Archive for the ‘– 説教、黙想’ Category

Sabeel Christmas Message 2016

By Michinori ManoNo Comments 10 12月

サビール・クリスマス・メッセージ 2016

いと高きところには神に栄光が、地には平和があって、人には慈しみが示されますように。

親しき友人たちへ

クリスマスは喜びの時です。日々の生活の悲しみや困難の只中にあって、わたしたちにはクリスマスの心が必要です。クリスマスのよき知らせと明るさが必要です。イエス・キリストの誕生は喜びと希望を与えます。「あなたに生まれます。救いをあたえる者、油注がれし者、主が。」わたしたちが日々の困難を切り抜けていくことができるように、クリスマスはつねにわたしたちを回復させ、新たにしてくれます。

しかし、クリスマスの物語は、また、トラウマと悲劇に満ちたものでもあります。幼子キリストの美しさと無垢さと共に、ヘロデのわがままと残酷さ、権力を持つ人々の冷淡さが語られているのです。

このアドベントにクリスマスの物語を読み、そこから何を学ぶことができるでしょうか。 (さらに…)

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宴会のたとえ

By Michinori ManoNo Comments 30 8月

聖霊降臨後第15主日(特定17)ルカ14:1,7-14 説教

「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。」

天地創造は、闇と混沌に覆われた世界に光と平安をもたらされた愛の業でした。それゆえ、神はエジプトでの奴隷生活から解放されたイスラエルの民に、その解放を天地創造の業に重ね、記念するために、安息日を守りなさいとお命じになったのでした。

ここに信仰理解の根本があります。しかし、そのために、安息日の理解と守り方をめぐって、世の人々はイエスさまと鋭く対立しました。ユダヤ社会の指導者たちは、安息日には仕事をしてはならないという「掟」に忠実であるべきことを教えていましたが、イエスさまは、安息日の「心」に忠実であることを何よりも大切にされたからです。「人々はイエスの様子をうかがっていた」とあるのは、この対立の故でした。 (さらに…)

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マルタとマリア

By Michinori ManoNo Comments 23 7月

聖霊降臨後第9主日(特定11)
創18:1-10b, ルカ10:38-42

◆ 昨日は、現在エルサレム教区から来日しているジョージ・コプティ司祭の講演会に行ってきました。ジョージ・コプティ司祭は、4年前に来日した際は、この長坂聖マリヤ教会を訪ねてくださいました。その時はレバノンで牧師をしておられましたが、今はヨルダンの首都アンマン旧市街にある聖パウロ教会で牧師をされています。今回の講演会の主題は、教会で今取り組んでいる難民のための働きについてでした。

ヨルダンは、旧約聖書の時代、エドム人が住んでいた国、その首都のアンマンはアンモン人が住んでいた国です。エドム人の「エドム」は、創世記のアダムとエバの「アダム」と同じ語から派生していて、赤茶けた土の色を意味する言葉です。水が少なくて、赤茶けた土の荒地が多いことに因んでいます。ヨルダンの人口は650万人。東京都の人口のちょうど半分位、面積は北海道とほぼ同じ位です。 (さらに…)

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善きサマリア人のたとえ

By Michinori ManoNo Comments 14 7月

(聖霊降臨後第8主日(特定10)申命記30:9-14, ルカ10:25-37)

7月1日金曜日、ヨルダン川西岸地区、ヘブロンの近郊で、「善きサマリア人のたとえ」を地で行く出来事がありました。

ユダヤ人入植者の家族が乗った車が、道路脇から銃撃を受け、運転していた父親が死亡し、車がひっくりかえり、同乗していた母親と子どもたちが車に閉じ込められました。たまたま、そこに、パレスチナ人難民のアル=バイードさんが通りかかりました。車のエンジンはまだ動いていて、ガソリンが流れ出ており、今にも引火して爆発するのではないかという状態でした。車の中からはヘブライ語で「助けて」と子どもが叫んでいました。アル=バイードさんはイスラエルでの仕事で覚えたヘブライ語で子どもに話しかけて落ち着かせながら、ドアをこじ開け、二人の子どもとその母親を引っ張り出しました。一緒にいたアル=バイードさんの妻は元看護士で、二人で救急治療を施しました。 (さらに…)

