Archive for the ‘キリスト教’ Category

礼拝覚書(34) 懺悔(2)

By Michinori ManoNo Comments 15 12月

聖餐式の「懺悔」(170頁)は、とても簡潔です。沈黙するように、というルブリックの指示もありませんし、機械的に言葉を唱えるだけ、ということになってはいないでしょうか。それでは赦罪の言葉が響くこともないでしょう。

聖餐式のルブリックには(160頁)、そこで「わたしたちは聖餐を行うときは砕けた魂と悔い改めをもって懺悔する」とありますが、たとえゆっくり唱えたとしても、その間に罪を究明し、それを痛悔し、改めることを決心する、ということは、できることではありません。前祈祷書の聖餐式冒頭の「勧告」にあったように、個々の生活を省みる懺悔は、聖餐式の前に為しておくべきことなのです。その心で礼拝に臨む時、礼拝の祈りの言葉を唱え、聖歌を歌い、朗読・説教を聴く内に、光がさしこみ、光につつまれ、悔い改めの心に導かれて、簡潔な懺悔の祈りの言葉を実感をもって唱えることができるようになります。赦罪の言葉から力を受け、喜びをもって聖餐にあずかることができるようになります。

罪の究明は、礼拝が始まる30~15分前に来て行っている方もおられるでしょう。公認の祈祷書とは別に、その内容を信徒の実生活に近づけることを目的として1955年に発行された『おれむす』という小祈祷書には、ご聖体を拝領する前日の夕の祈りで用いる「拝領準備の祈り」があります。その核心部分は以下の通りです(前後省略)。

( 詩130篇を唱え、次のように聖霊の導きを祈る)
主よ。聖霊のみ光をもってわが心を照らし、凡ての罪を示し給え。アーメン

( 暫く黙想して、「究明表」を用いるなどして、自分のしたこと、言ったこと、また思ったことを考えてのち)
憐れみ深い父よ。我は…(ここで自分の犯した罪を思い出す)…これ等の罪及びいま記憶せざる罪を悲しみ、懺悔し奉る。願わくは主イエス・キリストの功によりてわが罪を赦し、悔い改めの心を堅うし、再び罪に陥ることなからしめ給え。アーメン

『おれむす』には、夕の祈りで用いる短い究明表、告悔式(個人懺悔)で用いる長い究明表があります。例えば、「無礼なことをした。恩を被った人に感謝しなかった。他人のあらさがしをし、また悪口を言った。悪意や恨みを持った。挑戦的に他人を批判し、皮肉を交えた。」等々。究明表が用いられなくなってきたのは、罪を「関係」においてでなく「行為」において捉える傾向を強めてしまうというような反省があったのかもしれません。しかし、究明表の使用が勧められなくなるのに従って懺悔そのものまで行われなくなってきたということはないでしょうか。

more

礼拝覚書(33) 懺悔(1)

By Michinori ManoNo Comments 8 12月

現行祈祷書への改正によって礼拝の要素でなくなったものに「勧告」があります。礼拝は神にささげるものであるのに、勧告は会衆に礼拝の心構えや意味を教えるものだからでしょう。宗教改革後の礼拝で顕著だった要素でしたが、原始教会の礼拝の回復が進められる中で、一部がルブリックの中に移され、他は削除されました。しかし、その内容は常に心に留めるべきものであることに変わりありません。

前祈祷書では、聖餐式の冒頭に「勧告」があり、「司祭は時々(少なくとも1回は大斎節中)公祷の際、この勧告を朗読する」とルブリックで指示されていました。以下がその言葉です。

「愛する兄弟よ、主イエス=キリストは我らの救いのために、主のからだと血の聖奠を定めたまえり。これ敬虔なる人々これを受けてキリストの十字架と苦しみを記念し、主によりて強くせられんがためなり。我ら罪の赦しを得て天国の幸いにあずかるは、ただ主のいさおのみに因る。このゆえに全能の神・天の父は、その御子・救い主イエス=キリストを与えて、我らのために死なしめたまいしのみならず、この聖奠によりて霊なる糧となしたまいしことを心より感謝し奉るべし。

そもそもこの聖奠は、これを受くる人に神の力を与うるものなれども、みだりにこれを受くるは、いと危うきことなれば、その尊きことと危うきこととを考え、軽々しくせず、また神を欺く者のごとくせず、ねんごろにおのれの心をただし、聖書のうちに命じたまえる礼服をつけ、清く潔くして、この聖卓にきたり、神のふるまいにつらなるべし

まず、神の戒めをもって、おのれをしらべ、あるいは思い、あるいは言葉、あるいは行ないにて罪を犯したることを悟らば、これを嘆き、まことに改むることを決心して、全能の神にさんげすべし。もしまた隣に対して罪を犯したることあらば、直ちに和を求め、力を尽くして償いをなし、かつ、おのれの罪の赦しを神に望むごとく、他人の罪をも赦すべし。これらの事をせずして聖餐を受くれば、ただ、おのれの罪を重ぬるのみなり。されば、もし、なんじらのうちに神を罵る者・御言葉をそしる者・姦淫を行のう者・恨み憎む者・その他重き罪を犯せる者あらば必ず悔い改めよ。しからざればこの聖卓に近づくべからず

また聖餐を受くる者は、神のあわれみを堅く信じ、良心の責めなきこと肝要なり。もし前の方法に従うとも、なお心おだやかならぬ者あらば、我にきたるか、または、ほかの司祭に行きて、その憂いを述べよ。さらば赦罪の恵みと魂を健やかならしむる教えと力とを受けて疑いを去り、良心やすんずることをうべし」

more

礼拝覚書(32) 沈黙(4)

By Michinori ManoNo Comments 1 12月

短い黙想の時間を実りあるものにするためには、「実りあるものにしなければ」等と思わないこと、また、朗読を耳で聞くようにすることです。わたしたちは祈る行為として聖書を読むのであって、祈る行為とは、わたしへの呼びかけに対して「主よ、お話しください。僕は聞いております」と答えて、耳を傾けることだからです。礼拝で聖書の朗読を聴くことは、知的関心で聖書を読むのとは違うのです。

人間の認知機能は、文字で記された言葉を目で追うのと、人の語る言葉を耳で聞くのとでは、異なる働き方をします。言葉を目で追う時、わたしたちは能動的姿勢をとって、個々の語そのものよりも、その語の概念的な意味や文章全体の意味を理解しようとします。人が話す言葉を聞く時、わたしたちは受動的姿勢をとり、まず個々の語の響きを聞き取ろうとします。同じ語でも、話者がどんな表情、どんな口調で発するかによって、違う意味をもちうることを知っているからです。聖書の言葉は日常会話の言葉と違って朗読者の表情や口調から意味を汲み取る必要はありませんが、個々の語の持つ響きを聞き取ることが期待されている点は同じです。聖書の言葉は朗読される前提で記されているのです。

