Archive for the ‘キリスト教’ Category

南スーダンのために…

By Michinori ManoNo Comments 9 Aug

日曜日、長坂聖マリヤ教会の第31回平和記念講演会で、日本国際ボランティアセンター(JVC)の清水俊弘さんから南スーダンの話をお聞きしました。講演後の質疑で、なぜ日本は難民を受けれいないのか、という問いに対して、清水さんは、地域として難民を受け入れる運動が起こらなければ日本政府は動かないだろう、例えば、この長坂聖マリヤ教会がそういう取り組みをするということがなければ…ということをドイツの例を引きながら話してくださいました。お聞きしていて、自分は難民受け入れを国の問題として考えるばかりで、自分たち自身が迎え入れ、共に生きていくということを現実的な可能性として考えていなかったと気づかされました。

そんな今日、ジャスティン・ウェルビー カンタベリー大主教が南スーダン人難民キャンプの訪問で考えたことを書かれていたので翻訳しました。

家に戻って、スーダンとウガンダでのつらくも素晴らしい数日間を振り返っています。

最後の日は、北ウガンダにある2つの難民キャンプ、ベラメリングとミリエイで過ごしました。そこには20万人の難民がいます。ほとんど全員が南スーダンから逃れてきた人たちです。ウガンダにいる南スーダン人難民の数は100万人に達しました。着の身着のままで国境を越えて文字通り命がけで逃げてきた人々に会いました。 (more…)

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Sabeel Christmas Message 2016

By Michinori ManoNo Comments 10 Dec

サビール・クリスマス・メッセージ 2016

いと高きところには神に栄光が、地には平和があって、人には慈しみが示されますように。

親しき友人たちへ

クリスマスは喜びの時です。日々の生活の悲しみや困難の只中にあって、わたしたちにはクリスマスの心が必要です。クリスマスのよき知らせと明るさが必要です。イエス・キリストの誕生は喜びと希望を与えます。「あなたに生まれます。救いをあたえる者、油注がれし者、主が。」わたしたちが日々の困難を切り抜けていくことができるように、クリスマスはつねにわたしたちを回復させ、新たにしてくれます。

しかし、クリスマスの物語は、また、トラウマと悲劇に満ちたものでもあります。幼子キリストの美しさと無垢さと共に、ヘロデのわがままと残酷さ、権力を持つ人々の冷淡さが語られているのです。

このアドベントにクリスマスの物語を読み、そこから何を学ぶことができるでしょうか。 (more…)

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宴会のたとえ

By Michinori ManoNo Comments 30 Aug

聖霊降臨後第15主日(特定17)ルカ14:1,7-14 説教

「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。」

天地創造は、闇と混沌に覆われた世界に光と平安をもたらされた愛の業でした。それゆえ、神はエジプトでの奴隷生活から解放されたイスラエルの民に、その解放を天地創造の業に重ね、記念するために、安息日を守りなさいとお命じになったのでした。

ここに信仰理解の根本があります。しかし、そのために、安息日の理解と守り方をめぐって、世の人々はイエスさまと鋭く対立しました。ユダヤ社会の指導者たちは、安息日には仕事をしてはならないという「掟」に忠実であるべきことを教えていましたが、イエスさまは、安息日の「心」に忠実であることを何よりも大切にされたからです。「人々はイエスの様子をうかがっていた」とあるのは、この対立の故でした。 (more…)

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マルタとマリア

By Michinori ManoNo Comments 23 Jul

聖霊降臨後第9主日(特定11)
創18:1-10b, ルカ10:38-42

◆ 昨日は、現在エルサレム教区から来日しているジョージ・コプティ司祭の講演会に行ってきました。ジョージ・コプティ司祭は、4年前に来日した際は、この長坂聖マリヤ教会を訪ねてくださいました。その時はレバノンで牧師をしておられましたが、今はヨルダンの首都アンマン旧市街にある聖パウロ教会で牧師をされています。今回の講演会の主題は、教会で今取り組んでいる難民のための働きについてでした。

ヨルダンは、旧約聖書の時代、エドム人が住んでいた国、その首都のアンマンはアンモン人が住んでいた国です。エドム人の「エドム」は、創世記のアダムとエバの「アダム」と同じ語から派生していて、赤茶けた土の色を意味する言葉です。水が少なくて、赤茶けた土の荒地が多いことに因んでいます。ヨルダンの人口は650万人。東京都の人口のちょうど半分位、面積は北海道とほぼ同じ位です。 (more…)