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復活の主の愛

By Michinori ManoNo Comments 12 4月

復活節第3主日(C年)説教(ヨハネによる福音書 21:1-14, 詩編第30篇, ヨハネの黙示録5:6-14)

loaves-fish_pngヨハネによる福音書の復活記事の特徴は、どんなところにあるでしょうか。

◆ ひとつ目の特徴は、復活の主が弟子たちに現れた出来事が主日礼拝に重ねて語られている点にあります。

1回目、2回目の出来事では、共に、週の初めの日、すなわち日曜日に、弟子たちが家で戸に鍵をかけて集まっていると、その真ん中にイエスさまが立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。

わたしたちは毎主日、「主イエス・キリストよ、おいでください」、「弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現されたように、わたしたちのうちにもお臨みください」と唱えて、そのことを記念しています。知らず知らずの内に自らの内にも外にも扉をしめ、鍵をかけて生きている私たちのただ中にも、復活の主が姿をお見せになり、恐れを喜びに、不信仰を信仰に変えてくださることを願って、礼拝に参入するのです。 (さらに…)

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死にあずかるという救い

By Michinori ManoNo Comments 15 3月

大斎節第5主日(C年)説教(甲府聖オーガスチン教会にて)
聖書日課:イザヤ43:16-21, フィリピの信徒への手紙3:8-14, ルカ20:9-19

「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵芥と見做しています。」

パウロにとってイエス・キリストを知ることにそれほどの素晴らしさを感じる前提となっていたことは何でしょうか。

それは自分の罪深さの認識でした。自分の中に罪が住んでいることを知ることでした。自分が望んでいることを行わせず、憎んでいることを行わせる悪の力が自分の中で働いていることを知ることでした。人のため、神のために行動しているのだと思っている時でも、実は自分勝手で自己中心的な行動をしていることがあること。自分は自分のしていることが必ずしも分かっていないこと。そのような罪の拭いがたさを知ることがなければ、「キリストの死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したい」などと思うことはないでしょう。人間の根本的なところに罪への傾きがあること、そこで悪の力が働いていることを知ればこそ、わたしたちは、主イエス・キリストのご復活に他のすべてがかすむほどの素晴らしさと喜びを感じるのです。

問題は、わたしたちが、そのような根本的な罪への傾き、罪による支配を、なかなか認められないことです。 (さらに…)

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荒れ野に生きる

By Michinori ManoNo Comments 15 2月

大斎節第1主日(C年)説教

◆ 大斎節に入りました。大斎節を失うものは1年を失う、と言われます。これは経験に基づく言葉、信仰生活の実感から言われる教えであるのと同時に、信仰理解そのものから来る言葉でもあると思います。

大斎節のこころは、灰の水曜日の礼拝で、額に灰の十字架を書かれる時に唱えられる「あなたは塵であるから、塵に帰りなさい。罪を離れて、キリストに忠誠を尽くしなさい」という言葉によく言い表されています。

わたしたちは神によって塵からつくられたものであって、塵に帰るものである。わたしたちはただ、神の息によって命あるものとして生きているのであって、神の息が自分から出ていけば死ぬものである。この自分と神とについての根本認識が土台としてあってこそ、その上に、神の恵みを感謝し、神の憐れみに頼り、神からの救いを信じる、信仰生活が成り立ちます。

大斎節には、この信仰生活の原点である根本認識に立ち帰りたいのです。その認識を与えられる現場、自分が塵であり、塵に帰らなければならない現実に向き合わされる場所が荒れ野です。

◆ 荒れ野は、聖書でどのような場所として書かれているでしょうか。

荒れ野は、旧約聖書では、アダムとエバが追放された場所、「エジプト」と「約束の地」の間にある地、捕囚の民が生きる流謫の地です。 (さらに…)

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クリスマス・イブのお話

By Michinori ManoNo Comments 28 12月

とんとん。旅装束の若い夫婦が戸をたたきました。しかし、その家は飲めや歌えやの大騒ぎで、何度戸を叩かれても誰も気がつきませんでした。

どこの家も客を迎えて賑わっていました。ふたりはこの町の親戚とは縁遠くて、頼れる家がありませんでした。妻は身ごもっていて、野宿するわけにもいきませんでした。そこで町中の家々を宿を求めて訪ねまわっていたのでした。

