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Archive for the ‘– 説教、黙想’ Category
Sabeel Christmas Message 2016
By Michinori Mano • No Comments 10 12月サビール・クリスマス・メッセージ 2016
いと高きところには神に栄光が、地には平和があって、人には慈しみが示されますように。
親しき友人たちへ
クリスマスは喜びの時です。日々の生活の悲しみや困難の只中にあって、わたしたちにはクリスマスの心が必要です。クリスマスのよき知らせと明るさが必要です。イエス・キリストの誕生は喜びと希望を与えます。「あなたに生まれます。救いをあたえる者、油注がれし者、主が。」わたしたちが日々の困難を切り抜けていくことができるように、クリスマスはつねにわたしたちを回復させ、新たにしてくれます。
しかし、クリスマスの物語は、また、トラウマと悲劇に満ちたものでもあります。幼子キリストの美しさと無垢さと共に、ヘロデのわがままと残酷さ、権力を持つ人々の冷淡さが語られているのです。
このアドベントにクリスマスの物語を読み、そこから何を学ぶことができるでしょうか。 (さらに…)

クリスマス・イブのお話
By Michinori Mano • No Comments 28 12月とんとん。旅装束の若い夫婦が戸をたたきました。しかし、その家は飲めや歌えやの大騒ぎで、何度戸を叩かれても誰も気がつきませんでした。
どこの家も客を迎えて賑わっていました。ふたりはこの町の親戚とは縁遠くて、頼れる家がありませんでした。妻は身ごもっていて、野宿するわけにもいきませんでした。そこで町中の家々を宿を求めて訪ねまわっていたのでした。
この時代、お金を払って泊まるような宿は、数多くありませんでした。そのような宿があっても、しばしばいかがわしい商売の場所になっていたこともあって、旅人が見知らぬ人の家に宿を求めることは普通のことでした。それに、その昔、信仰の父アブラハムが見知らぬ旅人を迎え入れ、気づかずに天使をもてなしたことが、人々の生活の規範になっていました。見知らぬ旅人をよき知らせをもたらす天使を迎えるようにして歓待する慣習があったのです。
しかし、その日、若い夫婦を迎え入れる家は、なかなか見つかりませんでした。 (さらに…)

民衆の復活事件としてのペンテコステ
By Michinori Mano • No Comments 9 6月聖霊降臨日(A年)説教
ヨハネによる福音書14:8-17
◆ 梅雨に入りました。ここ数日、関東地方で降った雨は、6月としては記録的な雨量だったそうですね。スイカやえんどう豆など、畑のツタ植物が急に伸び始めました。
雨が注がれることと聖霊が注がれることはイメージが重なると思いつつ聖餐式聖書日課を確認していたら、聖霊降臨日のB年の旧約の日課はイザヤ書から選ばれていて、天から聖霊が注がれることが雨が降ることに喩えられていました。
「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える」
◆ さて、この聖霊降臨こそは、旧約の民が待ちこがれた<救いの日>の始まりを象徴的に示す出来事でした。
預言者エゼキエルは民に告げました。「『わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ』と主なる神は言われる」。
預言者ヨエルは民に告げました。「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」。
預言者ゼカリヤは民に告げました。「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。その日、エルサレムにはメギド平野におけるハダド・リモンの嘆きのように大きな嘆きが起こる」。
数ある預言の中でも、ゼカリヤの預言で、<その日>=救いの日が、嘆きの日として語られていることに注意をひかれます。どういうことでしょうか。 (さらに…)

幸せなら手をたたこう
By Michinori Mano • 2 Comments 30 5月2014/5/28,29 山梨英和中学・高校 朝の礼拝での説教
「幸せなら手をたたこう」という歌があります。皆さんの多くが「花の日」に歌ったとお聞きしました。この歌がどんな経緯で生まれたのか、お聞きになったことがあるでしょうか。 (さらに…)

わたしの父は農夫である
By Michinori Mano • 2 Comments 25 5月復活節第6主日(A年)ヨハネによる福音書15:1-8
丹沢正作という人をご存知でしょうか。明治9年(1876年)に、山梨県西八代郡上野村、今の市川三郷町で生まれた人で、1926年に50歳で亡くなっています。 (さらに…)

命を与える言葉
By Michinori Mano • 2 Comments 10 3月大斎節第四主日(C年)説教(ルカ15:11-32, ヨシュ5:9-12, 詩32, Ⅱコリ5:17-21)
打ちのめされ、生きる力を失っている人を立ち上がらせるものは、何でしょうか。その人を打ちのめしているものは、自らの犯した失敗や過ちが作り出した状況かもしれません。あるいは、災害、貧困、差別、病気など、自らに責はない状況かもしれません。どちらの場合であれ、もう一度、生きよう、生き直そう、という意欲を与えるものは、何でしょうか。また、私たちには、それを助けるような働きはできるものでしょうか。 (さらに…)