来住英俊神父は、祈りとして聖書を読むには、言葉にさわるように読みなさい、と勧めます。言葉を手に包むように保つイメージです。個々の語には、自分の人生の歩みの中の体験、自分の属する社会や国の歴史、人類全体が生きてきた経験から来る「手触り」が結びついているものです。そうして、重要と思う語だけでなく、すべての言葉に等しく丁寧に触りながらゆっくり読むと、出来事に直に接する感じが起こる、その傍らにいて神の業にあずかるという感じを持つことができる、そうであれば、「ここはこういう意味のことを言っている箇所だ」と思い出したり、考えたりする以上のことがない読み方と違って、何度読んでも新たな充実感と喜びがもたらされる!(『聖書の読み方 レクチオ・ディビナ入門』来住英俊, 女子パウロ会)

朗読された言葉の「響き」、来住神父の言われる「手触り」が、黙想の手がかりを与えます。聖書との対話が開かれます。それに注意することで、ある言葉や句が深く自分の心に響いていることに気づかされます。それを口ずさむのです。
「知性の働きで聖書の言葉を自分の生活に“あてはめて”、あれこれ考えるのではありません。それでは、そのときは深い祈りをしたように思えても、生活を変える力にはあまりならないのです。…その場で生活とのつながりが感じられることは必ずしも必要ありません。心に深く響いてくる言葉を何度も口ずさんでいると、いつか別の場所で繋がります。」(来住英俊神父, 前掲書)

more

礼拝覚書(31) 沈黙(3)

By Michinori ManoNo Comments 24 11月

ルブリックに、「司祭は旧約聖書、使徒書、福音書の後に“いま聞いたみ言葉について黙想しましょう”と言って黙想の時をおいてもよい」とあります。「黙想しましょう」と呼びかけられて短い沈黙の時間を持つ時、皆さんはどうされますか?短い時間を与えられても何かを考えることなんてできない、と思われるかもしれません。

教会では、「黙想」は、問いを与えられて、その答えを考えるようなことを意味しません。それは、読まれた箇所について自分なりに考えてみなさい、ということではありません。

「黙想」は、散歩に似ているかもしれません。散歩は「為すべきこと」で埋められている生活の中で、何かをしなければならない、何かを考えなければならない、ということから自分を解放する活動です。哲学者のカントは規則正しく散歩する習慣を持っていて近所の人にとって時計代わりになっていたそうですが、彼が決まった道を歩いたのはそのためであろうと思います。違う道を歩けば、外界に意識を奪われてしまうからです。同じ道を歩けば、意識をより自由に遊ばせることができます。歩いていたら、ふと気がつくと何かについて思い巡らしていた、というような経験をお持ちではないでしょうか。意識を漂わせると、自然と意識は何かの周りをめぐり始めるものです。

黙想はそのように、まず意識をぼんやり漂わせることから始まります。意識を集中して理解しよう、考えようとすべきではないのです。すると、意識は自然と、いま耳から入ってきた言葉の中の、特定の言葉の周りを巡り始めます。その言葉は、例えば「見つめていた」という一つの語かもしれませんし、「小さな群れよ、恐れるな」というような、一つの文かもしれません。それを口ずさむことが、黙想の第一歩です。礼拝では、そこまででよいのです。それが他の日課、詩篇、聖歌、説教と響き合い、黙想が深められることもあるかもしれません。そういうことがないこともあるでしょう。別にそれでよいのです。

モーセが歩いていたらふと燃えているのに燃え尽きない柴の木に気がつき、不思議に思って道を外れて近づいたところ、神が語りかけた、という記事が、出エジプト記3章にあります。それが「黙想」です。

more

礼拝覚書(30) 沈黙(2)

By Michinori ManoNo Comments 17 11月

○「沈黙」が礼拝を構成する大切な要素であったことは、古代教会の礼拝を下敷きにして書かれているヨハネの黙示録から分かります。

「小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた。…」(8:1)

礼拝における沈黙は「選択肢」ではありません。

「聖なる沈黙も、祭儀の一部として、守るべき時に守らなければならない。沈黙の性格はそれぞれの祭儀のどこで行われるかによる。回心の祈りのときと祈願への招きの後には各人は自己に心を向ける。聖書朗読または説教の後には、聞いたことを短く黙想する。拝領後には、心の中で神を賛美して祈る。」(『ミサ典礼書の総則と典礼暦年の一般原則』)

○ 神の臨在に対して人が自ずと覚える感情は、「被造物であるがゆえのへりくだりから来る静かな慄きと沈黙」をもたらします(ルドルフ・オットー)。
現在まで用いられている中で最も古い礼拝式、「聖ヤコブの典礼」では、イエス・キリストの葬列と埋葬を象る大聖入の際に、次のようにケルビムの賛歌が歌われます。

すべて死すべき者よ、沈黙せよ
恐れ、慄き、立て
われらの主キリストが
全き忠誠を求めて
祝福を手に携え、地に降られた

ドイツの讃美歌作者ゲルハルト・テルシュテーゲンも、人が聖なるものを前にする時の同じ感情を次のように歌いました(日本聖公会・聖歌集248番。ただし以下の訳は、オットーの『聖なるもの』久松英二訳から)。

神、ここにおわします
わが内なるもの、みな黙せよ
みまえにかしこみ、ひれ伏せ

○ 逆に、聖書の知恵文学は、沈黙できないことに対して多くの警告を語っています。

「言葉数が多いときには背きを避けられず、唇を制すれば悟りを得る。」(箴言10:19)

「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」(マタイによる福音書12:36)

「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」(ヤコブの手紙3:8)

 喋ることは、ある意味、その場を支配することです。逆に、沈黙は、他者が話すスペースを作ります。絶対的他者=神が話すスペースを作ります。修道院で沈黙が重視されていることを、わたしたちも省みる必要があるのではないでしょうか。

more

礼拝覚書(29) 沈黙(1)

By Michinori ManoNo Comments 10 11月

礼拝を成り立たせる要素=<象徴的動作(所作)><言葉(朗読、説教)><歌うこと>について考えてきましたが、それらと並んで大切なのが<沈黙>です。
ある意味では、礼拝自体が沈黙です。礼拝は神の前に立つことなのですから。わたしたちは礼拝で意識的に日常生活の営みから離れ、人との会話を止め、神に目を注ぎ、耳を傾けるのです。それは、たまたま生じた沈黙、空いてしまった時間ではありません。目的と成果の論理で動いている世に生きている私たちにとって、それは努力しなければ作り出せない時間です。