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善きサマリア人のたとえ

By Michinori ManoNo Comments 14 Jul

(聖霊降臨後第8主日(特定10)申命記30:9-14, ルカ10:25-37)

7月1日金曜日、ヨルダン川西岸地区、ヘブロンの近郊で、「善きサマリア人のたとえ」を地で行く出来事がありました。

ユダヤ人入植者の家族が乗った車が、道路脇から銃撃を受け、運転していた父親が死亡し、車がひっくりかえり、同乗していた母親と子どもたちが車に閉じ込められました。たまたま、そこに、パレスチナ人難民のアル=バイードさんが通りかかりました。車のエンジンはまだ動いていて、ガソリンが流れ出ており、今にも引火して爆発するのではないかという状態でした。車の中からはヘブライ語で「助けて」と子どもが叫んでいました。アル=バイードさんはイスラエルでの仕事で覚えたヘブライ語で子どもに話しかけて落ち着かせながら、ドアをこじ開け、二人の子どもとその母親を引っ張り出しました。一緒にいたアル=バイードさんの妻は元看護士で、二人で救急治療を施しました。 (more…)

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W. 仕事(Work)

By Michinori ManoNo Comments 13 May

※ジョアン・チッティスター著“Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/5/8,15掲載。

長老の一人が言った。「自分にとっては益になるが他人にとっては損になるような仕事をしたいと思ったことはない。他人の助けになる仕事は自分にとって有益であるという期待があるからだ。」

師父フェルメのテオドロスが言った。「近頃は、多くの人が、神が休息を与える前に、休息を取っている。」

この社会では、仕事はお金を得る手段になっています。働く必要がなければ本当はこれをやりたい、ということをできるようにする手段になっています。おそらく、このことほど、わたしたちを取り巻く世界の質に何が生じたのかを明らかに説明する人生への取り組みのありようはないでしょう。仕事指向の社会にあって霊的な深さを測るものがあるとするならば、それは、わたしたちのする仕事であり、なぜそれをするのか、ということでしょう。また逆に言えば、それは、わたしたちのしない仕事であり、なぜそれをしないのか、ということでしょう。

観想者は、自分の洞察に対して仕事をもって応答します。事実、誰の場合でも、仕事は、創造について抱いている考えの深さ、あるいは浅さへの解答になっているのです。あらゆるものにおける神の臨在を知ることは、人生をいかに生きていくかということに深く密接に関わります。自分の知っていることが、自分のすることを決定します。神の海を漂うとき、聖でないものはありません。聖ベネディクトの戒律は、「すべてのものを(手桶を、植物を、鋤を、土地を)祭壇上の聖具であるかのように扱いなさい」と指示します(第31章10節)。これは深い観想的な言葉です。 (more…)

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V. 幻視 (Vision)

By Michinori ManoNo Comments 21 Apr

※ジョアン・チッティスター著“Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/4/24,5/1掲載。

師父ザカリアが幻を視て、彼の霊父である苦行者カリオンにそれを告げた。カリオンは腹を立てて師父を打ち叩き、それは悪霊からのものであると言った。ザカリアは師父ポイメンを訪ね、この出来事を話した。師父ポイメンは彼の真摯な様子を見て、神秘家である修道士のもとに彼を送った。修道士は、ザカリアがまだ話さないうちに彼が視た幻を知って、それは本当に神からのものであると言った。そして、「さあ帰って、霊父に従いなさい」と諭した。

< 幻>(Vision)を視ることと<幻影>(visions)を視ることは異なります。このことについての砂漠の師父たちの見解は明確です。幻影を視ることは心理的な現象であり、人がいかに生きるか、いかに成長するか、といったことと何の関係もないかもしれないことです。霊的な賜物であることもあるかもしれません。しかし、それらの多くは感情の高ぶりの所産に過ぎません。歴史上、最も観想的であった人々は、ただの一度も幻影を視ることはありませんでした。ヒルデガルト(1098-1179)は視ませんでした。マイスター・エックハルト(1260-1328)は視ませんでした。アビラの聖テレサ(1515-1582)は視ませんでした。彼らは神の臨在を知っていましたが、ただの一度としてその物質的な現れを視たと主張することはありませんでした。彼らは幻影を視る代わりに幻を視ました。 (more…)

