キリスト教 :: 海辺のノート

Archive for the ‘キリスト教’ Category

基本的な所作

By Michinori Mano2 Comments 30 Jul

◆ 2014/8/10 週報のコラム

同じ聖公会でも、以前は各々の歴史に関わった伝道協会や聖職によって、大切にされる伝統が異なっていました。典礼改革によって古代からの礼拝の在り方についての理解が深められたこと、また海外の伝道協会から自立したことで、各教会の伝統も相対化され、現在は違いが意識される機会はあまりなくなっています。伝統の違いによる対立的な意識が薄れたのはよいことですが、伝統の中で育てられることがなくなったという面もあるかもしれません。 (more…)

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礼拝中の姿勢・動作の歴史

By Michinori ManoNo Comments 29 Jul

◆ 2014/8/3 週報のコラム

初代教会では、会衆は立ったままで主日礼拝を捧げました。神の民として天の父の前にいることを強く確信していることを象徴する姿勢が取られたのです。祈る時は、顔を上に向け、目は開けたまま、手のひらを上に向け、手を上に差し伸べる形、あるいは自分の体の前で手を開く形が取られました。 (more…)

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福音朗読について

By Michinori ManoNo Comments 19 Jul

◆ 2014/7/20 週報のコラム

さあ、旧約聖書、詩編、使徒書によって<神のことばの食卓>が整えられました。いまや、ご自身のことばのうちに現存しておられる主イエス・キリストを迎える時です。わたしたちは主をどのように迎えるでしょうか。 (more…)

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聖餐式における詩編交唱

By Michinori ManoNo Comments 15 Jul

◆ 2014/7/13 週報のコラム

旧約聖書の朗読と使徒書の朗読の間に詩編の交唱があります。皆さんは、詩編の交唱をどのように体験されているでしょうか。 (more…)

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礼拝における沈黙・黙想・黙祷

By Michinori ManoNo Comments 27 Jun

◆ 2014/6/22 週報のコラム 礼拝中の沈黙について

† 聖餐式の式文中、3箇所で<沈黙>する間を持つことが勧められているのは、ご存知でしょうか。これは現行祈祷書から初めて明示されるようになった指示です。 (more…)

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聖書日課の朗読について

By Michinori ManoNo Comments 27 Jun

◆ 2014/6/8 週報のコラム

典礼刷新の基本的な線のひとつは、共同体として捧げるものとしての礼拝の回復ということでした。そのために信徒の役割は大きく変わり、聖書日課朗読、代祷祈願、供え物の奉納を信徒が担う形が回復されました。しかし、信徒が担っても、経験豊かな特定の人ばかりで分担するならば、共同の奉仕になりません。すべてのキリスト者が祭司の民であり、預言者なのですから、みんなで聖なる務めを分かち合いたいのです。 (more…)

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ユダの福音書

By Michinori ManoNo Comments 26 Jun

先日、古本屋で安かったのでつい買ってしまった『原典 ユダの福音書』を読みました。グノーシス主義セツ派の文書のひとつで、キリスト教とは関わりない内容であるわけですが(人物名にイエスとユダと名前を使い、場面を最後の晩餐の場面に設定しているだけで、語られている内容はキリスト教とは別に成立していたセツ派の思想がそのまま語られている)、それはともかく、3点ほど、興味深く思いました。 (more…)

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三位一体なる神

By Michinori ManoNo Comments 15 Jun

三位一体主日(A年)説教
マタイによる福音書 28:16-20

holy-trinity-icon本日は、三位一体なる神を覚える祝日、「三位一体主日」です。祝日というと、クリスマス、イースターなど、神による救済の歴史的出来事を主題とした日、あるいは、使徒や福音書記者など、人物を記念する日がほとんどですが、今日は、神学的主題を覚える日ということで、少々特殊な祝日です。<教会の宣教の時>を黙想すべき時期である聖霊降臨後の節の始まりにあたって、この三つなる神についての理解を振り返りましょう。 (more…)

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民衆の復活事件としてのペンテコステ

By Michinori ManoNo Comments 9 Jun

聖霊降臨日(A年)説教
ヨハネによる福音書14:8-17

holy-spirit◆ 梅雨に入りました。ここ数日、関東地方で降った雨は、6月としては記録的な雨量だったそうですね。スイカやえんどう豆など、畑のツタ植物が急に伸び始めました。

雨が注がれることと聖霊が注がれることはイメージが重なると思いつつ聖餐式聖書日課を確認していたら、聖霊降臨日のB年の旧約の日課はイザヤ書から選ばれていて、天から聖霊が注がれることが雨が降ることに喩えられていました。

「わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える」

◆ さて、この聖霊降臨こそは、旧約の民が待ちこがれた<救いの日>の始まりを象徴的に示す出来事でした。

預言者エゼキエルは民に告げました。「『わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ』と主なる神は言われる」。