礼拝も、それが沈黙であることを忘れれば、容易に世の一部に成り果てます。コンサートや講演会あるいは同好会のようなものと変わりないものになってしまいます。自分の益になるかどうかで、行くかどうかを決めるものになってしまいます。礼拝中の雑談がNGであるのは、単なるマナーの問題ではないのです。礼拝が礼拝でなくなってしまうからNGなのです。

聖餐式のルブリックには、旧約聖書朗読の後に「黙想の時をおいてもよい」とあります。代祷で、「感謝と代祷の題目をあげ、会衆に黙祷を求めてもよい」「各応唱の後に、しばらく黙祷してもよい」とあります。また、感謝聖別祷の後、主の祈りの前に「ここでしばらく黙祷してもよい」とあります。実際にはどこの教会でもあまり時間が取られていないのに、このようなルブリックが置かれているのは、その時に沈黙の時間を取れるようにするため、というよりも、神の前に立っていることを思い起こさせるためではないかと、個人的には思っています。

礼拝が始まる前、陪餐の間、礼拝が終わった後の沈黙の時間は、ある意味では、聖歌、祈祷文の朗唱、朗読・説教などよりも、礼拝を礼拝たらしめるものであると言えるかもしれません。なぜなら、そのような共同の沈黙の時間は日常生活には存在しないからです。

神学生の時、神学校間の交流で、ルーテル教会の礼拝を経験しましたが、最も印象的だったのは、懺悔の祈りの時の沈黙でした。その長さのゆえに、というよりも、それがルーテル教会の霊性を象徴しているように感じたからでした。沈黙の時間にこそ、わたしたちの霊性は表れるのです。

more

礼拝覚書(28) 説教(3)

By Michinori ManoNo Comments 3 11月

説教は、歴史的には、古代教会で典礼が確立される中で、その方法、位置が明確になりました。

しかし、中世に移行する時期に西方教会では説教の位置が後退し、聖餐式は説教がなくても成立すると考えられるようになりました。説教の間は式が中断されると考えられて、説教者は祭服を脱ぎ、祭壇のロウソクが消されました。内容は宣言(ケリュグマ)的でなく教え(ディダケ)的で、み言葉の説き明かしでなくキリスト教的生活を教えることが中心でした。あるいは教皇の名を冠して作られた説教集が朗読されました。ただし、聖餐式とは別に説教を聞くことを中心にした礼拝も形成され、「説教者修道会(ドミニコ会)」が活躍して各地に優れた説教者を生みました。それがプロテスタント教会の説教を中心とする礼拝の母胎となったと考えられています。

20世紀の典礼改革で、説教は神の救済行為を告げる言葉として聖餐式の本質的な要素であるという理解が回復されました。それは機能的に言えば、「①すでに洗礼を受けている会衆を洗礼の約束へと立ち帰らせ、②信者のうちに教会の成員であることの意味を更新し、③「聖餐」という礼拝行為へと導くものです」。(黒田裕,『今さら聞けない!?キリスト教II』, 教文館, 2018, p.154)

「説教は、神の言葉をいま確かに聞き、受け入れ、理解したということの証言である。…この行為は…“真理の霊”の永遠の自己証言である。教会は、そこで神の言葉を聞き取り、承認し、永遠に宣言し続ける。説教がそのように働く限り、教会は単に“教義”を解説するのではなく、キリストについての“よき知らせ”を“この世”に向けてまちがいなく宣言し、キリストを証し得る。教会それ自身がつねにみ言葉に耳を傾け、言葉によって生き、それによって教会のいのちそのものが“言葉のうちに増し加わって”ゆくからである。」(アレクサンドル・シュメーマン『ユーカリスト』, 新教出版社, p.105 )

「真の説教の条件は、説教者の完全な自己否定である。説教者は彼自身に固有のもの、与えられた賜物や才能でさえも否定しなければならない。教会の“説教の神秘”は、純粋に人間的な“語る才能”とは対照的に、聖使徒パウロの言うように“すぐれた言葉や知恵によらない”。」(シュメーマン前掲書, p.107 )

more

礼拝覚書(27) 説教(2)

By Michinori ManoNo Comments 25 10月

「説教」は、聖書では以下のような複数の異なる意味合いの語で言い表されています。

○預言する:使徒書簡では「預言」という言葉が、神から霊感を受けて、宣言する、説教する、説明する、という意味でしばしば使われています。 この人(“例の七人の一人である福音宣教者”フィリポ)には預言する四人の娘がいた。」(使徒言行録21:9)

○証しする(マルチュレオー):生き方/人生そのものから言葉を発することです。プロテスタント教会では「証し」が「神からいただいたと感じる恵みや導きを語ること」と理解され、しばしば証しとして「特別な経験」が語られます。超教派の集い等で聖公会の信徒が「証し」に対して違和感を持つのは、そういうプロテスタント教会の特殊な文化に対してであろうと思います。本来、証しとは、信仰者として生きる中で発する言葉のことを言います。それ故、信仰者としての生き様そのものを意味するようになり、この語から殉教を意味する語が派生しました。「この人(洗礼者ヨハネ)は証しのために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるものとなるためである。」(ヨハネ1:6)「私(パウロ)は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきました」(使徒言行録26:22)

○宣言する(ケーリュッソー (名)ケリュグマ):神の救済の出来事を宣言すること。十字架につけられたキリストを宣べ伝えること(Ⅰコリ1:23)。それ故、「宣べ伝える」ということは、ただ神の戒めを列挙することではなく、宣べ伝える者と聞く者とを能動的な実行の中に引き入れる出来事となります。

○教える(ディダスコー (名)ディダケー):キリスト教信仰を説明すること、キリスト教的生活や考えについて説くこと。「あなたがたが説いているこの新しい<教え>がどんなものか、知らせてもらえないか」(使徒言行録17:19)「彼らは、使徒の<教え>、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒言行録2:42)

○勧める(パラカレオー (名)パラクレーシス):「彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に<励ましを得る>ためなのです」(エフェソの信徒への手紙6:22)、「<勧告をし>、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました」(ペトロの手紙Ⅰ5:12)「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。…そこで、あなたがたに<勧めます>。わたしに倣う者になりなさい」(コリントの信徒への手紙Ⅰ4:16)

「説教」は(「勧話」も)すべて預言であり、証しに基礎づけられ、宣言、教え、勧めとして語られるもの、と言えるかと思います。

more

礼拝覚書(26) 説教(1)