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復活の主の愛

By Michinori ManoNo Comments 12 Apr

復活節第3主日(C年)説教(ヨハネによる福音書 21:1-14, 詩編第30篇, ヨハネの黙示録5:6-14)

loaves-fish_pngヨハネによる福音書の復活記事の特徴は、どんなところにあるでしょうか。

◆ ひとつ目の特徴は、復活の主が弟子たちに現れた出来事が主日礼拝に重ねて語られている点にあります。

1回目、2回目の出来事では、共に、週の初めの日、すなわち日曜日に、弟子たちが家で戸に鍵をかけて集まっていると、その真ん中にイエスさまが立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。

わたしたちは毎主日、「主イエス・キリストよ、おいでください」、「弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現されたように、わたしたちのうちにもお臨みください」と唱えて、そのことを記念しています。知らず知らずの内に自らの内にも外にも扉をしめ、鍵をかけて生きている私たちのただ中にも、復活の主が姿をお見せになり、恐れを喜びに、不信仰を信仰に変えてくださることを願って、礼拝に参入するのです。 (more…)

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U. 思いやり

By Michinori ManoNo Comments 8 Apr

※ジョアン・チッティスター著“Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/4/10,17掲載。

師父ポイメンに弟子たちが会いに来て尋ねた。「教えてください。聖務時祷の間に居眠りをしている兄弟がいたら、起きているようにつねるべきでしょうか。」老師は彼らに答えた。「わしは兄弟が眠っているのを見たら、膝枕をして休ませるよ。」

思いやり(Understanding) – 共苦(Compassion) – は、修道生活の基礎です。それを抜きにしては、互いに知らぬ者たちから共同体を育てる希望はありません。聖ベネディクトの戒律は、この理解に満ちています。修道士は適当でない時間に会計担当者を煩わせてはなりません。他の人は自分の要求を満たすためにいるのではないのです。門番は、日中であろうと夜間であろうと、どんな時間でも、訪ねて来た人を親切に迎えなければなりません。必要のある人がいたら、私たちはできるかぎりのことをしてあげなければなりません。決まり以上のものが必要な修道士がいれば、質問されることなしにそれは与えられます。常に人が決まり事よりも大切なのです。給仕担当者は他の人が食べる前に食事をします。必要以上に仕事がつらくならないようにするためです。他の人は自分の満足のために存在するのではありません。自分が誓約したように生活することのできない修道士は、ただ懲戒されるのではなく、助言を与えられます。許されない過ちはありません。すべて生活は段階の連続なのです。言い換えるならば、聖ベネディクトの戒律は、人間の条件の限界を知り、それを尊ぶ戒律なのです。 (more…)

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T. 時間 (Time)

By Michinori ManoNo Comments 19 Mar

※ジョアン・チッティスター著“Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/3/20,4/3掲載。

theodore-trichinas-icon-2ひとりの兄弟が師父テオドロスに会いに来て、自分がまだやったことがないことについて話し始め、質問をした。老師は彼に言った。「あなたは、自分が乗る舟を見つけ、荷物を載せ、出航してもいないのに、もう目指す町に到着してしまっているようだ。まず自分のすべき仕事をしなさい。そうすれば、今話していることに至るだろう。」

現代社会が取り憑かれている関心のひとつは速さです。どんなものでも、それまであったものより速いものが作られます。航空機は音速よりも速く飛ばされます。誰がそれに関心を持つというのでしょう。自動車は、静止状態から数秒で時速60マイルまで加速する性能を売りにして販売されます。誰がそれを必要としているというのでしょう。数ミリ秒の速度向上のために、何百ドルも費用をかけてコンピューターの最新版プログラムがダウンロードされます。今は何でも価値あるものであるためには、より速く動き、より速く起動し、誰も計算もできないような速さで動作するものでなければならないのです。即席のオートミール、自動券売機、より短期間で終わる教育プログラム、週末に済ませる大学教育、30秒以下で伝えられる国際ニュースが求められます。わたしたちは「忙しい人間」なのです。結果ばかりが求められ、もはや過程には意味が認められていません。好んで話題にはされますが。

しかし、砂漠の修道士たちは知っていたことですが、霊的生活はギアをトップに入れてハイスピードで営むようなことではありません。霊的生活 – 観想 – とは、魂の仕組みをゆっくり時間をかけて分解し、さらにゆっくり時間をかけて組み立てる過程です。それまで全く見ていなかったものを見るようになることです。あらゆるところにおられる神、ことにわたしたちの中におられる神を見るようになることです。 (more…)

