Archive for the ‘キリスト教’ Category

礼拝覚書(6) ロウソク

By Michinori ManoNo Comments 23 5月

ロウソクに火を灯すことは、礼拝に必須の行為でしょうか?それは、どんな意味があるのでしょうか?

ロウソクについての指示は、日本聖公会の祈祷書のルブリックになく、慣習に属します。鐘を鳴らすことや祭壇の近くに花を飾ることと同様で、ロウソクはなくてもよいのです。米国でも同様です。英国では、1547年にエドワード六世が「キリストが世の真の光であること」を示すために祭壇に2本のロウソクを灯すように命じて以来、それが基本とされています。日本聖公会ではそれを慣習として継承しています。

甲府聖オーガスチン教会では、祭壇のロウソクは、礼拝の5分前に灯され、後奏の間に消されます。ふさわしい心構えで礼拝に臨むには、礼拝開始の遅くとも15分前には準備に入るのが望ましく、5分前にロウソクが灯された時には、すべて準備が整っているようにしましょう。また、礼拝後も、ロウソクが消されるまでは沈黙して席に座っているようにしましょう。

ちなみに、ローマ・カトリックには、司教司式の盛儀ミサでは7本、荘厳ミサでは6本、盛式ミサでは4本あるいは6本、読唱ミサでは4本あるいは2本、司祭が司式するミサでは2本…という伝統がありますが、それは聖公会の伝統ではありません。しかし、19世紀に典礼の伝統を復興しようとする流れが起こって、一部の教会はローマ・カトリックに倣うようになりました。他方、それに対する強い反発も起こり、ロウソクの使用自体を禁止すべきであるという議論もされましたが、決議には至りませんでした。また、ローマ・カトリックには、蝋はキリストの体/人性を、芯はキリストの魂を、炎はキリストの神性を表すので、蜜蝋を使わなければいけない、という規則もありますが、元々は獣脂でできた安い蝋は悪臭を放つために禁じられたことに由来する規則です。

ロウソクは明かりとしての実際的な必要から使われ始め、教会は当初典礼的な意味を込めての使用には慎重でした。異教の祭儀で広く用いられていたため、宗教の混淆を恐れたのでしょう。しかし、古代末期には、東方教会では、明かりの必要がなくても、福音書が読まれる時には「喜びの目に見えるしるし」として灯火を点すようになっていました。西方教会で、祭壇にロウソクが置かれるようになったのは12世紀ですが、「神の臨在を象徴する」、「玉座たる祭壇から輝き出て、そのみ前に集った民を照らす光であるキリストを象徴する」、「『世の光』であるキリストを象徴する」、「み言葉の朗読によって『照らし』を受けることを象徴する」、「神のみ前に立ち上る会衆の祈りを象徴する」といった理解があります。聖餐式は喜びの祝祭であるから点すのだ、という理解もあります。

また、祭壇の2本のロウソクを、ゴスペルキャンドル(左側)、エピッスルキャンドル(右側)と呼び、点灯は右から左の順で、消灯はその逆順で、という伝統があります。このように点灯、消灯すると、ゴスペルキャンドルが1本だけ点されている状態になりませんが、それは、福音書は使徒書や旧約聖書と共に成立するもので、単体では成立しないことを象徴すると言われます。

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礼拝覚書(5) 鐘

By Michinori ManoNo Comments 16 5月

教会の鐘は、何のために鳴らすのでしょうか。礼拝が始まります!と知らせているのでしょうか。鐘の音が聞こえたら、礼拝堂に向かえばよいのでしょうか。それとも?

