Archive for the ‘– 説教、黙想’ Category

<平和の挨拶>再考

By Michinori Mano1 Comment 9 4月

復活節第二主日(C年)説教(ヨハネ20:19-31)

先月の教会委員会で「平和の挨拶」の交わし方が話題になりました。今のやり方では挨拶を交わそうとした相手が別の人の方を向いていたりして、どうもうまくいかない感じがあります。「平和の挨拶」は、教会によって様々な仕方が取られています。全員が全員と握手する形を取っているところもあれば、合掌して唱和するだけの教会もあります。初代教会では、当時の社会的慣習にはなかったことですが、互いに接吻が交わされていました。そもそも「平和の挨拶」とは何なのでしょうか。どんなやり方が、この教会にはふわしいでしょうか。 (さらに…)

more

み子を前にして

By Michinori ManoNo Comments 17 3月

大斎節第五主日(C年)説教(ルカ20:9-19)

vineyard

大斎節も終わりに近づいてまいりました。次の日曜日は、聖週の始まりの日、十字架の受難の道行きにおける出来事を日々記念していく週の最初の日となります。

本日の福音書に記されているのは、イエスさまがエルサレムに入城された後、神殿の境内で商売している者たちを追い払われ、そこで毎日、民衆を教えておられた時の出来事です。人々が夢中になって聞き入っていると、祭司長や律法学者、長老たちが、近づいてきました。彼らは「何の権威でこのようなことをしているのか」と詰め寄りました。イエスさまは「私もあなたたちに質問するから答えなさい。そうしたら、わたしも答えよう」と言われ、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」と問い返されました。祭司長たちは、民衆を恐れて答えられませんでした。何も言えなくなった彼らの傍らで、集まっていた民衆に語り始められたのが、今日読まれた<葡萄園の譬え>です。 (さらに…)

more

命を与える言葉

By Michinori Mano2 Comments 10 3月

大斎節第四主日(C年)説教(ルカ15:11-32, ヨシュ5:9-12, 詩32, Ⅱコリ5:17-21)

打ちのめされ、生きる力を失っている人を立ち上がらせるものは、何でしょうか。その人を打ちのめしているものは、自らの犯した失敗や過ちが作り出した状況かもしれません。あるいは、災害、貧困、差別、病気など、自らに責はない状況かもしれません。どちらの場合であれ、もう一度、生きよう、生き直そう、という意欲を与えるものは、何でしょうか。また、私たちには、それを助けるような働きはできるものでしょうか。 (さらに…)

more

耕されるのを拒むものは

By Michinori Mano1 Comment 27 2月

大斎節第三主日(C年)説教(ルカ13:1-9)

固くなった心を耕され、降り注ぐ聖霊がよくしみ通るように、また蒔かれた種がよく根を伸ばせるように整えられ、命の息吹が再び溢れ始める春を喜びをもって迎える季節。大斎節の意味は、このように言い表すことができるでしょうか。 (さらに…)

more

試みを受けること

By Michinori Mano2 Comments 18 2月

大斎節第一主日(C年)説教(ルカ4:1-13)

JesusTemptedintheDesertIcon洗礼を受けた後、わたしたちは試みに遭います。(試みを受けた後に洗礼を授かるのではありませんし、洗礼を受けることと救われることは別のことです。本人の信仰は全く問われず、他者のとりなしのみによって救いが与えられる例さえも福音書は語るのです。)洗礼を受けることは、天への旅路を歩み始めること、エジプトを出て約束の地に向けて歩み始めることです。その旅路で様々な試みに遭うことは避けられません。それは、ただ旅路でアクシデントは避けられないから、ということではなく、神は、神の子を養い、育て、癒すために試されるからです。信仰が疑わしいから試されるのではありません。神に愛されているから試されるのです。それはただ耐え忍ぶという消極的な経験ではありません。わたしたちは、試みを受け、神の国にふさわしいものへと変えられるのです。 (さらに…)

more

週の第八日における経験

By Michinori ManoNo Comments 12 2月

大斎節前主日(C年)説教(ルカ9:28-36)

「この話をしてから八日ほど経ったとき…」。本日の福音書は、このように始まりました。「この話」というのは、ペトロが「神からのキリストです」と信仰を言い表したのを受け、イエスさまがご自身の受難の予告をされたこと、さらに弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と教えられたことを指しています。

聖書では当日を含めて日を数えますから、「八日後」というのは現代の言い方では「一週間後」ということ。ペトロの信仰告白とイエスさまの受難予告が仮に日曜日の出来事であったとしたら、本日の福音書の主の変容の出来事はその次の日曜日に起きた出来事として書かれています。ちょうど先週洗礼・堅信式があり、しかも今週から大斎節に入りますので、今日主の変容の出来事が読まれたことはぴったりなタイミングでありました。