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死にあずかるという救い

By Michinori ManoNo Comments 15 Mar

大斎節第5主日(C年)説教(甲府聖オーガスチン教会にて)
聖書日課:イザヤ43:16-21, フィリピの信徒への手紙3:8-14, ルカ20:9-19

「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵芥と見做しています。」

パウロにとってイエス・キリストを知ることにそれほどの素晴らしさを感じる前提となっていたことは何でしょうか。

それは自分の罪深さの認識でした。自分の中に罪が住んでいることを知ることでした。自分が望んでいることを行わせず、憎んでいることを行わせる悪の力が自分の中で働いていることを知ることでした。人のため、神のために行動しているのだと思っている時でも、実は自分勝手で自己中心的な行動をしていることがあること。自分は自分のしていることが必ずしも分かっていないこと。そのような罪の拭いがたさを知ることがなければ、「キリストの死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したい」などと思うことはないでしょう。人間の根本的なところに罪への傾きがあること、そこで悪の力が働いていることを知ればこそ、わたしたちは、主イエス・キリストのご復活に他のすべてがかすむほどの素晴らしさと喜びを感じるのです。

問題は、わたしたちが、そのような根本的な罪への傾き、罪による支配を、なかなか認められないことです。 (more…)

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S. 静けさ(Silence)

By Michinori ManoNo Comments 5 Mar

※ジョアン・チッティスター著“Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/3/6, 13掲載。

長老のひとりが言った。「波立つ水面に顔を映して見ることはできないが、魂も同じことだ。雑念を除かなければ、魂に神を観想して祈ることはできない。」

静けさは、雑音でできている社会にあっては失われた技芸です。朝はラジオで目を覚まされ、夜は眠りに就いたずっと後にタイマーでテレビが消されます。車でもエレベーターでも事務所の待合室でも音楽が流れています。家には居間でも台所でも二階の風呂場までも音が追いかけてくるような音響装置があります。オフィスビルや街角には公共のアナウンス用にスピーカーが設置され、大音量でがなり立てています。体操するときにはイヤフォンを耳につけ、携帯音楽プレーヤーを腰につけます。ビーチに寝ころぶときには、CDプレーヤーに耳をケーブルで結びます。わたしたちは騒々しさで身を包んでいます。騒々しさに浸かっています。この社会では、音楽、ニュース、テレビドラマを装った騒音が、魂の障壁になっています。わたしたちは騒音によって自分自身に耳を傾けることから保護されているのです。 (more…)

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R. レクリエーション (Re-creation)

By Michinori ManoNo Comments 26 Feb

※ジョアン・チッティスター著“Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/2/21,28掲載。

ある時、二人の兄弟が年老いた修道士を訪ねに出かけた。毎日食事を取ることは老師の習慣ではなかった。しかし、二人が来るのを見ると、老師は喜んで迎えて言った。「断食は断食で酬いがあるものだが、愛ゆえに食事をとるならば二つの戒律を満たすことになる。自分の意志を放棄し、また他者の元気を回復させることになるからだ。」

多くの人は認めたがりませんが、「断食すること」にも酬いがあるものです。規律に従って禁欲的に生活を送ること、仕事、義務、責任、務め、生産性のために脇目も振らずに集中することには、それで得られるものもあるのです。傍目に見てどれほど大変そうであっても、それを為す熱心さの内に実は何かその人自身を満足させているものがあるのです。昔なじみの親戚を訪ねたり、子どもたちと遊んだり、個人的な手紙を書いたり、犬の散歩に出かけたり、釣りに行ったり、浜辺でピクニックをしたりするためにスパルタ式の日課を放棄するだなんて、勤勉で道徳的な人間にとっては考えるだに身のすくむ話です。わたしたちは、もっと大事なことで精一杯な真面目人間で、人間的であるにはあまりに「忙しすぎる」のです。

それで、わたしたちは、感性をすり減らしつつ、忙しい忙しいと言いながら人生を過ごしていきます。新たな美の瞬間、新たな質の経験、新たな分野の思索を自由に生きることなく、変わりばえのないことに没頭して毎日を送ります。ただひたすら同じことを繰り返し続けます。何よりも悪いことに、わたしたちはそのように生きている自分を霊的に高潔であると考えてしまいます。徳が魂の目隠しになるのです。しかし、それでは、あらゆるところにおられる神を見ることができません。前に見たことのある場所しか見ようとしないからです。 (more…)