By Michinori ManoNo Comments 22 10月

日本聖公会では「説教」を行えるのは聖職のみとされています。執事按手式の結びで、主教は「これはキリストの福音を宣べ、み言葉に従って神と人とに仕えるために、神があなたに与えられた権威のしるしです」と言い、新たに按手された者に新約聖書を渡します。「説教は神の言葉をこの世界に伝達する教会の公式な宣言」なので、この権威を与えられた者にのみ許されているのです(黒田裕,『今さら聞けない!?キリスト教II』, 教文館, 2018)。

「み言葉の礼拝」の式文で、ルブリックに「勧話または説教をする。あるいは勧話または説教にかえて、当日のみ言葉を分かち合ってもよい」とあるのは、この理解を前提に、信徒が話をする場合、それは「勧話」と呼ばれ、執事が話をする場合、それは「説教」と呼ばれるためです。「勧話」は「奨励」「感話」とも呼ばれ、新約聖書で言われるところの「パラクレーシス(勧め)」にあたります。

ちなみに、プロテスタント教会では、信徒が礼拝、集会で話をすることを、「証(あかし)」「証詞(あかし)」「証言(あかし)」「立証」等と呼びますが、これは新約聖書で言われるところの「マルチュレオー(告白、証し)」にあたります。

しかし、実は「説教」「勧話」という用語の区別は、日本だけでの話で、英国、米国の聖公会で礼拝で信徒が話をする場合、それは日本語にすれば「説教」である「プリーチング(preaching)」という言葉で呼ばれます。礼拝の要素としては「サーモン(sermon)」という言葉で呼ばれます。

プリーチの原語のプレディカチオ(Praedicatio)は、人々の前で公に事柄を告げることを意味する語で、新約聖書で使われているケーリュッソーに近い意味合いの語です。ケーリュッソーとは、神の救済の出来事を宣言することです。ローマ・カトリックでは、プレディカチオは、ミサとは別に為される聖書テキストに束縛されない説教を指す語で、ミサの中で為される聖書日課の講解を行う説教はホミーリア(Homilia)あるいはセルモ(Sermo 英語のサーモン)と呼ばれます。

信徒説教者のことを、英国聖公会では”Occasional Preacher”、米国聖公会では”Lay Preacher”と呼んでいますが、いずれも牧師によって推薦され、主教によって認可(米国)/許可(英国)された人で、法規、指針に従って訓練、試験を受けていることが前提になっています。「説教」「勧話」と呼称を分けるのは本質的でなく、朗読の場合と同じく、聖職であろうと信徒であろうと、神から教会に委託された奉仕を十全に行えるように教会によって整えられていることが必要であって、行うことは同じである、と考えるべきでしょう。「自分なりの」理解を説いてみせる者であってはならない、ということです。

more

礼拝覚書(25) 歌う(3)

By Michinori ManoNo Comments 15 10月

なぜ礼拝は歌われるものなのか、という問いに、正面から取り組んで書かれたカスリーン・ハーモンの著作『人は何を祝い、なぜ歌うのか – 典礼音楽の神学的考察』(2008)が6年前に邦訳されています(訳:菊池泰子・榊原芙美子,  聖公会出版)。

礼拝で、わたしたちは改めて自らに出会い、また自らの本来あるべき姿に出会うこと。歌うことは、それを促すものであるゆえに本質的な構成要素であるということが丁寧に論じられています。礼拝についての理解をリフレッシュしてくれる議論ですので、抜き書きをご紹介します。

○「そこ(儀式)に集められた共同体は、そこに存在するものとして神に、またお互いに出会う。典礼が、このように各個人の存在同士を出会わせる場となるためには、メンバーは物理的にそこに存在し、またその場に意識を集中させていなければならない。歌うことはそのような意識性を引き起こす。

「私たちが…儀式に参与するときには、罪、怠惰、自己陶酔、不承不承を心に抱えている<にもかかわらず>参与するのではなく、まさにそれらを持つ<ゆえに>参与できる。それらの抵抗は、典礼における共同の歌唱によって、私たちがが儀式へ身を委ねるための基礎となる。歌唱を通じて…私たちは他者に対してよりはっきりと存在するようになるごとく、自分自身にとってもより確かな存在となるのである。…ジョン・ウェスレーはこのことを熟知した上で、会衆に次のように説教している。『すべてを歌いなさい。できるだけ頻繁に会衆と一緒になってごらんなさい。ほんの少しの弱さや退屈も妨げとならないようにしなさい。もしそれがあなたによっての十字架なら、それを手に取りなさい。そうすれば、それが祝福であることを見いだすでしょう。』

○「私たちが経験する二番目の抵抗は、時間が私たちの中に引き起こす変化に対するものである。…私たちには過去へ根付いている部分があり、また未来へ向かう契機を持っており、その上で現在行われている典礼の契機である<今・ここ>において過去・未来の両方に出会うのだが、しかし生来の衝動から<今・ここ>の要求から逃れることによって時間の力に抵抗しようとする。

「私たちは典礼歌唱によって、クリスチャンの存在と自己認識の一番奥にある層の、正に最も重要な地点へと踏み込むのである。つまり、それは、人として存在せよという神の召命の力と、それに対する人間の抵抗の葛藤であり、言葉を換えれば、キリストの体を自己の本質として認識しようとする力と、自己以外のものを中心とする共同体に入ることに対する抵抗との葛藤であり、さらに言えば、変容をもたらす恩寵の力と、変化を拒む私たちの抵抗との間の葛藤である。共同の典礼歌唱は、正にこれらの抵抗を利用することによって、私たちが儀式的行為に身を委ねることを容易にする。

more

礼拝覚書(24) 歌う(2)

By Michinori ManoNo Comments 8 10月

旧約聖書の朗唱は、紀元直後の数世紀間に制度化されました。タルムードには、「旧約聖書は公けに読まれ、音楽的な甘美な調べで聴者に理解さるべきである。調べなしで『モーセ五書』を読むのは、聖書とその法則の必須の価値を無視しているのである。深い理解は律法を歌うことによってのみ達成されうる。旧約聖書を世俗歌の様式で吟唱することは律法を乱用することである」とあります。

それはヘブライ語の文章のアクセント化の原理に厳格に基づくものでした。音域は狭く、装飾的な動きも制限されていましたが、これは旋律がことばを妨げないためにとられた故意の手段でした。旋律型(モチーフ)は、聖書の文章のひとつひとつの語にそれぞれ付けられました(ひとつの語=ひとつの旋律型)。「旋律は絶対的にことばに支配される」という朗唱の鉄則によるものでした。(※以上、『ユダヤ民族音楽史』水野信男, 六興出版, 1980 による)