ところで、主の変容の出来事はマタイ、マルコにも記されていますが、比べると、マタイ、マルコでは主の変容はペトロの信仰告白から「六日の後」に起きた出来事として書かれていることに気がつきます。ルカは「六日後」を「八日後」に変えて記したのです。それは意図があってのことと考えられます。どんな意図でしょうか。 (さらに…)

more

カナの婚礼

By Michinori Mano4 Comments 21 1月

顕現後第二主日(C年)説教(ヨハ2:1-11)

Jesus-Miracle-Wedding-at-Cana5年前の1月12日、朝のラッシュアワーに、野球帽を被ったひとりの男性が地下鉄ワシントンメトロのランファン駅構内でヴァイオリンを弾き始めました。 (さらに…)

more

洗礼とは

By Michinori ManoNo Comments 14 1月

顕現後第一主日(C年)説教(ルカ3:15-16,21-22)

baptism-s洗礼者ヨハネは、自分は水で洗礼を授ける、しかしキリストは聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる、と言いました。その洗礼について福音書と使徒言行録には、「洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と記されています(マコ1:4, ルカ3:3, 使13:24,19:4)。

ここで問題です。私たちが受けた洗礼は、この洗礼者ヨハネが授けた洗礼と同じでしょうか。違うでしょうか。 (さらに…)

more

詩「最上のわざ」

By Michinori ManoNo Comments 10 1月

ヘルマン・ホイヴェルス神父(Hermann Heuvers, 1890-1977)が44年ぶりにドイツに帰国した際、友人から贈られた詩だそうです。私は蔵書を譲って頂いた熊谷直俊氏(医師で、数冊の神学書を著し、新宮聖公会創立に貢献された聖公会信徒)の記念誌『一隅人』によって知りました。


最上のわざ

この世の最上のわざは何?
楽しい心で歳をとり
働きたいけれども休み
しゃべりたいけれども黙り (さらに…)

more

もう一度!

By Michinori ManoNo Comments 7 1月

顕現日(C年)説教(マタ2:1-12)

OLYMPUS DIGITAL CAMERA先週は、ヨハネ福音書第1章12~13節にあるみ言葉を通して、クリスマスが、二千年前のイエスさまの誕生を記念する時であると同時に、私たち自身の神の子としての誕生を記念する時、私たちの内におけるイエス・キリストの誕生を記念する時でもあるということについて思いをめぐらせました。

今日は、この「誕生」への霊的な旅路について、トマス・スターンズ・エリオットの詩「賢者の旅」に示された洞察から学びたいと思います。この詩は、ローワン・ウィリアムズ主教の最後のクリスマス説教で、「英語で書かれたもっとも印象深いクリスマスの詩」として紹介されていました。説教では一部分の引用のみでしたが、この機会に全文を訳しましたので、ご紹介します。T.S.エリオットはイギリスの現代詩人として知られていますが、1888年に米国のミズーリ州セントルイスで生まれた人です。大学卒業後、1914年にイギリスに渡りました。初めは、仏教やヒンズー哲学を熱心に学びながら、人類の様々な宗教的伝統の公約数の内に真理の道を見いだそうとするユニタリアンでした。しかし、1927年、T.S.エリオットはイエス・キリストに救いを見いだし、英国教会に転会します。それは、第1次世界大戦後の西欧世界の荒廃と、不幸な結婚の重荷を負っての困難な生活をする中での、霊的探求の結果でした。この年に、それまでの信仰への旅路を書き表したのがこれから紹介する「賢者の旅」という詩です。ベツレヘムに生まれたイエスさまのもとに星に導かれて来た三人の賢者たちが、何年も経った後にその旅を振り返って語るというスタイルで書かれています。では、お聞きください。 (さらに…)

more

T.S.エリオット「賢者の旅」(訳)

By Michinori ManoNo Comments 5 1月

OLYMPUS DIGITAL CAMERA2012年末で退任されたカンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズ師のクリスマス説教でT.S.エリオットの詩「賢者の旅」を知って、顕現日の説教のために翻訳しました。 (さらに…)

more

私たちの誕生を記念する時でもあるクリスマス

By Michinori ManoNo Comments 5 1月

降誕後第一主日(C年)説教

クリスマス・イブ礼拝のメッセージで、黙想の時間を持ちました。羊飼いたちと一緒に、マリヤとヨセフが宿にしている家を探し当て、その家の戸をあけて、中に何が見えるか、飼い葉桶に眠る赤ちゃんがどんな顔をしているかをよく見る、という課題で黙想しました。 (さらに…)

more

ローワン・カンターの最後のクリスマス説教

By Michinori ManoNo Comments 27 12月

カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズ師父の最後のクリスマス説教(私訳)