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荒れ野に生きる

By Michinori ManoNo Comments 15 Feb

大斎節第1主日(C年)説教

◆ 大斎節に入りました。大斎節を失うものは1年を失う、と言われます。これは経験に基づく言葉、信仰生活の実感から言われる教えであるのと同時に、信仰理解そのものから来る言葉でもあると思います。

大斎節のこころは、灰の水曜日の礼拝で、額に灰の十字架を書かれる時に唱えられる「あなたは塵であるから、塵に帰りなさい。罪を離れて、キリストに忠誠を尽くしなさい」という言葉によく言い表されています。

わたしたちは神によって塵からつくられたものであって、塵に帰るものである。わたしたちはただ、神の息によって命あるものとして生きているのであって、神の息が自分から出ていけば死ぬものである。この自分と神とについての根本認識が土台としてあってこそ、その上に、神の恵みを感謝し、神の憐れみに頼り、神からの救いを信じる、信仰生活が成り立ちます。

大斎節には、この信仰生活の原点である根本認識に立ち帰りたいのです。その認識を与えられる現場、自分が塵であり、塵に帰らなければならない現実に向き合わされる場所が荒れ野です。

◆ 荒れ野は、聖書でどのような場所として書かれているでしょうか。

荒れ野は、旧約聖書では、アダムとエバが追放された場所、「エジプト」と「約束の地」の間にある地、捕囚の民が生きる流謫の地です。 (more…)

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Q. 探求(Quest)

By Michinori ManoNo Comments 9 Feb

※ジョアン・チッティスター著“Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/2/7,14掲載。

師父ポイメンが師父ヨセフに尋ねた。「どうすれば修道士になれるのか教えてください。」師父ヨセフは答えた。「今後ここで安息を見いだしたいのであれば、どんな時にも『わたしは何者か』と自問しなさい。」

何かを探し求めていないような人がこの世のどこにいるでしょうか。誰しも、人から認められること、お金、家庭、出世、成功、安全、幸せなど、何かを探し求めているのです。人間は、その本性において、霊的な採集狩猟民です。聖杯探求者です。人間は常に、結晶化した時間や永遠なる星団に成型された月桂冠やトロフィーを求めています。誰もが何かを探求する旅をしています。識別を与えてくれる問いは二つです。わたしは何を探し求めているのか?その探求の結果として自分は何者であるのか? (more…)

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P. 祈り (Prayer)

By Michinori ManoNo Comments 26 Jan

※ ジョアン・チッティスターの黙想書 “Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/1/24,31掲載。

師父ポイメンは言った。「その性質において、水は柔軟で、石は硬い。しかし、もし水を満たした瓶を吊るして、その下に石を置き、水が一滴ずつ落ちるようにするならば、石には穴が穿たれるであろう。同じように、神の言葉は優しく、我々の心は頑なである。だから、人は神の言葉を頻繁に聞くならば、その心は神への畏れに向けて開かれるであろう。」

伝統的な祈りの定義には、ひとつだけ間違いがあります。神を誤って表象しているのです。「祈りとは、わたしたちの思いと考えを神に奉ずることである」と古くから教えられて来ました。あたかも神が、自分の外に、遠くに威厳を持って座す裁判官であるかのように。しかし、科学がもたらした新しいものの見方、すなわち物質と霊とはひとつのものであって、ある時には粒子であり、ある時にはエネルギーであるようなものであるという見方は、神はいかめしく疑い深げにどこか雲の上にいるのではないことを示しています。神は、わたしたちに生命を吹き込んでいる<エネルギー>そのものです。神は赫々たる男性の人間ではありません。神は、わたしたちを導き、わたしたちを前に歩ませる<霊>です。神は<命>へと招く内なる声です。神はわたしたちの内にあって、個々にも、共にも、満ち溢れようとしている<現実>です。その宇宙的な神に向かって、人格的で、内にあって、わたしたちを燃え立たせる神に向かって、わたしたちは祈るのです。 (more…)

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O. 寛容さ(Openness)

By Michinori ManoNo Comments 4 Jan

※ ジョアン・チッティスターの黙想書 “Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2016/1/10, 17掲載。

