– 説教、黙想 :: 海辺のノート

Archive for the ‘- 説教、黙想’ Category

<忍耐>によって命を得る

By Michinori Mano1 Comment 17 Nov

聖霊降臨後第26主日(特定28)ルカ 21:5-19

イエス・キリストの弟子として歩む霊的な旅路についての教えをたどってきましたが、いよいよその結びを迎えようとしています。 (more…)

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弟子として歩む覚悟

By Michinori ManoNo Comments 8 Sep

聖霊降臨後第16主日(特定18) ルカ 14:25-33

2020年のオリンピック開催地が東京に決まりました。早速、施設などの建設が始まっていくのでしょう。くれぐれも難民・移住労働者、野宿生活者の人権がないがしろにされている東京の現実、そして東日本大震災による被災地の現実、とくに未だに応急的な対応を後手後手に行っているばかりの原発の問題が、このことで覆い隠されてしまうようなことにならないように、緊張感をもって誠実に取り組むきっかけになって欲しいものだと思わされます。

古代ギリシアのオリンピックは紀元前8世紀から約千年間行われました。それを19世紀末に国際的な祭典として復活させたクーベルタン男爵の言葉として、「オリンピックで大切なのは勝つことではなく参加することだ。人生で肝心なのは、人を打ち負かすことではなくて、よく闘うことだからだ」という言葉があります。3年間勤務していた世界YMCA同盟はこのクーベルタン男爵の屋敷を事務所に使っているので関心を持って調べたことがあったのですが、この言葉は、実は、米国聖公会の第15代総裁主教エセルバート・タルボット師父の言葉だということです。 (more…)

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想定外?

By Michinori ManoNo Comments 2 Sep

聖霊降臨後第15主日(C年 特定17)シラ書10:12

「高慢の初めは、主から離れること、人の心がその造り主から離れることである。」(シラ書10:12)

IMGP0239_2この2週間、横浜教区、米国聖公会ナバホ・エリア・ミッション、フィリピン聖公会北フィリピン教区、三教区の青年交流プロジェクトで留守に致しました。これは三年間行われるプロジェクトで、今年は日本で行われました。来年はフィリピンで、再来年はナバホランドで行われる予定です。プログラムの中心は、東日本大震災の被災地の巡礼と奉仕活動でした。仙台をベースにして、福島県北端の新地町と宮城県の南三陸町および石巻市を訪ねました。今日は、その中で学んだことを、シラ書10章12節の言葉を導きの糸として、お話しします。 (more…)

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祈る者の希望

By Michinori ManoNo Comments 11 Aug

聖霊降臨後第12主日(特定14)ルカ12:32-40

ガリラヤからエルサレムへと十字架に向かう道を歩みながら、弟子たちにお教えになった永遠の命への道について、約1ヶ月半にわたって学んでまいりました。弟子としての心構え、愛の戒め、祈りの姿勢と目的について、学んでまいりました。

ここ2回は、主の祈りに始まって、祈りが主題でした。

前々回は特に祈りの姿勢について考えました。自分は特別に功徳を積んでいる、と誇るようなことはなくても、自分が神の恵みから排除されなければならないような謂われはない、というような思いが心の底に潜んではいないか。そのように、神に対して要求するに足る義が自分にはあるという態度でいるかぎりは、神さまは決して祈りに応えてはくださらない。ただ永遠の命に入らせてくださる神の約束を信じ、恥や外聞を捨てて神の憐れみに信頼し、その御手に自分の願いを委ねるとき、神さまは必要なものを何でも与えてくださるのだ、イエスさまはそうお教えになりました。 (more…)

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愛の実践

By Michinori ManoNo Comments 21 Jul

聖霊降臨後第9主日(特定11) ルカ10:38-42

先週の「よきサマリア人のたとえ」と、今週の「マルタとマリア」の話。このふたつは日常生活における愛の実践という主題のもとに並べられています。

これらは読み方によっては、矛盾したことが述べられているようにも読めてしまいます。 (more…)