rowan数週間前に発表された世論調査によると、英国人の59%が自分はクリスチャンであると答えたということです。これは10年前と比べて12%のダウンです。幾つかの世俗主義の団体からは喜びの声があがりました。しかし、もし自分が英国人間主義協会の会員であったとしたら、興奮する前にちょっと考えることでしょう。市民の四分の三は何らかの宗教的信仰を持っているという事実があるのです。そして、世論調査は、自らを宗教的でないとする人たちが宗教についてどう考えているかを明らかにしていませんし、おそらくすることはできないでしょう。考えたこともないということなのか。何かを信じることができたらと願っているのか。宗教を問題だと思っているのか、社会の富であると思っているのか。先月の(英国教会)総会の後の深刻な痛みの経験の中で驚かされたのは、世論調査に「はい(宗教をもっています)」とは決して答えないであろう人々のとても多くが、教会にある種の投資をしていることが明るみに出たことです。彼らは教会を信頼性あるものとして見たいと願っているのです。そして、教会が、彼らの目から見て、その為すべきことを為さないと、本当に喪失感を味わうのです。 (さらに…)

more

み怒りと、救済のご意志の下で

By Michinori ManoNo Comments 17 12月

降臨節第三主日(C年)説教(ルカ3:7-18, 詩編85)

ヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言いました。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」

この洗礼者ヨハネの言葉は、不当なまでに厳しすぎる、そう思われないでしょうか。ヨハネのもとに集まってきた人々は、悔い改めの洗礼を宣べ伝えるヨハネのことを気にもかけないという人たち、神などいないと嘯いてはばからない人たちではなく、この今の世は神の怒りを免れ得ないのではないかという恐れを抱いた人たちです。その人々に向かって、「蝮の子らよ」とはあんまりではないかと思われないでしょうか。

この宣告を、わたしたちはどのように受けとめるべきなのでしょうか。クリスマスを前にしたこの季節の福音書として、なぜこの箇所が選ばれているのでしょうか。 (さらに…)

more

歴史的騒擾の中で(マコ13:14-23)

By Michinori ManoNo Comments 18 11月

聖霊降臨後第25主日(特定28)説教

イエス様が神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言いました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエス様は言われました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」しばらく後に、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねました。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」

本日の福音書は、この問いに対するイエス様の答えの一部分です。

ところで、この時、イエスさまはどこでどうしていらしたでしょうか。 (さらに…)

more

奴隷道徳なのか愛なのか(マコ10:35-45)

By Michinori ManoNo Comments 22 10月

聖霊降臨後第21主日(B年・特定24)説教

キリスト教道徳とは奴隷道徳に他ならない、とニーチェは喝破しました。残念ながら、これはしばしば真実です。イエスさまが教えたのは神の愛です。しかし、クリスチャンはそれを奴隷道徳に変えてしまっていることが多いのです。 (さらに…)

more

主の家族の創造(マコ10:2-9)

By Michinori ManoNo Comments 9 10月

聖霊降臨後第19主日(B年・特定22)説教

イエスさまはカファルナウムを出発して、東寄りに道をとりながらエルサレムに向かって南下されました。ヨルダン川の向こう側に行かれた、と書かれていますが、そこは洗礼者ヨハネが宣教活動を行い、ヘロデ王に捕らえられ、ついには首をはねられた地です。 (さらに…)

more

木を植える者

By Michinori ManoNo Comments 16 7月

2012年7月16日 山梨県三教会合同礼拝説教(清里聖アンデレ教会にて)

「わたしは木を植える者である」と、預言者アモスは言いました。今日は「木を植える人」として100年前に生きたある人の日記を読みながらお話ししたいと思います。彼が日記を書き始めたときは30歳で、その12年後に天に召されました。 (さらに…)

more

信仰を問われる(マコ5:22-43)

By Michinori ManoNo Comments 1 7月

聖霊降臨後第5主日(B年・特定8)説教

聞き苦しい声で申し訳ありません。金曜日の夜、東京の首相官邸前に行って原発の再稼働反対を訴えに行き、声を枯らしてしまいました。15万人が集まりました。警察の発表ではその十分の一、1万5千人ということでしたが、集まった人の叫びは拡声器の声が聞こえなくなるほどでした。「神さま、わたしたちの叫びをおききください」と祈りながら、被災地の人たちのことを思い浮かべながら、被造物に仕えるという神様から託された責任をなおざりにしてきた罪を思いながら、この時とばかりに声を出してきました。 (さらに…)

more

平和の挨拶

By Michinori Mano4 Comments 22 4月

復活節第二主日説教(B年)(ヨハ20:19-31)

Pax Christ Icon of Peace雨が降ったおかげもあるのでしょうか。長坂ではちょうどこの1週間で春の花が咲き始めました。木々も芽をふくらませています。礼拝堂の玄関脇にある山椒の木も、昨年、もう一本がまだ青々と葉を茂らせているのに全部葉を落としてしまって枯れてしまったのかと心配していましたが、芽を出しました。まるで自然もイエスさまのご復活にあずかり、新しい命を与えられたかのようです。

さて、本日の箇所で、「あなたがたに平和があるように」という言葉を、イエスさまは3回も口にされています。 (さらに…)

more
« Older Entries
Newer Entries »