Archive for the ‘- 神学、宣教論’ Category

金容福・民衆神学宣教論

By Michinori ManoNo Comments 6 Sep

金容福・民衆神学宣教論

韓国の民衆神学の第一世代に属し、今なお世界のエキュメニカル運動でリーダーシップを発揮しておられる金容福(キム・ヨンボック)先生が、宣教論をとらえかえす要点をまとめられた試論「イエスの宣教は、命の充溢に向けたすべての生けるものへの愛である」を翻訳しました。 (more…)

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イコンとは

By Michinori ManoNo Comments 15 Feb

イコンとは何か ~高橋保行神父のイコン論の要点

聖公会神学院第17回短期集中講座(2011/1/18-21)は、「東方正教会の霊性に学ぶ」と題して、正教会の長屋房夫神父と、岡山大学准教授の鐸木通剛氏を招いて開かれました。

美術研究者であり、聖公会で育ちながらもアトスで洗礼を受けて正教会の信徒となった鐸木氏は、主にイコンについて論じられたのですが、それが私には納得のいかないものであったので、20年前に買ったまま棚積みにしていた高橋保行神父のイコン論を読んで、対置させる形でまとめました。ほとんど引用を整理して列挙しただけのレポートです。 (more…)

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デ・ラ・トーレの「闘争の神学」

By Michinori ManoNo Comments 3 Jan

『フィリピン民衆の解放とキリスト者』(エディシオ・デ・ラ・トーレ, 教文館, 1986)の要点と思われる箇所の抜粋を作りました。政治的見解はともかくとして、聖餐論は真実を突いているように思いました。 (more…)

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ホワイトヘッドのプロフィール

By Michinori Mano2 Comments 21 Sep

ホワイトヘッドのプロフィール

牧会学の授業の課題で、プロセス神学に基礎を与えたホワイトヘッドのプロフィールをまとめました。 (more…)

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民衆教会の歩みに照らし、民衆神学の課題を考える

By Michinori ManoNo Comments 17 Jun

民衆教会の歩みに照らし、民衆神学の課題を考える

アジア・キリスト教史のレポートで、民衆神学の教会論を考える光にするため、韓国の民衆教会の歩みをノ・チャンシクに従って概観したものです。 (more…)

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「コミュニオン、聖公会誓約、聖公会の将来」

By Michinori ManoNo Comments 7 Oct

2009年米国聖公会総会に関するカンタベリー大主教のコメント(翻訳)

○2009年7月に開催された米国聖公会総会は、アングリカン・コミュニオンからの要請で一時的に停止していた、伴侶を持つ同性愛者の司祭の主教按手と、同性間の婚姻を公的に祝福することを、認めるべきことを決議しました。それに対して出されたカンタベリー大主教のコメント「コミュニオン、聖公会誓約、聖公会の将来」を翻訳しました。アングリカン・コミュニオンの今後の在り方への見通しまで語っている点で、注目される文書です。 (more…)

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<ヨブ記>と<コヘレトの言葉>のモチーフ

By Michinori ManoNo Comments 29 Apr

ヨブ記とコヘレトの言葉のモチーフ

2008年末に提出した旧約聖書入門の授業のレポートです。もっと手を入れたい気がしてアップしていませんでした。

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「日本宣教百周年」に語られていたこと

By Michinori ManoNo Comments 18 Mar

「日本宣教百周年」の時にどんな問題意識が持たれていたのかを観察してみました。 (more…)

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パレスチナの解放神学

By Michinori ManoNo Comments 11 Mar

2009年4月に、パレスチナで「サビール・エキュメニカル解放神学センター」を主宰するナイム・アティーク司祭が来日します。それに向けた勉強会用に、著書を部分的に翻訳したものをアップします。

『パレスチナ人クリスチャンの和解を求める叫び』(ナイム・アティーク, 2008)第9章「サムソン、最初の自爆攻撃者」

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寿地区センター講演会「ホームの創造」感想

By Michinori ManoNo Comments 29 Sep

今日は日本キリスト教団神奈川教区寿地区センターが毎年開催している講演会があって、家族で紅葉坂教会まで行ってきました。昨年も名古屋のまっちゃんが講師だったこともあって参加したのですが、今年は「ホームの創造~困窮孤立時代を生きる教会」というテーマで、北九州ホームレス支援機構の代表をしている奥田知志さん(日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会牧師)のお話でした。 (more…)

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「しょうがい」者への宣教の聖書的、神学的根拠

By Michinori ManoNo Comments 18 Jul

ジョージ・マシュウ・ナルンナカル(George Mathew Nalunnakkal)
(翻訳:田中牧子、翻訳校正:くまのみ)

● 序論

 宣教は第一義的に神中心である。私たちが呼びかけられて為すのは、神の宣教(ミシオ・デイ)だからである。宣教が神の宣教(ミシオ・ディ)であるならば、神をどう理解するかは宣教とその方法に関わることになる。 (more…)

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