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人を赦せない者への言葉

By Michinori ManoComments Off 17 Jun

聖霊降臨後第4主日(C年, 特定6)説教
ルカ7:36-50

先々週からルカによる福音書の第7章をお読みしています。ローマ軍の百人隊長の僕を、百人隊長にもその僕にも会うことなく癒されたという出来事は、列王記下5章に記されている預言者エリシャがシリアの軍司令官ナアマンに指示を与えるだけで会うことなく癒された出来事を思い起こさせるものでした。ナインのやもめの息子が蘇生した出来事は、列王記上17章に記されているエリシャの先生、大預言者エリヤがフェニキア人のやもめの息子を蘇生した出来事を思い起こさせるものでした。そして、その後、今日の箇所の前に、これらの出来事を弟子たちから伝え聞いた洗礼者ヨハネがイエスさまのもとに二人の弟子を遣わして、「来たるべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせた出来事が記されています。

民衆は、イエスさまにおいて確かに神が働かれていることを見て取りました。神が自分たちを顧み、訪れてくださったことを喜び、しかし、イエスさま、その人のことは、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、エリシャやエリヤと重ねて見る他、実のところ、どういう方なのかは見当を付けられないでいました。その中にあって、洗礼者ヨハネは、イエスさまのことを「来たるべき方」なのではないかと考えたのでした。

ヨハネの弟子たちを帰した後、イエスさまは洗礼者ヨハネのことを「預言者以上のものである」「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」と述べます。洗礼者ヨハネが「預言者以上のもの」であるならば、ではイエスさまは一体どういう方なのか。それが本日の福音書でテーマになっています。 (more…)

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もう泣かなくてよい

By Michinori ManoNo Comments 12 Jun

聖霊降臨後第3主日(C年)説教(ルカ7:11-17)

今週の福音書は、先週の百人隊長の話に続く箇所です。「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた」という言葉で始まっています。ナインという町は、遠くメソポタミアからシリアのダマスカスを通りガリラヤ湖北岸、カファルナウムの辺りに出て、そこから地中海岸へと続く古い通商路沿いにあった町です。カファルナウムから西南に約40キロくだり、イズレエルの谷に出るところにありました。 (more…)

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使徒聖バルナバ日

By Michinori ManoNo Comments 11 Jun

バルナバ(慰めの子)と呼ばれたヨセフは、キプロス島の生まれのレビ人で、異邦人伝道の拠点となったアンティオケア教会の基礎を固めた人です。パウロと共に働きましたが、後にパウロと仲違いします。使徒言行録には次のように書かれています。 (more…)

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聖霊を受けるということ

By Michinori Mano1 Comment 20 May

聖霊降臨日(C年)説教(ヨエ3, 使2:1-11, ヨハ20:19-23)

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。…イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

福音書記者ヨハネは聖霊降臨の出来事をこのように記しました。ここで語られているのは最も根源的な信仰体験です。すなわち、敵を恐れていた民が、神の霊を受け、神に守られた民としての経験をし、それを通してひとつの神の民として再生する、誕生するという体験です。 (more…)

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世が与える平和、主が与える平和

By Michinori Mano1 Comment 6 May

復活節第六主日(C年)説教(ヨハ14:23-29)

いよいよ復活節も終わりに近づいてまいりました。今週の木曜日9日には「昇天日」を、さ来週の日曜日には「聖霊降臨日」を迎えます。

今年はいつになく気候が不順でしたが、「聖霊降臨日」を迎える頃には、田植えが終わり、夏野菜の苗も植え終わっているのではないでしょうか。先ほど読まれた使徒言行録(14:8-18)やヨエル書(2:21-27)には、自然の摂理の内に神の恵みの業とその確かさを見て、天地の創造主である神をこそ信頼しなさいという教えが述べられていました。 (more…)

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<平和の挨拶>再考

By Michinori Mano1 Comment 9 Apr

復活節第二主日(C年)説教(ヨハネ20:19-31)