この時代、お金を払って泊まるような宿は、数多くありませんでした。そのような宿があっても、しばしばいかがわしい商売の場所になっていたこともあって、旅人が見知らぬ人の家に宿を求めることは普通のことでした。それに、その昔、信仰の父アブラハムが見知らぬ旅人を迎え入れ、気づかずに天使をもてなしたことが、人々の生活の規範になっていました。見知らぬ旅人をよき知らせをもたらす天使を迎えるようにして歓待する慣習があったのです。

しかし、その日、若い夫婦を迎え入れる家は、なかなか見つかりませんでした。 (さらに…)

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山に逃げなさい

By Michinori ManoNo Comments 15 11月

聖霊降臨後第25主日(B年 特定28)説教
ダニ12:1-13, 詩16:5-11,ヘブ10:31-39,マコ13:14-23

日本時間で昨日早朝、パリで大規模なテロ事件が起こりました。129人が殺害されました。わたしはiPhoneにBBC newsのアプリを入れているので、事件直後に音が鳴って事件を知りましたが、テレビをつけても報道されておらず、どういうことだろうかと思わされました。その後、報道が入ってきましたが、今度はそれによって作り出された雰囲気に違和感を覚えました。連帯感を訴える雰囲気が作り出されていたからです。

ご存じでしょうか。パリでの事件の前日、レバノンの首都ベイルートでもISによるかつてない規模の連続自爆テロがあって、43人が死亡し、240人以上が負傷を負う事件が起こっていました。パレスチナでは、先月以来、イスラエルによる国家テロとも言うべき弾圧で、すでにパレスチナ人77人が殺害されています。レバノンでも、パレスチナでも、無辜の市民が無差別に暴力の犠牲になっているのです。でも、パリでの事件のようには受け止められていないのです。それをfacebookなどで見ていて、やりきれない悲しい気持ちに襲われました。

政治指導者たちからは、悪を懲らしめなければならない、団結して戦うぞ、といったメッセージばかりが伝わってきました。 (さらに…)

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「わたしたち」という意識

By Michinori ManoNo Comments 28 9月

聖霊降臨後第18主日説教

* マルコによる福音書 9:38-48

「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

「雷の子」の異名を持つ、ゼベタイの子、ヨハネが言いました。何という皮肉でしょうか。この少し前、弟子たちは、「ものを言わせず、耳を聞こえさせない」汚れた霊を追い出そうとして、追い出せなかった出来事があったばかりです。
自分たちがイエスの弟子であることで権威を与えられているかのように考えて、その権威において汚れた霊に立ち向かったものの、相手にならなかったのでした。ところが、イエスの弟子として数えられていない人、弟子たちにはよそ者として見られた人が、イエスの名において悪霊を追い出していた、というのです。 (さらに…)

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なんと信仰のない時代なのか

By Michinori ManoNo Comments 21 9月

聖霊降臨後第17主日(特定20)説教

「あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。」(イザ8:12-13a)

「神を信じない者は言葉と行いで自らに死を招き、死を仲間と見なして身を滅ぼす。すなわち、死と契約を結んだのだ。死の仲間としてふさわしい者だから。」(知1:16)

これまで、この言葉を、自分に向かって語られた言葉として聞いたことはありませんでした。警告としては読んでいたかもしれません。しかし、宣告として読んだことはありませんでした。

山本太郎さんではありませんが、今は喪に服すべき時でしょう。聖書の伝統で言えば、荒布を身にまとい、頭に灰をかぶって嘆くべき時でしょう。わたしたち日本人は、神を信じず、死と契約を結んだのです。 (さらに…)

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主よ、わたしの仕事は赤色で、あなたの仕事は緑色です

By Michinori ManoNo Comments 16 6月

聖霊降臨後第3主日(特定6)説教
(エゼキエル書31:1-6,10-14, マルコによる福音書4:26-34)

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」先週の福音書にあったこのみ言葉は、イエス・キリストにおいて啓示された真理を悟らせて聖なる者とする聖霊が注がれた時、主の家族である<教会>という姿において、人々の目に見える現実になりました。