預言者ヨエルは民に告げました。「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」。

預言者ゼカリヤは民に告げました。「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。その日、エルサレムにはメギド平野におけるハダド・リモンの嘆きのように大きな嘆きが起こる」。

数ある預言の中でも、ゼカリヤの預言で、<その日>=救いの日が、嘆きの日として語られていることに注意をひかれます。どういうことでしょうか。 (more…)

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幸せなら手をたたこう

By Michinori Mano2 Comments 30 May

2014/5/28,29 山梨英和中学・高校 朝の礼拝での説教

Giotto_-_Scrovegni_-_-38-_-_Ascension「幸せなら手をたたこう」という歌があります。皆さんの多くが「花の日」に歌ったとお聞きしました。この歌がどんな経緯で生まれたのか、お聞きになったことがあるでしょうか。 (more…)

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わたしの父は農夫である

By Michinori Mano2 Comments 25 May

復活節第6主日(A年)ヨハネによる福音書15:1-8

taiyoujyu丹沢正作という人をご存知でしょうか。明治9年(1876年)に、山梨県西八代郡上野村、今の市川三郷町で生まれた人で、1926年に50歳で亡くなっています。 (more…)

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聖餐式聖書日課について

By Michinori ManoNo Comments 22 May

※ 参考文献:『主日の御言葉 – 教会暦・聖餐式聖書日課・特祷』(森紀旦, 聖公会出版, 2000)

◆2014/5/25 週報のコラム

伝統的なキリスト教会では、各主日に朗読される聖書箇所を定めた日課表が用いられています。

歴に基づいて決められた箇所を礼拝で朗読する伝統は、初期ユダヤ教に遡ります。 (more…)

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教会の鐘について

By Michinori ManoNo Comments 15 May

◆ 教会の鐘の歴史

教会といえば鐘がイメージされるほどに教会の鐘はポピュラーですが、その歴史は想像されるほど明らかではありません。桑山隆執事は『教会の鐘物語』(2010)で次のように書いています。 (more…)

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聖公会における葬送の式

By Michinori ManoNo Comments 12 Apr

20世紀後半、ローマ・カトリックでは、葬送式は「キリスト信者の死の過越の性格をより明らかに表現」するように刷新され、古代教会の葬儀観が回復されました。

この典礼改革の影響が広まる中で、わたしたちがキリストの死と復活にあずかっていることを最もよく表明する典礼として、また死の現実の中にあっても神に結ばれた民が生者も死者もひとつであることを表明する典礼として、聖餐式が葬送式の基本要素として再認識されるようになりました。 (more…)

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古代の教会における葬儀

By Michinori ManoNo Comments 12 Apr

※ 2014年度 長坂聖マリヤ教会 大斎節講話資料

初代教会は多くの殉教者を出しましたが、死は終わりではなく永遠の命への誕生であるという信仰から、殉教者の記念日には墓石を囲んでパンを割く式が行われ、主の内に兄弟姉妹として結ばれた絆は決して断ち切られないという信仰が宣言されました(※棺の形の聖卓はこの名残り)。この殉教者の遺体の埋葬と記念日の過ごし方が後の教会葬儀に影響を与えたと考えられます。 (more…)

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その石を取り除け

By Michinori ManoNo Comments 6 Apr

大斎節第五主日(A年)説教(ヨハネ11:17-44)

Lazarus,_Russian_iconsこの大斎節、キリストによって開かれた永遠のいのちへと至る道をテーマとして、ヨハネ福音書の選ばれた箇所を読んでまいりました。

前半は、まずこの歩みの中で受ける試みの本質について、次にこの道を歩み出すこと、すなわち水による洗礼について、そして、この道を歩み続ける力の源を与えられること、すなわち霊による洗礼について、というように、死からの解放の業を神から<受けること>に重点が置かれていました。

後半に入った先週からは、死からの神の解放の業そのものに重点が移っています。先週は、生まれつきの盲人の癒しのお話でした。神の愛を受け、水と霊から生まれ直したものは、イエスさまをキリストとして見ることができるようになるのだ、聖書の言葉が自分の人生に意味を持つものとして響いてくるようになるのだ、ということが語られていました。

本日の福音書は、イエスさまが死んだラザロを蘇らせる話です。生まれつきの盲人の癒しの話と事柄としては同じことが、さらに覆いが取りはらわれて語られています。イエスさまをキリストとして見ることができるようになる、ということは、イエスさまにおいて私たちは神を見るのですから、神のご臨在のもとに生きるようになるということであって、それは永遠のいのちにあずかるようになることに他ならないからです。 (more…)