キリスト教は、この「言葉によって」というユダヤの典礼の本質と音楽の伝統を継承して、「サルモディックな歌~詩篇、聖書、祈祷の旋律的かつリズミカルな音楽的な読み/音節的な唱法(シラビック)」を基本としつつ、これもまたユダヤの伝統にあった母音唱法(メリスマティック)、すなわちメロディが言葉に優先される形式の歌を所々に入れる礼拝を形成しました。「メリスマティックな歌は、超越的な現実との接触、“神の国”の超自然的現実性への参入の体験を表現している。…その代表がアリルイヤの歌であった。」(『ユーカリスト』シュメーマン)

やがて、キリスト教の典礼では音楽とテクストが緊密な相互関係を持つより知的に作られた聖歌が生まれ、また詩篇、聖書、祈祷の読みもメリマスティックになっていき、プレーンソング(グレゴリアンチャント)として8~9世紀に形が整えられました。プレーンソングはポリフォニーの発達につれて衰退しましたが、イギリスの宗教改革で復興され、アングリカン・チャントとして18世紀までに確立されて、聖公会の教会音楽を特徴付けるものとなりました。

アングリカン・チャントは、古代の典礼の原則を回復して、言葉をメロディーよりも優先し、言葉自体が持つ自然なリズムで朗唱します。曲譜の音符はリズムを決めるものでなく、音の高さだけを示します。ですから、テキストを声にだして普通に読むことが、チャントの練習になります。単語の途中で切ったり、形容する単語と形容される単語の間で切ったりしません。また、よくありがちですが、音が動く前のところで切ったり、音が動くところでゆっくり歌ったり、長い文節をはやく歌ったりしません。普通に朗読する時と同じように、一定のペースが保たれなければなりません。

more

礼拝覚書(23) 歌う(1)

By Michinori ManoNo Comments 26 9月

聖餐式の式文にルブリックで「歌いまたは唱える」と指示されている箇所があります。ルブリックでは、それを用いるのがより望ましい選択肢を先に書くことになっています。唱えるよりも歌う方が望ましいのです。何故でしょうか。

「礼拝を歌うことも古来からの慣習で、歌わない礼拝は中世期に西部の教会で始められたのです。古来の伝統を守っているギリシア系の教会では、今日でもすべての礼拝を歌っています。信者がみな歌える譜によって礼拝するとき、心を合わせ、声を合わせて礼拝することができます。礼拝は神にささげるもので、ただ礼拝者の気持ちを満足させるものであってはならないのです。」(『公会の慣習とシンボル』ヨハネ修士会,)

「“キリスト教は歌の中で生まれた”、また“古代の人々にとって語ることと歌うことは結びついていた”とエドワード・フォリーはその独特の名著『フロム・エイジ・トゥ・エイジ』の中で言い、音楽学者ゲオルギアーデスは初期キリスト教礼拝の中で言葉と音楽が切り離しがたいものとして結びついた時が、西洋音楽の生誕の瞬間であると述べる。共同礼拝という性格が、主観的色彩を超えた、音楽的に固定された朗唱をどうしても必要としたのだというのが、その理由である。」(『礼拝学日記』, 加藤博道, 聖公会出版)

礼拝は共同体としてささげるものであるがゆえに<歌う>ことが要請されるのです。

さらに、前回のコラムで書いたように、そもそも言葉は<ルーアッハ(霊/風/息)>によって<いのちを与えられる/意味を与えられる>ものであって、<ルーアッハ>はリズムや抑揚を持つものであるがゆえに、言葉は歌われるときにもっともよく言葉となるものだから、ということも言えるのではないかと思います。創世記の第1章2節に「地は混沌として、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。「動いていた」と訳されている語は、鳥が羽ばたく動作を表します。霊は律動を与えて、いのちをあらしめるのです。
「教会の集いの中で成就される“みことばのサクラメント”にあって、聖霊は聖書の“肉体”にいのちを与え、私たちを生かす霊、私たちを生かすいのちに変容します」(『ユーカリスト – 神の国のサクラメント』アレクサンドル・シュメーマン)。祈祷書の文字は聖霊の溢れの中で声に出して歌われて、共同体の内にいのちの言葉として現臨するのです。

「イスラエルの人々は、その食事の前後、あるいは友人を病床に見舞う時、礼拝の時、詩篇と聖書を詠唱した。しかもそれらは地方毎、家族ごとに旋律が異なる等、豊かな多様性を持っていたし、イエスとその弟子たちを含めて、詩篇を唱え、聖書を読むということは歌うことだったのである。」(『礼拝学日記』, 加藤博道, 聖公会出版)

more

礼拝覚書(22) 朗読(3)

By Michinori ManoNo Comments 20 9月

典礼改革で、朗読は<聞く>ものであることが強調されなければならなかったのは、<読むこと>が現代の文化では「文字が目を通して心に語りかけてくる視覚的活動」になっているためです。そのため、朗読を聞くときも目で文字を確認しながらでないと落ち着かないのです。

しかし、<読むこと>は、本来、「口を動かしてその内容を聞き取る活動」です。書物は「自分の声が自分の耳に向かってそれらを歌うがゆえに、わたしの胸の中で鳴り響く」もの、「音を奏でて歌う」ものです。日本語の「読む」という言葉も、「文字の音を唱える。意味を理解する」の意味です(『大辞林』)。インド系の言語でも「読む」と訳される動詞は「音を出す」という意味合いの言葉であり、その同じ動詞が七弦琴を演奏することにも使われます。

音楽がそうであるように朗読も社会的活動です。それは「共同体の意思交換を促進するもの。すなわち、読まれた章句を共通に消化し論評することへと積極的に導くもの」です。礼拝で聖書が朗読され、それを聴くとき、わたしたちは共同体としての活動を為しているのだ、ということを意識したいのです。

また、そうして<読むこと>は、そのまま「意味を理解すること」でもあります。日本語の「読む」もその意味を持っていますが、子音字のみで語を書き記すヘブライ語では「読む」ことはまさにその作業です。書かれた言葉を読むには適切な母音を補って読む必要があり、発音する前にその文の意味を理解しなければならないからです。イヴァン・イリイチがそのことを含蓄に富む言い方で指摘しています。

「ユダヤ人やアラブ人は伝統的に、文字を読む場合、その文字に息ruahを吹き込む解釈作業に従事しています。たとえばruahの場合、三つの子音字が一つの観念を表しているのですが、その三つの子音字に息を吹き込むことによって、骨状のそれらの文字は互いに組み合わさり、この小さなことばはふたたび立ち上がるのです。」