エルサレムから見れば、ガリラヤという異邦人の地、世界の片隅で人々に神の国の訪れを知らせていたイエスさまの小さなからし種のような働きが、十字架における死によって地に蒔かれ、ご復活において芽を出して、ペンテコステの日、現在のイラン、イラクからエジプト、リビア、そしてローマにまで至る世界各地からエルサレムに来ていた人々を驚かせました。ガリラヤ湖のほとり、カファルナウムの町のシモン・ペトロの家で一緒に食事の席に着いていた主の小さな家族は、その300年後には、中央アジア、南アジアからヨーロッパに広がる大きな家族になっていました。そして、2000年後の今日、地球全体に広がる家族に成長しています。

さて、今日の「教会」の姿を見て想起されるのは、本日の日課にあったエジプトをレバノン杉に喩えたエゼキエルの言葉でしょうか、それとも神の国をカラシナに喩えたイエスさまの言葉でしょうか。 (さらに…)

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三位一体なる神

By Michinori ManoNo Comments 15 6月

三位一体主日(A年)説教
マタイによる福音書 28:16-20

holy-trinity-icon本日は、三位一体なる神を覚える祝日、「三位一体主日」です。祝日というと、クリスマス、イースターなど、神による救済の歴史的出来事を主題とした日、あるいは、使徒や福音書記者など、人物を記念する日がほとんどですが、今日は、神学的主題を覚える日ということで、少々特殊な祝日です。<教会の宣教の時>を黙想すべき時期である聖霊降臨後の節の始まりにあたって、この三つなる神についての理解を振り返りましょう。 (さらに…)

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民衆の復活事件としてのペンテコステ

By Michinori ManoNo Comments 9 6月

聖霊降臨日(A年)説教
ヨハネによる福音書14:8-17

holy-spirit◆ 梅雨に入りました。ここ数日、関東地方で降った雨は、6月としては記録的な雨量だったそうですね。スイカやえんどう豆など、畑のツタ植物が急に伸び始めました。

雨が注がれることと聖霊が注がれることはイメージが重なると思いつつ聖餐式聖書日課を確認していたら、聖霊降臨日のB年の旧約の日課はイザヤ書から選ばれていて、天から聖霊が注がれることが雨が降ることに喩えられていました。

「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える」

◆ さて、この聖霊降臨こそは、旧約の民が待ちこがれた<救いの日>の始まりを象徴的に示す出来事でした。

預言者エゼキエルは民に告げました。「『わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ』と主なる神は言われる」。

預言者ヨエルは民に告げました。「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」。

預言者ゼカリヤは民に告げました。「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。その日、エルサレムにはメギド平野におけるハダド・リモンの嘆きのように大きな嘆きが起こる」。

数ある預言の中でも、ゼカリヤの預言で、<その日>=救いの日が、嘆きの日として語られていることに注意をひかれます。どういうことでしょうか。 (さらに…)

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幸せなら手をたたこう

By Michinori Mano2 Comments 30 5月

2014/5/28,29 山梨英和中学・高校 朝の礼拝での説教

Giotto_-_Scrovegni_-_-38-_-_Ascension「幸せなら手をたたこう」という歌があります。皆さんの多くが「花の日」に歌ったとお聞きしました。この歌がどんな経緯で生まれたのか、お聞きになったことがあるでしょうか。 (さらに…)

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わたしの父は農夫である

By Michinori Mano2 Comments 25 5月

復活節第6主日(A年)ヨハネによる福音書15:1-8

taiyoujyu丹沢正作という人をご存知でしょうか。明治9年(1876年)に、山梨県西八代郡上野村、今の市川三郷町で生まれた人で、1926年に50歳で亡くなっています。 (さらに…)

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その石を取り除け

By Michinori ManoNo Comments 6 4月

大斎節第五主日(A年)説教(ヨハネ11:17-44)

Lazarus,_Russian_iconsこの大斎節、キリストによって開かれた永遠のいのちへと至る道をテーマとして、ヨハネ福音書の選ばれた箇所を読んでまいりました。

前半は、まずこの歩みの中で受ける試みの本質について、次にこの道を歩み出すこと、すなわち水による洗礼について、そして、この道を歩み続ける力の源を与えられること、すなわち霊による洗礼について、というように、死からの解放の業を神から<受けること>に重点が置かれていました。