鐘の使用は慣習に属することで、一般的な定めはありませんが、現在は大きく分けて二つの目的で鳴らされます。第一の目的は、予鈴として、礼拝の開始が近いことを知らせ、聖堂に会衆を呼び集めるため。第二の目的は、本鈴として、また、それぞれの場で祈りをささげることができるように、祈りの時を知らせるためです。他にも昔は地域共同体に関わる様々なことを伝達するために用いられていました。

第一の目的では、英国では、教会区(パリッシュ/小教区)の信者が家から聖堂まで歩くのに必要な時間を見て、大体30分前に鐘が鳴らされます。日本では、信者は必ずしも所属教会の近辺に住んでいませんから、礼拝開始の5分前、あるいは10分前に予鈴が鳴らされることが多いようです。

第二の目的では、礼拝式のタイミングで鐘が鳴らされます。主日礼拝の開始時は、イエスさまの地上でのご生涯の年数分(33回)、鐘が鳴らされます。葬送式の開始時は、逝去者の生涯の年数分が鳴らされます。キャンドルマス(被献日の燭火礼拝)や棕櫚の日曜日の行列の間、鐘を鳴らす伝統もあります。礼拝中、例えば主の祈りをささげるタイミングで鳴らす伝統を持つ教会もあります。仕事等で礼拝に出席できない人が共に祈れるようにするためです。聖堂内で、元々は礼拝で使われるラテン語が分からない会衆が祈りや賛美を唱えたり、十字を切ったりするタイミングが分かるようにすることが目的であった、サンクトゥス・ベルを鳴らす慣習を残している教会もあります(※カトリックでは廃止)。

また、それぞれの人が自分のいる場所で定時の祈り(主の祈り、あるいはアンジェラスの祈り)をささげることができるように鐘が鳴らされます。朝6時、昼12時、夕6時が聖書時代からの伝統ですが、日本聖公会では朝夕の礼拝開始の時間に鳴らされています。

甲府聖オーガスチン教会では、予鈴ではなく、本鈴として、鐘が鳴らされています。鐘が鳴るのと共に戸が開かれ、わたしたちは神の家に入っていく(しかし、戸というものは開け放しにはされないものです!)、そういう心構えを持ちましょう。

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礼拝覚書(4) 主の祭司として

By Michinori ManoNo Comments 9 5月

世に対する公の奉仕である礼拝、わたしたちはそれを何者として為すのでしょうか。

聖餐式をささげる時、わたしたちは感謝の祈りの中で、そのことを言い表します。「父は、み子を人として生まれさせ、十字架の死と復活によって、わたしたちを罪の鎖から解放し、み子をご自身の右に挙げられました。そして聖霊を送り、わたしたちを神の民としてみ前に立たせ、主の祭司として主とすべての人々に仕えさせてくださいます。」(感謝聖別文Ⅰ, 祈祷書 p.173)

これはヨハネの黙示録で言われていることです(復活節第三主日の日課)。「…あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。」(5:9-10)

わたしたちは、主の祭司として礼拝をささげるのです。そのことに信徒、聖職の区別はありません。男、女の区別もありません。

そもそも人は「祭司」として創造されました。神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた、と創世記にあります(2:19 ※これは「人」が男と女に分けられる前のことです)。「名付けるとは、そのものに代わり、またそのものの内に神を賛美すること」です。それは祭司の働きに他なりません。人は、本来、すべていのちあるものの祭司なのです。

「彼/彼女はこの世の中心に立ち、神を賛美し、神からこの世を受け取り、そして受け取ったこの世を神に献げるという両方向の行為を通じてこの世をひとつにします。そして、この世を感謝で満たし、この世から受け取った彼/彼女自身のいのちを神の内にあるいのちに、神との交わりに変容します。…人はこの宇宙的なサクラメントの祭司なのです。」

モノ、ワタシ、それ自体に価値を見、それ自体を目的とする生き方(偶像を崇拜する生き方)に堕落して神から離れ、祭司としての在り方を放棄していた私たちは、十字架において人の本来の在り方を回復されたキリストの霊を受けて、祭司としての在り方を回復され、礼拝をささげるのです。

※ 引用は『世のいのちのために』(アレクサンドル・シュメーマン, 新教出版社)から。文意を変えない範囲で語句を若干修正しています。

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礼拝覚書(3) ふさわしい服装

By Michinori ManoNo Comments 30 4月

さあ今日は主の家で宴です。どんな「服装」で参加しますか?主はふさわしくない「服装」をしている人を見つけて言われます。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか。」そして側近の者たちに言われます。「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ 22:8-14)

