聖堂に入ったら、招いてくださった主に感謝をのべ、また懺悔の祈りをささげましょう。祈祷書143頁~158頁にある「聖餐準備の式」を用いるのもよいでしょう。

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礼拝覚書(2) 参入

By Michinori ManoNo Comments 28 4月

聖餐式の式文を開くと、はじめに「参入」と書かれています。何に参入するのでしょうか?!わたしたちは主に招かれて、主の家に行き、主の喜びに参入します。

それは、礼拝で、形においても表現されます。わたしたちの教会では、普段、初めの聖歌が歌われる中を司祭が入堂します。しかし、かつては、礼拝に参加する人全員が、聖堂の入口で待機し、聖職の先導によって行列で入堂したのです。ベラルーシで見た正教会では現在でもそうでした。日本聖公会でも、棕櫚の日曜日、イースター・ヴィジル(聖土曜日の礼拝)、聖堂聖別式などで、その形が残されています。

家と礼拝所が離れたために、外で集まってから一緒に入堂するということが難しくなったのでしょう。各々聖堂に入って座って待つのが普通になっていますが、わたしたちは主に招かれて、主の家に入るのだ、ということに変わりはありません。それにふさわしい心構えで臨みたいものです。

人の家に招かれて行って、勝手口から入るでしょうか?主人に挨拶もせずに、他の人たちと挨拶、雑談を交わしたりするでしょうか?聖堂には玄関から入って、席に着いたらまず(ひざまずいて十字を切り)招いてくださったことを主である神に感謝しましょう。礼拝前は、他の人に対する挨拶は、目礼だけにしましょう。何か事情があって必要があるならば、会館に行って会話するようにしましょう。

聖餐式は「神の国の次元に入ってゆく教会の旅」です。聖堂に入る時、わたしたちは世から「離脱」します。祭壇に向かって進む行列は、イエス・キリストが世に降られ、十字架と復活に向かって歩まれたことを表します。また、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたその言葉に従って主の後を歩むことを表します。参入の聖歌を、わたしたちは、その行列に加わる者として歌うのです。

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礼拝覚書(1) 礼拝とは

By Michinori ManoNo Comments 20 4月

※甲府聖オーガスチン教会の週報のコラム用に書いたものです。

礼拝とは何でしょうか。祈りをささげることでしょうか。だとすれば、自宅でひとりで祈りをささげても、礼拝したことになるのでしょうか。

礼拝をささげる集まりは、ユダヤ教では10人の出席者がいなければ成立しません。キリスト教では2人の出席者がいなければ成立しません。 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタ18:20)と、イエスさまはお教えになりました。シナゴーグから排除された初代教会のキリスト者にとって、二人または三人がいれば礼拝が成立するという教えは大きな励ましになったことでしょう。

重要なことは、礼拝は、個人の行為ではなく、共同体の行為である、ということです。礼拝は、ギリシア語でレイトゥルギアと言います(英語のリタジー)。レイトゥルギアの語源は、ラオス(共同体を構成する民)のエルゴン(働き、仕事)です。一言でいうと「公共奉仕」です。

ただし、礼拝に先立って、また礼拝と関係なく、それを献げる共同体が既に存在している、というわけではありません。礼拝を通して、初めて、人々の集まりが単なる個人の群れではなくて、ひとつの共同体へと形成されていくのです。わたしたちは神さまに召し出され、礼拝において「神のエクレシア(民会)=“教会”」になるのです。

そして、礼拝は、それ自体が、この世に対してキリストとそのみ国を証しする奉仕であって、それゆえにレイトゥルギアと呼ばれます。礼拝は、この世と関係のない、集まった者たちが行う私的行為ではないのです。また、礼拝の中で個人に割り当てられる役割を為すことや、礼拝以外にする諸々のことばかりが奉仕なのではありません。礼拝に参加すること自体がもっとも大切な奉仕なのです。

主の喜びに入り、その証人になること、それが礼拝であって、奉仕の本質です。

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パレスチナ・イスラエルのための世界平和週間(2015/9/20-26) 式文

By Michinori ManoNo Comments 12 9月

※ 印刷用PDF http://anglican.jp/nagasaka/programs/WWPPI2015_liturgy.pdf

◆招きの言葉

司式者:わたしたちはここに、神の民としていのちを祝うために集まっています。日々の生活において神が共にいてくださることを感謝するために集まっています。神の民のために祈りを献げるために集まっています。人々を引き離し、交わりを壊し、生活、共同体を引き裂くあらゆる壁に、心と思いを向けましょう。石でできている壁もあれば、反移民法、偏見、経済的不正義、恐れによってできている壁もあります。本日は、ことに、パレスチナの人々を家族、友人、耕地、同胞から引き離している恥ずべき壁について省みましょう。心と思いを開き、「平和をつくる者になりなさい」「和解を呼びかけ、助ける者となりなさい」という神の呼びかけを聞きましょう。すべての不公正、不正義の克服を約束しておられる正義の神への希望と信仰を表しましょう。不公正、不正義なるイスラエルの分離壁が壊されることへの希望を、そのための献身を、言い表しましょう。 (さらに…)

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諸聖徒日と諸魂日

By Michinori ManoNo Comments 25 10月

※ 2014年10月19日の週報のコラム: 諸聖徒日と諸魂日(1)

教会暦の歩みは「終末」へと向かっています。この時に、私たち以前にキリストの道を歩んだ人々を記念する「諸聖徒日」を祝うことは意味深いことです。 (さらに…)

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パレスチナ・イスラエルのための国際平和週間2014 礼拝式文