母音は息を吐くことで発音します。ヘブライ語で、その<息>は、神が命を与えるために吹き込まれたものであって、<霊>も意味します。それで、イリイチは、子音に母音を付けて発声する作業である朗読のことを「息を吹き込む解釈作業」であると言い、エゼキエル書37章に重ねて述べているのです。

「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。今、私はあなたがたの中に霊を吹き込む。するとあなたがたは生き返る。私はあなたがたの上に筋を付け、肉を生じさせ、皮膚で覆い、その中に霊を与える。するとあなたがたは生き返る。こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」エゼ37:5-6

聖書の朗読は、生ける神の言葉の語りかけをきくことであって、後で引き出すべき何かを蓄える活動ではないのです。それは神の語りかけを聞いたアブラハムがそうしたように、「より明るい場所へ、つまり光の方へ、そして光の中に向かって行く巡礼の旅なのです。そして、光があまりにも強烈になったときには、もはや読むことをやめ、そこに佇むような、そうした活動なのです。」

(※引用文はすべてイヴァン・イリイチの『シャドウ・ワーク』及び『生きる意味』から)

more

礼拝覚書(21) 朗読(2)

By Michinori ManoNo Comments 13 9月

○ 前回、朗読のとき、「同時に文字を目で追って見るというようなことは、難聴などの補助手段として必要な場合を除いて、なるべく避けるようにします」という土屋吉正神父の注意を紹介しました。

これは旧約聖書、使徒書、福音書、すべての朗読についての注意で、そのため礼拝では読むことを促していると受け取られないように、朗読個所の章・節の指示はしないことになっています。米国聖公会でも、聞くことが困難な場合を除き、朗読を聞きながら目で文字を追うのは望ましくなく、章・節の指示は省く方がよいとしています。

日本聖公会では、旧約聖書、使徒書、福音書のいずれの朗読でも章・節の指示をすることになっていて、「一同福音書の方を向く」福音書のときはともかく、旧約聖書、使徒書では目で文字を追っている方が多いのではないかと思います。しかし、「神が朗読者を通して語られる言葉を、その時、新たに聴くこと」なのですから、聖書日課は事前に読んでおき、礼拝では耳を傾けることに集中するのが望ましいのです。

○ 朗読は、3世紀頃に聖職者の務めのひとつとなり、やがて司祭職の準備段階で与えられる役務として理解されるようになりました。第二バチカン公会議(1962)以後、朗読は信徒の奉仕職として積極的に位置づけられるようになりました。

朗読がかつて聖職者の役務とされていたのは、朗読に朗読者自身の理解が表れるからでしょう。流暢でも、読む人が理解していないと、聞く人も理解できないものです。読む人の理解は抑揚や間の取り方などに自然と表れ、理解が伴わない朗読は無意味な音の連鎖のようになってしまうからでしょう。そう聞くと「自分には無理!」と思われるかもしれませんが、これは逆に言えば、「理解は自分自身で声に出して読むことから」ということでもあるのです。準備で何よりもまず大切なのは、声に出してゆっくり読むこと、何度でも繰り返し読むことです。

聖書の朗読は、祈ることに他なりません。祈りなのですから、それは他の人と優劣がつくようなことではありません。何か客観的な基準に照らして合否がつくようなことでもありません。そして、祈りであればこそ、必ずその朗読者を通してこそ伝わるものがあるのですから、「上手な人」がすればよいというものでもありません。足りないことは神さまが補ってくださることを信頼し、誠心誠意奉仕すればよいのです。

more

礼拝覚書(20) 朗読(1)

By Michinori ManoNo Comments 8 9月

「キリストは、常にご自分の教会と共におられ、…ご自身のことばのうちに現存しておられる。それは、聖書が教会で朗読される時、キリスト自身が語られるからである。」(第2バチカン公会議『典礼憲章』7条)

「朗読者は、会衆席の最前列の聖書朗読台になるべく近いところに座るようにしましょう。司祭が“聖書のみ言葉を聞きましょう”と唱えてから、後方の座席から出てくることのないようにしましょう。」(『礼拝と奉仕』桑山隆, 聖公会出版, 2002)

「正式の典礼朗読は、神が朗読者を通して語られる言葉を、その時、新たに聴くことですから、同時に文字を目で追って見るというようなことは、難聴などの補助手段として必要な場合を除いて、なるべく避けるようにします。そのためには、朗読者ばかりでなく参加者一同も、その日の箇所を前もって読んでくることが必要なのです。…

「聖書の本文は、句読点通り正確に区切って、流暢に、しかし意味が正しく、はっきり聴き取れるよう、適切な間を置き、だれもが、どんな心境の時にでも受け入れやすい、客観性のある読み方をすることが大切です。

「従来、ラテン語でrecto tonoという西洋の朗読法の影響もあって、抑揚を全くつけないで棒読みすることが客観的な朗読であるかのような朗読法が、神学校をはじめ、一部に行われていました。しかし、日本語のアクセントは音の高低による要素が大きいので、棒読みにすることは日本語の特徴を無視することになり、ことばを本当に活かした朗読にはなりません。

「また反対に、抑揚を付けすぎたり、感情を込めすぎたり、時には声色を変えたりして芝居がかった演出をすることも、典礼にふさわしいとは言えません。主観に流されることのないように、抑揚をつけることはやや控えめにしながらも、落ち着いて冷静な態度で聖書の客観的な表現にふさわしい読み方をするためには、まず自分自身が内容をよく、正しく理解して、確信をもって読むことが必要です。

「聖書朗読は、正に神の“ことば”と“わざ”の告知であり、その“あかし”としての信仰告白ですから、いつも客観性が要求されているのです。」(『ミサがわかる』土屋吉正, オリエンス研究所, 1989)

more

礼拝覚書(19) 礼(3)

By Michinori ManoNo Comments 29 8月

○ 跪拝(ジェヌフレクション)

深いお辞儀は、跪拝に替えて、腰から上体を曲げるお辞儀が一般的になっていますが、跪拝(ジェヌフレクション)には固有の象徴的な意味があります。ジェヌフレクションは「膝を曲げる」ことを意味します。「あなたの言葉はつまずく者を起こし、弱った膝に力を与えた」(ヨブ記4:4)という表現に見られるように、「膝」はその人の力を象徴します。膝を曲げることは、相手に対して自分の力はむなしいことを認め、自分の力を差し出すことを表します。そういう象徴的動作として、跪拝は、服従、敬意、崇拝を表し、謙遜に仕えることを示すのです。

「それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神が崇められるためです。」(フィリピの信徒への手紙 2:10-11)