週に一度しか食べず、七〇週間の断食をしたひとりの弟子について、次のような話が伝えられている。彼は聖書の中のある言葉について神に尋ねたが、神は答えなかった。ついに彼は呟いた。「どうしたことだ。こんなに努力をしてきたが、全然進歩がない。兄弟に会いに行き、尋ねることにしよう。」
庵を出てドアを閉め、歩き出したところ、神の天使が現れて言った。「あなたは七〇週間の断食をすることで、神に近づくことはなかった。しかし、兄弟に教えを乞いに行くほどに謙虚になったので、言葉の意味を明かすためにわたしが遣わされてきた。」そして、天使は老人が求めていた言葉の意味を説明して去って行った。

自分を取り巻く世界の知恵に対して神の名によって自分を閉ざすことは、人間が犯す過ちの中でも他に並ぶもののない霊的傲慢です。それは人生をある種の監獄にしてしまいます。聖なるものの名において考えが鎖に縛られ、幻を見ることが咎められる監獄に。それは自分を自分の神にしてしまいます。それは霊性に関するお粗末な弁解です。 (more…)

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クリスマス・イブのお話

By Michinori ManoNo Comments 28 Dec

とんとん。旅装束の若い夫婦が戸をたたきました。しかし、その家は飲めや歌えやの大騒ぎで、何度戸を叩かれても誰も気がつきませんでした。

どこの家も客を迎えて賑わっていました。ふたりはこの町の親戚とは縁遠くて、頼れる家がありませんでした。妻は身ごもっていて、野宿するわけにもいきませんでした。そこで町中の家々を宿を求めて訪ねまわっていたのでした。

この時代、お金を払って泊まるような宿は、数多くありませんでした。そのような宿があっても、しばしばいかがわしい商売の場所になっていたこともあって、旅人が見知らぬ人の家に宿を求めることは普通のことでした。それに、その昔、信仰の父アブラハムが見知らぬ旅人を迎え入れ、気づかずに天使をもてなしたことが、人々の生活の規範になっていました。見知らぬ旅人をよき知らせをもたらす天使を迎えるようにして歓待する慣習があったのです。

しかし、その日、若い夫婦を迎え入れる家は、なかなか見つかりませんでした。 (more…)

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N. ネイチャー(自然)

By Michinori ManoNo Comments 23 Dec

※ ジョアン・チッティスターの黙想書 “Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2015/12/27, 2016/1/3掲載。

ある哲学者が聖アントニオスに尋ねた。「師父よ、本から与えられる慰めもなしに、なぜ熱心でいられるのですか。」聖アントニオスは答えた。「哲学者よ、我が本は自然じゃ。神のみ言葉を読みたいときはいつでも、それはわしの目の前にあるのさ。」

「神はどこにおいでになりますか」と公教要理は問います。「神はどこにでもおいでになります」と公教要理は答えます。この答えはしばしば見過ごされています。しかし、神が本当に神であるならば、この答えは確かに真実なのです。神は天地万物の本質です。造られたものすべてに、創造者のエネルギー、命、像、本性が宿っているのです。 (more…)

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M. メタノイア – 悔い改めへの呼びかけ

By Michinori ManoNo Comments 22 Dec

※ ジョアン・チッティスターの黙想書 “Illuminated Life – Monastic Wisdom for Seekers of Light”(Orbis Books, 2000)の翻訳。長坂聖マリヤ教会週報2015/12/13,20掲載。

ある日、師父アルセニオスが年老いたエジプト人に助言を求めて質問していた。これを見た人が彼に言った。「師父アルセニオス、なぜ、ギリシアとローマの教養を豊かに持っておられるあなたのような方が、こんな農夫にご自分のお考えになっていることについて相談なさるのですか。」師父アルセニオスは答えた。「確かに、わしはローマとギリシアの教養を身につけたが、まだこの農夫のアルファベットすら学んでおらんのだ。」

生活の仕方を変えることはそんなに難しいことではありません。それはわたしたちがいつもやっていることです。わたしたちは容姿を変えるためにダイエットします。日常から逃れたい時にはスキーをしたり、釣りをしたり、ボウリングをしたり、ピノクル(トランプのゲーム)で遊んだりします。騒々しさから逃れようと田舎に移住します。長い年月を過ごす間に、幾度となく、仕事を変え、別の土地に移住し、家を替え、付き合いを変え、生活のスタイルを変えます。しかし、そういう変化は概して表面的なものに過ぎません。真の変化はずっと深いものです。それは命に対する見方を変えることです。それが悔い改めの実質をなすものです。 (more…)

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