ふさわしくない服装とは、「滅びに向かっている古い人」のこと(エフェソ4:22)。ふさわしい服装とは、悔い改めの心のことです。たとえ外見はボロボロの格好をしていても、古い人に死んだわたしを主は遠くから見つけ、駆け寄って来られて、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と言い(ルカ15:11-32)、「神にかたどって造られた新しい人」を着せてくださいます(エフェソ4:24)。

祈祷書の聖餐式のルブリックには、次のように記されています(p.160-161)。

「受聖餐者のうち、明らかに大罪を犯すか、言行で隣り人を害して主の民の交わりを損なった者があれば、司祭はその人に対して、その罪を悔い改め、加えた害を償い、または後に償う決心を明らかにしないときは、陪餐してはならないことを告げなければならない。また、互いに恨みを抱く者があれば、前の規則により、陪餐させてはならない。ただし、一方がその受けた害を赦し、与えた害の償いを明言し、和を求めているのに、他方が、それを受けいれずに恨みを解かないときは、司祭は和を求めている者に陪餐を許し、受けいれないものには許さない。これらの処置をしたとき、司祭は2週間以内に主教に報告する。」

主イエスご自身、「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」とお教えになりました。

ですから、礼拝前、聖堂に入ったら、招いてくださった主に感謝をのべ、また懺悔の祈りをささげましょう。祈祷書143頁~158頁にある「聖餐準備の式」を用いるのもよいでしょう。

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礼拝覚書(2) 参入

By Michinori ManoNo Comments 28 4月

聖餐式の式文を開くと、はじめに「参入」と書かれています。何に参入するのでしょうか?!わたしたちは主に招かれて、主の家に行き、主の喜びに参入します。

それは、礼拝で、形においても表現されます。わたしたちの教会では、普段、初めの聖歌が歌われる中を司祭が入堂します。しかし、かつては、礼拝に参加する人全員が、聖堂の入口で待機し、聖職の先導によって行列で入堂したのです。ベラルーシで見た正教会では現在でもそうでした。日本聖公会でも、棕櫚の日曜日、イースター・ヴィジル(聖土曜日の礼拝)、聖堂聖別式などで、その形が残されています。

家と礼拝所が離れたために、外で集まってから一緒に入堂するということが難しくなったのでしょう。各々聖堂に入って座って待つのが普通になっていますが、わたしたちは主に招かれて、主の家に入るのだ、ということに変わりはありません。それにふさわしい心構えで臨みたいものです。

人の家に招かれて行って、勝手口から入るでしょうか?主人に挨拶もせずに、他の人たちと挨拶、雑談を交わしたりするでしょうか?聖堂には玄関から入って、席に着いたらまず(ひざまずいて十字を切り)招いてくださったことを主である神に感謝しましょう。礼拝前は、他の人に対する挨拶は、目礼だけにしましょう。何か事情があって必要があるならば、会館に行って会話するようにしましょう。

聖餐式は「神の国の次元に入ってゆく教会の旅」です。聖堂に入る時、わたしたちは世から「離脱」します。祭壇に向かって進む行列は、イエス・キリストが世に降られ、十字架と復活に向かって歩まれたことを表します。また、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたその言葉に従って主の後を歩むことを表します。参入の聖歌を、わたしたちは、その行列に加わる者として歌うのです。

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礼拝覚書(1) 礼拝とは

By Michinori ManoNo Comments 20 4月

※甲府聖オーガスチン教会の週報のコラム用に書いたものです。

礼拝とは何でしょうか。祈りをささげることでしょうか。だとすれば、自宅でひとりで祈りをささげても、礼拝したことになるのでしょうか。

礼拝をささげる集まりは、ユダヤ教では10人の出席者がいなければ成立しません。キリスト教では2人の出席者がいなければ成立しません。 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタ18:20)と、イエスさまはお教えになりました。シナゴーグから排除された初代教会のキリスト者にとって、二人または三人がいれば礼拝が成立するという教えは大きな励ましになったことでしょう。