○ 平伏(プロストレーション)

聖ベネディクトの戒律に「地面に全身を伏して、来客のうちにキリストを迎えまた礼拝しなければなりません」とあることを前回紹介しました。この地面に全身を伏す、最も深い礼の形がプロストレーションです。仏教の五体投地に似ていますが、手は横に広げて十字架をつくる形、あるいは額の下に重ねる形を取ります。

聖公会では聖職按手式の時に志願者がこの形を取ります。修道院には請願を立てる者を床に伏せさせ、埋葬布をかけて葬送の祈りを唱え、世に死んでキリストの命に入ることを表す伝統があります。プロストレーションは、深く神を畏れ敬う礼拝の姿勢であり、また世に死ぬこと、自分に死ぬことを象徴するのです。聖金曜日の礼拝で行う伝統もあります。

○ 口づけ

聖職は、祭壇に近づくとき、祭壇から離れるときに、祭壇に口づけをします。また福音の朗読後、福音書に口づけします。聖なる場所の入口や聖なるものに口づけをする慣習はキリスト教以前から広く行われていたもので、4世紀末までに教会で取り入れられました。

世に命を与えるために自らをささげられたキリストへの愛を表現する行為ですが、石でできた祭壇への口づけは「隅の親石」であるキリストを崇めるという意味合いもありました。祭壇に殉教者の聖遺物が収められるようになって、殉教者の崇敬も意味するようになり、さらにそこから天の勝利した教会の崇敬も意味していました。

more

礼拝覚書(18) 礼(2)

By Michinori ManoNo Comments 25 8月

現在、聖公会で行われている<礼>の動作は主に2つで、(1) 頭だけ軽くさげるお辞儀、(2) 腰から上体を曲げるお辞儀、があります。

(1) 頭だけ軽くさげるお辞儀:手を合わせ、上体はそのままにして軽く頭を下げる礼です。聖堂の中央を横切る時、イエスの名を口にする時、「栄光は父と子と聖霊に」と唱える時、また互いに対して、この礼をします。

(2) 腰から上体を曲げるお辞儀:手を合わせ、上体を45度ほど曲げてする礼です。跪拝(ジェヌフレクション)がそのより伝統的な形です。跪拝は背を伸ばしたまま右ひざを床につくまで曲げます。受肉されたキリストに対して(信経のその部分を唱える時)、サクラメントに臨在されるキリストに対して(陪餐のため中央の通路に出た時、祭壇の上に置かれたご聖体に向かって)、聖堂に入るとき、出るときに祭壇に向かって行います。(本以外の)何かを手に持っている時には、あたまをさげるお辞儀に替えます。

ユダヤ教やイスラム教では神以外に対するお辞儀は禁止されています。人間に向かってはお辞儀をしません。キリスト教でも根本における理解は同じでしょう。しかし、神の受肉、聖霊の働きを信じるゆえに、互いの中にもおられる神に対してお辞儀をするのです。それは、西方キリスト教の修道院の基礎となった聖ベネディクトの戒律(540年)で教えられている通りです。

「修道院を訪ねてくる来客はすべて、キリストとして迎え入れなければなりません。…そこで来客の報せをうけたならば、長上と修友たちは、愛の要求するすべての礼を尽くして、その者を迎え入れなければなりません。まず一緒に祈り、こうして平和のうちに挨拶を交わします。…挨拶をするにあたって、訪ねて来る者あるいは辞去する者すべてに対して、心から謙遜な態度を示します。すなわち、頭を垂れ、あるいは地面に全身を伏して、来客のうちにキリストを迎えまた礼拝しなければなりません。」(53:1-7)

ちなみに、日本で一般に行われているお辞儀は、南アジアから仏教と共に伝えられ、それが日常の暮らしにも入ったという説と、飛鳥時代から奈良時代に中国の礼法を取り入れたという説があります。前者であれば、人に対するお辞儀は、すべての人が持つ仏の心に対する敬意から、ということになるでしょうか。後者であれば、自分の首を相手に差し出して、自分が相手に対して無抵抗であることを表現したことが由来ということになります。ただし、中国ではお辞儀という動作は一般的ではないということです。

more

礼拝覚書(17) 礼(1)

By Michinori ManoNo Comments 31 7月

伝統的キリスト教が保っている所作の内、プロテスタント的感覚で見て最も違和感を持たれるのが「礼」かもしれません(十字を切ることもかもしれませんが、おそらくそれ以上に)。宗教改革で排除しようとした偶像崇拝的なものをそこに見てしまうからです。東方教会の信者がイコン等に口づけしているのを見ると「信仰の対象が違うのではないか」と思ってしまうのです。

19世紀半ばに聖公会を含む宗教改革を経験した教会の信者が、パレスチナに「巡礼」でなく「旅行」をするようになった時、かれらは一様に伝統的な巡礼者たちの様子を見て嫌悪感を抱きました。そのような「野蛮」な慣習は払拭され、「文明」化されるべきだと考えました。東方に対するそのような見方が「イスラエル建国」を支持するひとつの基礎になり、また現在もイスラム教に対する嫌悪に引き継がれています。

これはおそらく宗教改革以前から始まっていた変化、アレクサンドル・シュメーマンが西方教会を批判して言うように、「全宇宙を包含する教会全体の行為が、予約しておいた日時に教会の片隅で執行される個人的な儀式へと変わってしまった」結果であろうと思います。(『世のいのちのために』, アレクサンドル・シュメーマン)

「今日、あなたはわたしを土地の面(パニーム)から追放した。そして、わたしはあなたの顔(パニーム)から隠される」(創世記4:14)というカインの言葉が示すように、この世界は「神との交わり」として、神の存在を経験する手段として、与えられていたにもかかわらず、きょうだい殺しの罪を犯した結果、この世界は逆に「それ自体が目的とされるもの」、偶像崇拜の対象に堕落してしまいました。

しかし、キリストの十字架の死と復活の内にいのちは再び神との全き交わりへと回復されたのです。キリストヘの信仰において「世界はそのとき真にキリストの存在の機密(サクラメント)、神の国と永遠のいのちの成長の場になります。…世界は死ではなく、その真の理解とともに再びかれのいのちとなります。喜びと人間性の真の力が取り戻されます。」(シュメーマン)

口づけをしたり、お辞儀したりするのは、この信仰において、神との交わりを与えるものとして、敬意を表しているということなのです。死となった世界にひれ伏しているのではなく、それからの離脱(キリストと共に死ぬこと)を前提に、与えられた新しいいのちへの感謝、喜びからそうしているのです。それはシスター・ジョアンが指摘するように、西方教会でも元来は持っていた理解、現在でも辛うじてかもしれませんが保たれているはずの理解です。