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葬送式とは

By Michinori Mano2 Comments 29 Mar

※ 2014年度 長坂聖マリヤ教会 大斎節講話資料

◆ 葬送式は公祷です

米国の教会が最も異教的になるのは葬りにおいてであるという警告を発した米国の神学者がいたそうです。米国での話ですから、土着の宗教、習俗の影響を受けがちだ、ということではなくて、逝去者本人あるいは遺族の願いに応じようとして、葬送式がキリスト教の礼拝として逸脱しがちになっているという指摘だったのだろうと思います。

日本でも、米国と同様、結婚式であれ葬儀であれ、伝統に囚われずに自分の考えによって行いたいという要求が強くなっています。他方では、地域社会の伝統によって行うべきであるという要求も依然として強く、両者からの要求に妥協しがちな現状があるのではないかと思います。

このような状況下、葬送式を正しく執り行うことは、他の礼拝の場合よりも困難なことです。

そこで、まず押さえるべき要点は、葬送式は公祷である、ということです。公祷とは、キリストのみ名により、神の民として共同で捧げる礼拝で、定められた祈祷書によって行うものです。 (more…)

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大斎節中の礼拝

By Michinori ManoNo Comments 23 Mar

※ 2014年度 長坂聖マリヤ教会 大斎節講話資料

◆ 改められた教会暦上の強調点

1990年祈祷書が作られる際、併せて「別冊諸式」として『大斎節中の礼拝』が作られました。そこには、大斎始日(灰の水曜日)、復活前主日、聖木曜日、聖金曜日(受苦日)、聖土曜日(復活徹夜祭)の礼拝式文が含まれています。(※ 末尾に各々のポイントを書いてあります)

これは、教会暦の頂点として、キリストの受難と復活を記念する「聖なる三日間」(木~土)の典礼を回復しようとする、典礼改革のひとつの要として整えられたものです。 (more…)

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霊の渇き

By Michinori ManoNo Comments 20 Mar

大斎節第三主日(A年)説教
出17:1-7, ロマ5:1-11, ヨハ4:5-26,39-42

samaritanwsエジプトから導き出されたイスラエルの民は、その全員が行く手を阻む海を前にして信仰的決断をもって奮い立ち、海に足を踏み入れたわけではなかったでしょう。小太鼓を手にとって踊りながら先頭を行った女預言者ミリアムのような者は少数で、大多数は追ってくるエジプトの戦車隊への恐れに駆られて海に入ったのでしょうし、あるいは家族に従って入ったのでしょう。決断をもって海を渡った者たちでさえ、自由な人間として生きる望みを保ち、荒れ野の生活にくじけなかった者はほとんどいませんでした。まして、死への恐れに駆られて海を渡った者、家族に従って海を渡った者は、身に迫った危険が遠のくや否や、荒れ野を歩み続ける気力を容易に失ってしまったに違いありません。

荒れ野で<飲み水>を見つけられずにモーセに対して民が不満を言い募ったエピソードは、民が歩み続ける気力をなくしてしまったことを象徴しているように思います。人間は、食糧があって体を維持できても、それだけでは満たされません。人生が肯定されている、人生に意味がある、と感じられて初めて、生きる気力、瑞々しい生気を保てるのではないでしょうか。それがある人はそのことを意識しないかもしれません。しかし、それがない人は、なぜ生き続けなければならないのかも分からないと感じ、主は本当に我々の間におられるのかと、主を試す誘惑に直面します。<飲み水>は、生きる気力、生気を蘇らせるもの、人生を肯定的に見ることを可能にするもの、即ち神からの霊を象徴していると考えられます。 (more…)

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天国に入るには

By Michinori ManoNo Comments 16 Mar

大斎節第二主日(A年)説教
ヨハネ3:1-17

_jesus-nicodemus先週は、旧約の民が荒野で受けた三つの試練を理解の助けとして、新約の民の頭としてイエスさまが荒野でお受けになった三つの試練とは何であったのかを考えました。

その三つの試練とは、神が霊肉を養ってくださることに信頼して生きることができるか、神が共にいてくださることに信頼して生きることができるか、ただ神のみを主として信頼して生きることができるか、ということでした。

人は、奴隷の身分から贖い出され、神が約束された新しい命に生きることを決断して葦の海を渡ってもなお、人とモノの奴隷として形作られた在り方から心も体も自由ではありません。エジプトから出ればすぐに約束の地で自由な身分の者として新しい生活に入ることできるわけではなく、荒野での40年を通して主の導きによって清められ、新たにされた者だけが約束の地に入ることができるのです。

限りない命への望みを与えられ、恐れと惑いをしずめて神さまに自らを委ね、水による洗礼を受けて古い在り方を捨て、さらにまた、古い在り方に戻らないための戒め、律法を与えられても、それで神の国にふさわしい者になれるわけではありません。 (more…)

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