重要なことは、礼拝は、個人の行為ではなく、共同体の行為である、ということです。礼拝は、ギリシア語でレイトゥルギアと言います(英語のリタジー)。レイトゥルギアの語源は、ラオス(共同体を構成する民)のエルゴン(働き、仕事)です。一言でいうと「公共奉仕」です。

ただし、礼拝に先立って、また礼拝と関係なく、それを献げる共同体が既に存在している、というわけではありません。礼拝を通して、初めて、人々の集まりが単なる個人の群れではなくて、ひとつの共同体へと形成されていくのです。わたしたちは神さまに召し出され、礼拝において「神のエクレシア(民会)=“教会”」になるのです。

そして、礼拝は、それ自体が、この世に対してキリストとそのみ国を証しする奉仕であって、それゆえにレイトゥルギアと呼ばれます。礼拝は、この世と関係のない、集まった者たちが行う私的行為ではないのです。また、礼拝の中で個人に割り当てられる役割を為すことや、礼拝以外にする諸々のことばかりが奉仕なのではありません。礼拝に参加すること自体がもっとも大切な奉仕なのです。

主の喜びに入り、その証人になること、それが礼拝であって、奉仕の本質です。

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聖書協会共同訳が届いた!

By Michinori ManoNo Comments 8 12月

聖書協会共同訳が届いたので、早速長坂での聖書勉強会で使いました。今のところ、なかなか好印象です!…ソフトバンクの接続障害ひどいです。

眞野 玄範さんの投稿 2018年12月5日水曜日
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南スーダンのために…

By Michinori ManoNo Comments 9 8月

日曜日、長坂聖マリヤ教会の第31回平和記念講演会で、日本国際ボランティアセンター(JVC)の清水俊弘さんから南スーダンの話をお聞きしました。講演後の質疑で、なぜ日本は難民を受けれいないのか、という問いに対して、清水さんは、地域として難民を受け入れる運動が起こらなければ日本政府は動かないだろう、例えば、この長坂聖マリヤ教会がそういう取り組みをするということがなければ…ということをドイツの例を引きながら話してくださいました。お聞きしていて、自分は難民受け入れを国の問題として考えるばかりで、自分たち自身が迎え入れ、共に生きていくということを現実的な可能性として考えていなかったと気づかされました。

そんな今日、ジャスティン・ウェルビー カンタベリー大主教が南スーダン人難民キャンプの訪問で考えたことを書かれていたので翻訳しました。

家に戻って、スーダンとウガンダでのつらくも素晴らしい数日間を振り返っています。

最後の日は、北ウガンダにある2つの難民キャンプ、ベラメリングとミリエイで過ごしました。そこには20万人の難民がいます。ほとんど全員が南スーダンから逃れてきた人たちです。ウガンダにいる南スーダン人難民の数は100万人に達しました。着の身着のままで国境を越えて文字通り命がけで逃げてきた人々に会いました。 (さらに…)

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Sabeel Christmas Message 2016

By Michinori ManoNo Comments 10 12月

サビール・クリスマス・メッセージ 2016

いと高きところには神に栄光が、地には平和があって、人には慈しみが示されますように。

親しき友人たちへ

クリスマスは喜びの時です。日々の生活の悲しみや困難の只中にあって、わたしたちにはクリスマスの心が必要です。クリスマスのよき知らせと明るさが必要です。イエス・キリストの誕生は喜びと希望を与えます。「あなたに生まれます。救いをあたえる者、油注がれし者、主が。」わたしたちが日々の困難を切り抜けていくことができるように、クリスマスはつねにわたしたちを回復させ、新たにしてくれます。

しかし、クリスマスの物語は、また、トラウマと悲劇に満ちたものでもあります。幼子キリストの美しさと無垢さと共に、ヘロデのわがままと残酷さ、権力を持つ人々の冷淡さが語られているのです。

このアドベントにクリスマスの物語を読み、そこから何を学ぶことができるでしょうか。 (さらに…)