耕されるのを拒むものは
By Michinori Mano • 1 Comment 27 2月大斎節第三主日(C年)説教(ルカ13:1-9)
固くなった心を耕され、降り注ぐ聖霊がよくしみ通るように、また蒔かれた種がよく根を伸ばせるように整えられ、命の息吹が再び溢れ始める春を喜びをもって迎える季節。大斎節の意味は、このように言い表すことができるでしょうか。 (さらに…)

詩「最上のわざ」
By Michinori Mano • No Comments 10 1月ヘルマン・ホイヴェルス神父(Hermann Heuvers, 1890-1977)が44年ぶりにドイツに帰国した際、友人から贈られた詩だそうです。私は蔵書を譲って頂いた熊谷直俊氏(医師で、数冊の神学書を著し、新宮聖公会創立に貢献された聖公会信徒)の記念誌『一隅人』によって知りました。
最上のわざ
この世の最上のわざは何?
楽しい心で歳をとり
働きたいけれども休み
しゃべりたいけれども黙り (さらに…)

もう一度!
By Michinori Mano • No Comments 7 1月顕現日(C年)説教(マタ2:1-12)
先週は、ヨハネ福音書第1章12~13節にあるみ言葉を通して、クリスマスが、二千年前のイエスさまの誕生を記念する時であると同時に、私たち自身の神の子としての誕生を記念する時、私たちの内におけるイエス・キリストの誕生を記念する時でもあるということについて思いをめぐらせました。
今日は、この「誕生」への霊的な旅路について、トマス・スターンズ・エリオットの詩「賢者の旅」に示された洞察から学びたいと思います。この詩は、ローワン・ウィリアムズ主教の最後のクリスマス説教で、「英語で書かれたもっとも印象深いクリスマスの詩」として紹介されていました。説教では一部分の引用のみでしたが、この機会に全文を訳しましたので、ご紹介します。T.S.エリオットはイギリスの現代詩人として知られていますが、1888年に米国のミズーリ州セントルイスで生まれた人です。大学卒業後、1914年にイギリスに渡りました。初めは、仏教やヒンズー哲学を熱心に学びながら、人類の様々な宗教的伝統の公約数の内に真理の道を見いだそうとするユニタリアンでした。しかし、1927年、T.S.エリオットはイエス・キリストに救いを見いだし、英国教会に転会します。それは、第1次世界大戦後の西欧世界の荒廃と、不幸な結婚の重荷を負っての困難な生活をする中での、霊的探求の結果でした。この年に、それまでの信仰への旅路を書き表したのがこれから紹介する「賢者の旅」という詩です。ベツレヘムに生まれたイエスさまのもとに星に導かれて来た三人の賢者たちが、何年も経った後にその旅を振り返って語るというスタイルで書かれています。では、お聞きください。 (さらに…)

T.S.エリオット「賢者の旅」(訳)
By Michinori Mano • No Comments 5 1月2012年末で退任されたカンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズ師のクリスマス説教でT.S.エリオットの詩「賢者の旅」を知って、顕現日の説教のために翻訳しました。 (さらに…)

ローワン・カンターの最後のクリスマス説教
By Michinori Mano • No Comments 27 12月カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズ師父の最後のクリスマス説教(私訳)
数週間前に発表された世論調査によると、英国人の59%が自分はクリスチャンであると答えたということです。これは10年前と比べて12%のダウンです。幾つかの世俗主義の団体からは喜びの声があがりました。しかし、もし自分が英国人間主義協会の会員であったとしたら、興奮する前にちょっと考えることでしょう。市民の四分の三は何らかの宗教的信仰を持っているという事実があるのです。そして、世論調査は、自らを宗教的でないとする人たちが宗教についてどう考えているかを明らかにしていませんし、おそらくすることはできないでしょう。考えたこともないということなのか。何かを信じることができたらと願っているのか。宗教を問題だと思っているのか、社会の富であると思っているのか。先月の(英国教会)総会の後の深刻な痛みの経験の中で驚かされたのは、世論調査に「はい(宗教をもっています)」とは決して答えないであろう人々のとても多くが、教会にある種の投資をしていることが明るみに出たことです。彼らは教会を信頼性あるものとして見たいと願っているのです。そして、教会が、彼らの目から見て、その為すべきことを為さないと、本当に喪失感を味わうのです。 (さらに…)

木を植える者
By Michinori Mano • No Comments 16 7月2012年7月16日 山梨県三教会合同礼拝説教(清里聖アンデレ教会にて)
「わたしは木を植える者である」と、預言者アモスは言いました。今日は「木を植える人」として100年前に生きたある人の日記を読みながらお話ししたいと思います。彼が日記を書き始めたときは30歳で、その12年後に天に召されました。 (さらに…)

グレアム・グリーン『力と栄光』を読む
By Michinori Mano • No Comments 23 7月たまたま「貧しさ」について考えていたときだったので、「貧しさ」において現される主の「力と栄光」を主題として書かれたこの作品に出会うことができて、感激でした。(rev. 2009/8/3)