By Michinori ManoNo Comments 19 9月

「パレスチナ・イスラエルのための世界平和週間(WWPPI)」は、世界教会協議会の呼びかけで、9月21~27日に守られます。2014年度はパレスチナの政治的囚人に焦点を当てています。

– 礼拝式文(英語版): https://pief.oikoumene.org/・・・/invitation・・・/Liturgy2014.pdf
– 資料(英語版): https://pief.oikoumene.org/・・・/invitatio・・・/finalE_Book1.pdf

≪≪≪ パレスチナ・イスラエルのための国際平和週間2014 (9/21-27) 礼拝式文 ≫≫≫

◆ 前奏

◆ 祈りへの呼びかけ

司式者: 三大陸の交差点にして、次々に花開く文明、文化に養われた地、宗教、帝国、闘い、奇跡の揺籃である、中東のこの小さな地から、主イエス・キリストに従う私たちは、深く地に根を下ろした信仰から溢れ出す勇気によって力を与えられ、あなたたちの祈りを私たちの祈りと合わせるよう呼びかけます。憐れみ深い創造主に、そのすべての子らの苦しみを終わらせてくださるように祈りましょう。ことに、預言者たちと私たちの主、救い主によって約束され、普遍的な人権の法律と宣言によって保障されているはずの解放を求める、捕虜、囚人、受刑者、亡命者のために祈りましょう。彼らはあなたたちが声をあげ、叫ぶことを期待しています。「あなたは彼らを尊厳をもって生きるように創造されました。み民を自由にしてください」と。唯一なる永遠の神、三位一体なる私たちの神、父と子と聖霊の名によって礼拝を始めましょう。 (さらに…)

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基本的な所作

By Michinori Mano2 Comments 30 7月

◆ 2014/8/10 週報のコラム

同じ聖公会でも、以前は各々の歴史に関わった伝道協会や聖職によって、大切にされる伝統が異なっていました。典礼改革によって古代からの礼拝の在り方についての理解が深められたこと、また海外の伝道協会から自立したことで、各教会の伝統も相対化され、現在は違いが意識される機会はあまりなくなっています。伝統の違いによる対立的な意識が薄れたのはよいことですが、伝統の中で育てられることがなくなったという面もあるかもしれません。 (さらに…)

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礼拝中の姿勢・動作の歴史

By Michinori ManoNo Comments 29 7月

◆ 2014/8/3 週報のコラム

初代教会では、会衆は立ったままで主日礼拝を捧げました。神の民として天の父の前にいることを強く確信していることを象徴する姿勢が取られたのです。祈る時は、顔を上に向け、目は開けたまま、手のひらを上に向け、手を上に差し伸べる形、あるいは自分の体の前で手を開く形が取られました。 (さらに…)

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福音朗読について

By Michinori ManoNo Comments 19 7月

◆ 2014/7/20 週報のコラム

さあ、旧約聖書、詩編、使徒書によって<神のことばの食卓>が整えられました。いまや、ご自身のことばのうちに現存しておられる主イエス・キリストを迎える時です。わたしたちは主をどのように迎えるでしょうか。 (さらに…)

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聖餐式における詩編交唱

By Michinori ManoNo Comments 15 7月

◆ 2014/7/13 週報のコラム

旧約聖書の朗読と使徒書の朗読の間に詩編の交唱があります。皆さんは、詩編の交唱をどのように体験されているでしょうか。 (さらに…)

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礼拝における沈黙・黙想・黙祷

By Michinori ManoNo Comments 27 6月

◆ 2014/6/22 週報のコラム 礼拝中の沈黙について

† 聖餐式の式文中、3箇所で<沈黙>する間を持つことが勧められているのは、ご存知でしょうか。これは現行祈祷書から初めて明示されるようになった指示です。 (さらに…)

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聖書日課の朗読について

By Michinori ManoNo Comments 27 6月

◆ 2014/6/8 週報のコラム

典礼刷新の基本的な線のひとつは、共同体として捧げるものとしての礼拝の回復ということでした。そのために信徒の役割は大きく変わり、聖書日課朗読、代祷祈願、供え物の奉納を信徒が担う形が回復されました。しかし、信徒が担っても、経験豊かな特定の人ばかりで分担するならば、共同の奉仕になりません。すべてのキリスト者が祭司の民であり、預言者なのですから、みんなで聖なる務めを分かち合いたいのです。 (さらに…)

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聖餐式聖書日課について

By Michinori ManoNo Comments 22 5月

※ 参考文献:『主日の御言葉 – 教会暦・聖餐式聖書日課・特祷』(森紀旦, 聖公会出版, 2000)

◆2014/5/25 週報のコラム

伝統的なキリスト教会では、各主日に朗読される聖書箇所を定めた日課表が用いられています。

歴に基づいて決められた箇所を礼拝で朗読する伝統は、初期ユダヤ教に遡ります。 (さらに…)

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教会の鐘について

By Michinori ManoNo Comments 15 5月

◆ 教会の鐘の歴史

教会といえば鐘がイメージされるほどに教会の鐘はポピュラーですが、その歴史は想像されるほど明らかではありません。桑山隆執事は『教会の鐘物語』(2010)で次のように書いています。 (さらに…)

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聖公会における葬送の式

By Michinori ManoNo Comments 12 4月

20世紀後半、ローマ・カトリックでは、葬送式は「キリスト信者の死の過越の性格をより明らかに表現」するように刷新され、古代教会の葬儀観が回復されました。

この典礼改革の影響が広まる中で、わたしたちがキリストの死と復活にあずかっていることを最もよく表明する典礼として、また死の現実の中にあっても神に結ばれた民が生者も死者もひとつであることを表明する典礼として、聖餐式が葬送式の基本要素として再認識されるようになりました。 (さらに…)

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