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クリスマス・イブのお話

By Michinori ManoNo Comments 28 12月

とんとん。旅装束の若い夫婦が戸をたたきました。しかし、その家は飲めや歌えやの大騒ぎで、何度戸を叩かれても誰も気がつきませんでした。

どこの家も客を迎えて賑わっていました。ふたりはこの町の親戚とは縁遠くて、頼れる家がありませんでした。妻は身ごもっていて、野宿するわけにもいきませんでした。そこで町中の家々を宿を求めて訪ねまわっていたのでした。

この時代、お金を払って泊まるような宿は、数多くありませんでした。そのような宿があっても、しばしばいかがわしい商売の場所になっていたこともあって、旅人が見知らぬ人の家に宿を求めることは普通のことでした。それに、その昔、信仰の父アブラハムが見知らぬ旅人を迎え入れ、気づかずに天使をもてなしたことが、人々の生活の規範になっていました。見知らぬ旅人をよき知らせをもたらす天使を迎えるようにして歓待する慣習があったのです。

しかし、その日、若い夫婦を迎え入れる家は、なかなか見つかりませんでした。 (さらに…)

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パレスチナ・イスラエルのための世界平和週間(2015/9/20-26) 式文

By Michinori ManoNo Comments 12 9月

※ 印刷用PDF http://anglican.jp/nagasaka/programs/WWPPI2015_liturgy.pdf

◆招きの言葉

司式者:わたしたちはここに、神の民としていのちを祝うために集まっています。日々の生活において神が共にいてくださることを感謝するために集まっています。神の民のために祈りを献げるために集まっています。人々を引き離し、交わりを壊し、生活、共同体を引き裂くあらゆる壁に、心と思いを向けましょう。石でできている壁もあれば、反移民法、偏見、経済的不正義、恐れによってできている壁もあります。本日は、ことに、パレスチナの人々を家族、友人、耕地、同胞から引き離している恥ずべき壁について省みましょう。心と思いを開き、「平和をつくる者になりなさい」「和解を呼びかけ、助ける者となりなさい」という神の呼びかけを聞きましょう。すべての不公正、不正義の克服を約束しておられる正義の神への希望と信仰を表しましょう。不公正、不正義なるイスラエルの分離壁が壊されることへの希望を、そのための献身を、言い表しましょう。 (さらに…)

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クリスマスの慣習

By Michinori ManoNo Comments 7 4月

※ 長坂聖マリヤ教会 週報のコラムとして書いたもの(2014/11/30,12/7,12/14,12/21,12/28, 2015/1/4), 2015/12/8改訂

○ 飼い葉桶(クリッペ/クリブ)の展示

クリッペは、飼い葉桶とそこに眠るキリスト、マリアとヨセフ、天使、羊飼い、東方からの学者、家畜たちのセットです。

この慣習は古代教会にまで遡るようですが、現在のような形になったのは13世紀頃で、イエスの歴史的、人間的な詳細への関心が高まったことが背景にあったようです。 (さらに…)

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教会委員の心得

By Michinori ManoNo Comments 10 1月

長坂聖マリヤ教会の週報(1/25, 2/1)のコラムとして書いたものです。

1)神からの召しとして、受けとめること (さらに…)

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教会委員会の由来

By Michinori ManoNo Comments 10 1月

長坂聖マリヤ教会の週報(1/11,18)のコラムとして書いたものです。

◆ 英語の「ベストリー」は、文字通りに「祭服室」を意味する他、そこで持たれる「教会委員会」を意味します。 (さらに…)

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諸聖徒日と諸魂日

By Michinori ManoNo Comments 25 10月

※ 2014年10月19日の週報のコラム: 諸聖徒日と諸魂日(1)

教会暦の歩みは「終末」へと向かっています。この時に、私たち以前にキリストの道を歩んだ人々を記念する「諸聖徒日」を祝うことは意味深いことです。 (さらに…)

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フィリピン聖公会の歴史、現況と印象

By Michinori Mano2 Comments 19 9月

レポート「フィリピン聖公会の歴史、現況と印象」をまとめました。
http://michinori-mano.net/mary/ASP2014.pdf

※ 目次は以下の通り:

フィリピン聖公会の歴史
1.1898-1900年- 戦争の嵐と共に … 3
2.初期の宣教理念 … 4
3.宣教の始まり – コルディレラ・セントラルへ … 6
4.初期の展開1 – 最初の宣教拠点ボントック … 7
5.初期の展開2 – 第二の宣教拠点サガダ … 9
6.初期宣教の終わり – サガダでの破局 … 11
7.フィリピン人による宣教へ … 13

フィリピン聖公会の現況と印象
1.現況 … 15
2.宣教事業 … 16
3.青年活動 … 17
4.教会建設 … 18
5.有機循環農法 … 20
6.伝統宗教と福音伝道 … 21
7.抱える課題 … 23

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パレスチナ・イスラエルのための国際平和週間2014 礼拝式文

By Michinori ManoNo Comments 19 9月

「パレスチナ・イスラエルのための世界平和週間(WWPPI)」は、世界教会協議会の呼びかけで、9月21~27日に守られます。2014年度はパレスチナの政治的囚人に焦点を当てています。

– 礼拝式文(英語版): https://pief.oikoumene.org/・・・/invitation・・・/Liturgy2014.pdf
– 資料(英語版): https://pief.oikoumene.org/・・・/invitatio・・・/finalE_Book1.pdf

≪≪≪ パレスチナ・イスラエルのための国際平和週間2014 (9/21-27) 礼拝式文 ≫≫≫

◆ 前奏

◆ 祈りへの呼びかけ

司式者: 三大陸の交差点にして、次々に花開く文明、文化に養われた地、宗教、帝国、闘い、奇跡の揺籃である、中東のこの小さな地から、主イエス・キリストに従う私たちは、深く地に根を下ろした信仰から溢れ出す勇気によって力を与えられ、あなたたちの祈りを私たちの祈りと合わせるよう呼びかけます。憐れみ深い創造主に、そのすべての子らの苦しみを終わらせてくださるように祈りましょう。ことに、預言者たちと私たちの主、救い主によって約束され、普遍的な人権の法律と宣言によって保障されているはずの解放を求める、捕虜、囚人、受刑者、亡命者のために祈りましょう。彼らはあなたたちが声をあげ、叫ぶことを期待しています。「あなたは彼らを尊厳をもって生きるように創造されました。み民を自由にしてください」と。唯一なる永遠の神、三位一体なる私たちの神、父と子と聖霊の名によって礼拝を始めましょう。 (さらに…)

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基本的な所作

By Michinori Mano2 Comments 30 7月

◆ 2014/8/10 週報のコラム

同じ聖公会でも、以前は各々の歴史に関わった伝道協会や聖職によって、大切にされる伝統が異なっていました。典礼改革によって古代からの礼拝の在り方についての理解が深められたこと、また海外の伝道協会から自立したことで、各教会の伝統も相対化され、現在は違いが意識される機会はあまりなくなっています。伝統の違いによる対立的な意識が薄れたのはよいことですが、伝統の中で育てられることがなくなったという面もあるかもしれません。 (さらに…)

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礼拝中の姿勢・動作の歴史

By Michinori ManoNo Comments 29 7月

◆ 2014/8/3 週報のコラム

初代教会では、会衆は立ったままで主日礼拝を捧げました。神の民として天の父の前にいることを強く確信していることを象徴する姿勢が取られたのです。祈る時は、顔を上に向け、目は開けたまま、手のひらを上に向け、手を上に差し伸べる形、あるいは自分の体の前で手を開く形が取られました。 (さらに…)

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福音朗読について

By Michinori ManoNo Comments 19 7月

◆ 2014/7/20 週報のコラム

さあ、旧約聖書、詩編、使徒書によって<神のことばの食卓>が整えられました。いまや、ご自身のことばのうちに現存しておられる主イエス・キリストを迎える時です。わたしたちは主をどのように迎えるでしょうか。 (さらに…)

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