先月の教会委員会で「平和の挨拶」の交わし方が話題になりました。今のやり方では挨拶を交わそうとした相手が別の人の方を向いていたりして、どうもうまくいかない感じがあります。「平和の挨拶」は、教会によって様々な仕方が取られています。全員が全員と握手する形を取っているところもあれば、合掌して唱和するだけの教会もあります。初代教会では、当時の社会的慣習にはなかったことですが、互いに接吻が交わされていました。そもそも「平和の挨拶」とは何なのでしょうか。どんなやり方が、この教会にはふわしいでしょうか。 (more…)

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み子を前にして

By Michinori ManoNo Comments 17 Mar

大斎節第五主日(C年)説教(ルカ20:9-19)

vineyard

大斎節も終わりに近づいてまいりました。次の日曜日は、聖週の始まりの日、十字架の受難の道行きにおける出来事を日々記念していく週の最初の日となります。

本日の福音書に記されているのは、イエスさまがエルサレムに入城された後、神殿の境内で商売している者たちを追い払われ、そこで毎日、民衆を教えておられた時の出来事です。人々が夢中になって聞き入っていると、祭司長や律法学者、長老たちが、近づいてきました。彼らは「何の権威でこのようなことをしているのか」と詰め寄りました。イエスさまは「私もあなたたちに質問するから答えなさい。そうしたら、わたしも答えよう」と言われ、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」と問い返されました。祭司長たちは、民衆を恐れて答えられませんでした。何も言えなくなった彼らの傍らで、集まっていた民衆に語り始められたのが、今日読まれた<葡萄園の譬え>です。 (more…)

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命を与える言葉

By Michinori Mano2 Comments 10 Mar

大斎節第四主日(C年)説教(ルカ15:11-32, ヨシュ5:9-12, 詩32, Ⅱコリ5:17-21)

打ちのめされ、生きる力を失っている人を立ち上がらせるものは、何でしょうか。その人を打ちのめしているものは、自らの犯した失敗や過ちが作り出した状況かもしれません。あるいは、災害、貧困、差別、病気など、自らに責はない状況かもしれません。どちらの場合であれ、もう一度、生きよう、生き直そう、という意欲を与えるものは、何でしょうか。また、私たちには、それを助けるような働きはできるものでしょうか。 (more…)

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耕されるのを拒むものは

By Michinori Mano1 Comment 27 Feb

大斎節第三主日(C年)説教(ルカ13:1-9)

固くなった心を耕され、降り注ぐ聖霊がよくしみ通るように、また蒔かれた種がよく根を伸ばせるように整えられ、命の息吹が再び溢れ始める春を喜びをもって迎える季節。大斎節の意味は、このように言い表すことができるでしょうか。 (more…)

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試みを受けること

By Michinori Mano2 Comments 18 Feb

大斎節第一主日(C年)説教(ルカ4:1-13)

JesusTemptedintheDesertIcon洗礼を受けた後、わたしたちは試みに遭います。(試みを受けた後に洗礼を授かるのではありませんし、洗礼を受けることと救われることは別のことです。本人の信仰は全く問われず、他者のとりなしのみによって救いが与えられる例さえも福音書は語るのです。)洗礼を受けることは、天への旅路を歩み始めること、エジプトを出て約束の地に向けて歩み始めることです。その旅路で様々な試みに遭うことは避けられません。それは、ただ旅路でアクシデントは避けられないから、ということではなく、神は、神の子を養い、育て、癒すために試されるからです。信仰が疑わしいから試されるのではありません。神に愛されているから試されるのです。それはただ耐え忍ぶという消極的な経験ではありません。わたしたちは、試みを受け、神の国にふさわしいものへと変えられるのです。 (more…)

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週の第八日における経験

By Michinori ManoNo Comments 12 Feb

大斎節前主日(C年)説教(ルカ9:28-36)

「この話をしてから八日ほど経ったとき…」。本日の福音書は、このように始まりました。「この話」というのは、ペトロが「神からのキリストです」と信仰を言い表したのを受け、イエスさまがご自身の受難の予告をされたこと、さらに弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と教えられたことを指しています。