「多くの修道院では、祈りをささげるためにチャペルに入る際、祭壇に向かっておじぎをした後、共に行列で歩くシスターの方を向いておじぎをする慣習があります。そのような修道院の慣習の意味は明らかです。神は、チャペルにおられ、祭壇上におられるのと同様に、自分たちを取り巻く世界におられ、互いの中におられる、ということです。神は人生の内実です。わたしたちの魂そのものの息です。神は、いのちを、そのあらゆる形において、より深く理解するように求めておられます。」(ジョアン・チティスター)

more

礼拝覚書(16) 十字を切る (3)

By Michinori ManoNo Comments 31 7月


十字をしるす時、「父と子と聖霊のみ名によって」と唱えます。この「十字の祈り」は、心で唱えることも、声に出して唱えることもあります。

左手を軽く開いて胸の少し下に置き、軽く開いた右手の中指を額に当てて「父と」唱え、そこから胸の下までおろして「子と」唱え、その手を左肩から右肩にひくときに「聖霊のみ名によって」と唱え、両手を胸の前に合わせて「アーメン」と唱えます

※ 最後に、手を胸に持って行く形、指先を唇に持って行く形もあります。早く小さく手を動かすのでなく、ゆっくり大きく手を動かすようにします。

この十字のしるしと祈りは、聖堂の出入りのときに、礼拝の始まりと終わり、及び前回書いたような箇所で、また、日常生活の中で、祈りをささげる前後に(特に自分の言葉で祈るとき)、起床就寝時、食事のとき、家を出るとき、そして生涯最後のときに唱えられてきました。

「一歩毎に。一動作毎に。入る時、出る時。服を着る時、靴を履く時。入浴の時。食卓につく時。明かりをつける時。横になる時、座る時。日々のすべての行動で、わたしたちは額に十字をしるす」とまで、テルトゥリアヌス(c.200)は述べています。

晴佐久昌英神父は著書『十字を切る』(女子パウロ会, 2012)で、次のように書かれています。

「十字の祈りは、ひと言で言えば神と人を結ぶ祈りです。正確に言うと、神と人がすでに愛の内に結ばれていることに目覚める祈りです。…十字の祈りは、天と地を結ぶ祈りです。すなわち、永遠なる“天の救い”に目覚めて、この世にありながら天を生きるという“地の救い”をもたらす祈りです。」

「<み名によって>は、<その中に入る>とか<一つに交わる>という意味です。つまり、十字を切るとは、<神の愛の中に入る><神の愛と一つに交わる>ということです。正確に言うなら、十字を切って、<わたしは今、神の愛の中にいる><わたしは神と一つある>ことを受け入れ、信じ、救われます。人間にとって、神の愛の中に入り神と一つに交わることこそ生きる目的ですから、十字を切ること自体がすでに救いなのです。」

「あたかもさまざまな祈りの初めと終わりに付け加える決まり文句程度に思われがちですが、実はこの祈り自体が祈りの一つの完成形であり、至高の祈りなので、これだけでも十分な祈りです。教会の大切な典礼や、人生の重要な局面で必ず十字が切られるのは、そのためです。十字の祈りは、普遍的で本質的、完全な祈りなのです。」

more

礼拝覚書(15) 十字を切る (2)

By Michinori ManoNo Comments 23 7月

『公会の慣習とシンボル』(聖ヨハネ修士会, 1962)は次のように教えます。

「聖堂の入口に聖水が置いてある教会もあります。その時には右指先を聖水に浸して、自分自身に十字架の形をしるし、“主よ、ヒソプをもて我を清めたまえ、さらば我きよくならん。我を洗いたまえ、さらばわれ雪よりもしろくならん”(詩51:7)と唱えます。

横浜教区でも主教座聖堂には聖水が置いてあります。“我を洗いたまえ”は、ゴスペル”Oh Happy Day”で歌う言葉ですね。十字をしるすことは、前回書いたように、洗礼を記念する行為なのです。

「そして祭壇に礼をし、自分の席を見つけて、ひざまずき、十字架の形をわが身にしるして静かに祈ります。それは、自分が主の十字架によって贖われたこと、日々十字架を負って主に従うべきこと、“キリストの十字架を恥とせず、生涯キリストのしもべとなり、また忠義なる兵卒となり、その旗もとにありて、勇ましく罪と世と悪魔に向かいて戦う”ことを表します。

「礼拝中に十字架のしるしをするのは、(1)礼拝の始め、(2)大栄光の頌の終り、(3)ニケア信経の終り(“..来世の命を待ち望みます..”)、(4)赦罪のとき(“..すべての罪を赦し..”)、(5)聖餐のパンとぶどう酒を受けるとき、(6)祝祷のとき(“..父と子と聖霊なる全能の神の恵みが..”)、(7)礼拝後の感謝の祈りが終わったとき。聖餐式で福音を聞く時には、右手の親指で、額と口と胸に小さな十字架をしるします。それは福音を聞いて理解し、人に宣べ伝え、心におさめることを表します。

なお他に、(8)「聖なるかな」(サンクトゥス)に続く「ほめたたえよ」(ベネディクトス)を唱えるとき、(9)感謝聖別の祈りにおけるパンとぶどう酒の奉挙のときにも、よく行われています。

ただし、米国聖公会でよく参照されているルブリック解説書(”Prayer Book Rubrics EXPANDED”, 1979)は、上記の内、(2)についてはそこで十字をしるす根拠が不明である、 (8)についてはおそらく誤解から始まったものである、と注意を促しています。

朝夕の礼拝では、(1)礼拝のはじめ、“主よ、わたしたちの口を開いてください”のとき、右手の親指で口の上に小さな十字をしるす、(2)使徒信経のとき(“..永遠の命を信じます..”)、(3)礼拝の結び、“主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり..”のとき、しるします。

司祭が人やモノに向かって十字を切るのは、祝福する時、献げる時、罪の赦しを祈る時ですが、手をおく形に比べて新しい形です。ちなみに、聖別で十字を3回切る(父・子・聖霊)、5回切る(キリストの傷の数)、33回切る(イエスの地上の生涯の年数)等の慣習がありますが、神学的裏付けはなく、典礼を不可解なものにするので、現在は推奨されていません。所作は複雑なほど「ちゃんとしている」感じ、「ありがたい」感じを与えることがありますが、そういう満足が追求されれば、典礼の意味が見えなくなったり、歪めて理解されたりしかねません。初代教会の典礼はシンプルなものでした。その回復に努めてきたのが聖公会の伝統です。

more
« Older Entries