後半に入った先週からは、死からの神の解放の業そのものに重点が移っています。先週は、生まれつきの盲人の癒しのお話でした。神の愛を受け、水と霊から生まれ直したものは、イエスさまをキリストとして見ることができるようになるのだ、聖書の言葉が自分の人生に意味を持つものとして響いてくるようになるのだ、ということが語られていました。

本日の福音書は、イエスさまが死んだラザロを蘇らせる話です。生まれつきの盲人の癒しの話と事柄としては同じことが、さらに覆いが取りはらわれて語られています。イエスさまをキリストとして見ることができるようになる、ということは、イエスさまにおいて私たちは神を見るのですから、神のご臨在のもとに生きるようになるということであって、それは永遠のいのちにあずかるようになることに他ならないからです。 (さらに…)

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霊の渇き

By Michinori ManoNo Comments 20 3月

大斎節第三主日(A年)説教
出17:1-7, ロマ5:1-11, ヨハ4:5-26,39-42

samaritanwsエジプトから導き出されたイスラエルの民は、その全員が行く手を阻む海を前にして信仰的決断をもって奮い立ち、海に足を踏み入れたわけではなかったでしょう。小太鼓を手にとって踊りながら先頭を行った女預言者ミリアムのような者は少数で、大多数は追ってくるエジプトの戦車隊への恐れに駆られて海に入ったのでしょうし、あるいは家族に従って入ったのでしょう。決断をもって海を渡った者たちでさえ、自由な人間として生きる望みを保ち、荒れ野の生活にくじけなかった者はほとんどいませんでした。まして、死への恐れに駆られて海を渡った者、家族に従って海を渡った者は、身に迫った危険が遠のくや否や、荒れ野を歩み続ける気力を容易に失ってしまったに違いありません。

荒れ野で<飲み水>を見つけられずにモーセに対して民が不満を言い募ったエピソードは、民が歩み続ける気力をなくしてしまったことを象徴しているように思います。人間は、食糧があって体を維持できても、それだけでは満たされません。人生が肯定されている、人生に意味がある、と感じられて初めて、生きる気力、瑞々しい生気を保てるのではないでしょうか。それがある人はそのことを意識しないかもしれません。しかし、それがない人は、なぜ生き続けなければならないのかも分からないと感じ、主は本当に我々の間におられるのかと、主を試す誘惑に直面します。<飲み水>は、生きる気力、生気を蘇らせるもの、人生を肯定的に見ることを可能にするもの、即ち神からの霊を象徴していると考えられます。 (さらに…)

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天国に入るには

By Michinori ManoNo Comments 16 3月

大斎節第二主日(A年)説教
ヨハネ3:1-17

_jesus-nicodemus先週は、旧約の民が荒野で受けた三つの試練を理解の助けとして、新約の民の頭としてイエスさまが荒野でお受けになった三つの試練とは何であったのかを考えました。

その三つの試練とは、神が霊肉を養ってくださることに信頼して生きることができるか、神が共にいてくださることに信頼して生きることができるか、ただ神のみを主として信頼して生きることができるか、ということでした。

人は、奴隷の身分から贖い出され、神が約束された新しい命に生きることを決断して葦の海を渡ってもなお、人とモノの奴隷として形作られた在り方から心も体も自由ではありません。エジプトから出ればすぐに約束の地で自由な身分の者として新しい生活に入ることできるわけではなく、荒野での40年を通して主の導きによって清められ、新たにされた者だけが約束の地に入ることができるのです。

限りない命への望みを与えられ、恐れと惑いをしずめて神さまに自らを委ね、水による洗礼を受けて古い在り方を捨て、さらにまた、古い在り方に戻らないための戒め、律法を与えられても、それで神の国にふさわしい者になれるわけではありません。 (さらに…)

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光は闇の中に現れる

By Michinori ManoNo Comments 30 12月

降誕後第一主日(A年)説教

今日は、ヨハネ福音書1章5節に注目したいと思います。5節は、新共同訳では、次のように訳されています。

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

これはこれで暗い時代を生きるものにとって感動を与えられる言葉になっていますが、聖書学者の田川建三さんは、この5節を次のように訳しています。

「そして光は闇の中に現れる。そして闇はそれを捉えなかった。」

新共同訳とは違うかもしれないけれど、だから何だ?と思われるかもしれませんが、この訳の違いは、案外と大きな理解の違いに繋がりうると思います。 (さらに…)

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