聖書では当日を含めて日を数えますから、「八日後」というのは現代の言い方では「一週間後」ということ。ペトロの信仰告白とイエスさまの受難予告が仮に日曜日の出来事であったとしたら、本日の福音書の主の変容の出来事はその次の日曜日に起きた出来事として書かれています。ちょうど先週洗礼・堅信式があり、しかも今週から大斎節に入りますので、今日主の変容の出来事が読まれたことはぴったりなタイミングでありました。

ところで、主の変容の出来事はマタイ、マルコにも記されていますが、比べると、マタイ、マルコでは主の変容はペトロの信仰告白から「六日の後」に起きた出来事として書かれていることに気がつきます。ルカは「六日後」を「八日後」に変えて記したのです。それは意図があってのことと考えられます。どんな意図でしょうか。 (more…)

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カナの婚礼

By Michinori Mano4 Comments 21 Jan

顕現後第二主日(C年)説教(ヨハ2:1-11)

Jesus-Miracle-Wedding-at-Cana5年前の1月12日、朝のラッシュアワーに、野球帽を被ったひとりの男性が地下鉄ワシントンメトロのランファン駅構内でヴァイオリンを弾き始めました。 (more…)

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洗礼とは

By Michinori ManoNo Comments 14 Jan

顕現後第一主日(C年)説教(ルカ3:15-16,21-22)

baptism-s洗礼者ヨハネは、自分は水で洗礼を授ける、しかしキリストは聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる、と言いました。その洗礼について福音書と使徒言行録には、「洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と記されています(マコ1:4, ルカ3:3, 使13:24,19:4)。

ここで問題です。私たちが受けた洗礼は、この洗礼者ヨハネが授けた洗礼と同じでしょうか。違うでしょうか。 (more…)

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詩「最上のわざ」

By Michinori ManoNo Comments 10 Jan

ヘルマン・ホイヴェルス神父(Hermann Heuvers, 1890-1977)が44年ぶりにドイツに帰国した際、友人から贈られた詩だそうです。私は蔵書を譲って頂いた熊谷直俊氏(医師で、数冊の神学書を著し、新宮聖公会創立に貢献された聖公会信徒)の記念誌『一隅人』によって知りました。


最上のわざ

この世の最上のわざは何?
楽しい心で歳をとり
働きたいけれども休み
しゃべりたいけれども黙り (more…)

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もう一度!

By Michinori ManoNo Comments 7 Jan

顕現日(C年)説教(マタ2:1-12)

OLYMPUS DIGITAL CAMERA先週は、ヨハネ福音書第1章12~13節にあるみ言葉を通して、クリスマスが、二千年前のイエスさまの誕生を記念する時であると同時に、私たち自身の神の子としての誕生を記念する時、私たちの内におけるイエス・キリストの誕生を記念する時でもあるということについて思いをめぐらせました。

今日は、この「誕生」への霊的な旅路について、トマス・スターンズ・エリオットの詩「賢者の旅」に示された洞察から学びたいと思います。この詩は、ローワン・ウィリアムズ主教の最後のクリスマス説教で、「英語で書かれたもっとも印象深いクリスマスの詩」として紹介されていました。説教では一部分の引用のみでしたが、この機会に全文を訳しましたので、ご紹介します。T.S.エリオットはイギリスの現代詩人として知られていますが、1888年に米国のミズーリ州セントルイスで生まれた人です。大学卒業後、1914年にイギリスに渡りました。初めは、仏教やヒンズー哲学を熱心に学びながら、人類の様々な宗教的伝統の公約数の内に真理の道を見いだそうとするユニタリアンでした。しかし、1927年、T.S.エリオットはイエス・キリストに救いを見いだし、英国教会に転会します。それは、第1次世界大戦後の西欧世界の荒廃と、不幸な結婚の重荷を負っての困難な生活をする中での、霊的探求の結果でした。この年に、それまでの信仰への旅路を書き表したのがこれから紹介する「賢者の旅」という詩です。ベツレヘムに生まれたイエスさまのもとに星に導かれて来た三人の賢者たちが、何年も経った後にその旅を振り返って語るというスタイルで書かれています。では、お聞きください。 (more…)

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