Archive for the ‘キリスト教’ Category

礼拝覚書(13)ロウソク(2)

By Michinori ManoNo Comments 12 7月

※ 甲府聖オーガスチン教会週報コラム(礼拝覚書(6)の続き)

み言葉の礼拝の時、祭壇のロウソクは点すのでしょうか、点さないのでしょうか。

聖公会では、宗教改革後、礼拝でロウソクを点さなくなっていましたが、19世紀に再びロウソクが用いられるようになりました。その際に、聖餐式の時には祭壇に2本のロウソク(Eucharistic Candle)を点し、朝夕の礼拝等では6本のロウソク(Office Lights)を点す、という区別が生じました。

しかし、そのような区別はそれ以前には知られていなかったことで、またロウソクを使うこと自体が慣習に属し、ルブリックで指示されていることではありませんから、どうするのが正しいということはありません(※ 礼拝覚書(6)参照)。

現在も、聖餐式の時は祭壇にロウソクを点し、朝夕の礼拝やみことばの礼拝ではロウソクを置かない、点さないという形で区別を残している教会がありますが、そのような伝統が一貫して存在するわけではありませんので、現在は聖餐式かどうかの区別なく特別な時以外は2本のロウソクを点すことが推奨されています。

 

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礼拝覚書(12)祈る時の手の形

By Michinori ManoNo Comments 9 7月

所作を代表するのが、祈る時の手の形でしょう。

日本聖公会では、(立ち、あるいは跪き)、両手の指を真直ぐに伸ばしたまま手のひらを合わせ、親指をX印の形に重ね、胸のあたりに軽くあてる形が、標準的です。これはすべての物事から手を離し、ひたすら神に向かうことを表しています。

プロテスタント教会では、(跪き)、両手を折り重ねる形がよく取られます。これは西欧の封建時代、家臣が領主に忠誠を表す時に取った手の形に由来すると言われます。この形をつくって領主の手の中に置いて、忠誠が誓われていました。
聖書時代からの形は、(立ち)、手をのばし、手のひらを上に向ける形です。神が与えてくださるものを受ける形です。聖公会では、司式者が会衆のために、あるいは会衆を代表して祈る時に、この形が取られています。「わたしが望むのは、男は怒らず争わず、”清い手を上げて”どこででも祈ることです。」(テモテへの手紙Ⅰ2:8)

イスラム教では、この古代からの形が保たれています。福音派では、この形が回復され、賛美、祈りの時に会衆が取る標準的な形になってきているようです(神さまのハグを求め、受ける形と表現されています)。聖公会やローマカトリックでも、主の祈りを唱える時にこの形を取ることを会衆に勧める教会が増えているようです。

司祭が、人やモノに、手を置く、あるいは手をかざすのは、祝福のため、献げるため、あるいは罪の赦しのために、聖霊が働いてくださることを祈る時です。
司祭が、胸の前に合わせている手を開くのは、招きのしるしです。

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礼拝覚書(11)ルブリックにない会衆の所作

By Michinori ManoNo Comments 26 6月

教会の大切な伝統のすべてが祈祷書に記されているわけではありません。慣習はルブリックに書かれていなくても、どうでもよい、意味がない、ということを意味しません。また、明示的に禁じられているのでなければ、禁じられているわけではありません。

所作は、各人の信心の表現であり、各教会で育まれる文化であるので、ルブリック(礼拝細字規定)として細かく指示されていないのです。所作は敬虔を表現するだけに、しないことが不敬虔なことであるかのように感じられることになってリタジーを歪めることにもなりかねないので、その感情を過剰に強調しないように、ということもあるでしょう。

例えば、ご聖体を噛んではいけない、歯を立ててはいけない、と言われることがあります。イエスさまが「わたしの肉に齧りつけ(トローゴー)」(ヨハネ6:54)と言われたのにも関わらずそう言われることがあるのは、ひざまずく姿勢が取られるのと同じく、ご聖体への「恐れ多さ」が強調される結果です。古代教会では、恐れ多さの強調のあまりに、聖餐式は「戦慄の食卓」等とも呼ばれ、聖餐式の回数まで減ることになってしまいました。しかし、そもそも聖餐式は、主の喜びにあずかる式です。「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるため」と言われ、自らを与えてくださったイエス・キリストの御体にあずかるのです。恐れ多さを覚えるのは当然だとしても、そのあまりに喜びを感じられないとしたら、それどころか間違いを起こしてはならない、といった意識に囚われるのなら、何の式だか分からないことになってしまいます。

では、所作はどうして大切なのでしょうか。パウロは、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と言いました(ローマの信徒への手紙10:9)。心で信じているから言い表す必要はない、ということはないのです。わたしたちの信仰は、わたしたちを世に派遣する信仰です。だから、わたしたちは、口で、身体で、言い表すのです。

「『身体とは、親なる神の愛と子なる人の魂がふれあう場所である』という言い方も可能かもしれません。人はその身体で神の愛を受け止め、その身体で神に賛美と感謝をささげているということです。」(『十字を切る』晴佐久昌英, 女子パウロ会)

※ プロテスタントは所作を迷信的な行為と見るような感覚を持つに至っていますが、ルターは『小教理問答書』で、十字を切ることを勧めています。「朝、起きたらすぐに、聖なる十字架のしるしによって自分自身を祝福し、次のように言いましょう。『父、子、聖霊なる神さまのみ心がなされますように。アーメン』。それから、ひずまずいても立ったままでもよいですから、使徒信経を述べ、主の祈りを唱えなさい。」

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礼拝覚書(10)ルブリックが指示する所作・姿勢

By Michinori ManoNo Comments 24 6月

キリスト教の礼拝(リタジー)は、生きたキリストの現存の祝祭です。同時に、キリストによって新しくされた生の在り方を<しるし>として表すものです。このことに、礼拝でとる所作・姿勢の必然と意味があります。それは霊的な姿勢として、またしるしとして意味があるのであって、身体的な動作自体に意味があるのではありません。

所作・姿勢には、祈祷書のルブリックで指示されているものと、指示されていないものがあります。

所作は次第に増え、リタジーを混乱させ、その構成・均衡・意味を歪めてしまうものです。そのため、英国教会で第一祈祷書がつくられた時(1559年)、信心を表す所作は徹底して削られ、ただし各人がそれをするのはかまわないとされました。

「立つ」「着席する」「ひざまずく」等はルブリックで指示されています。これらは、礼拝者がリタジーで取るべき姿勢です。

「立つ」:立つのが、礼拝の基本姿勢です。わたしたちはキリストと共に立たせられた者であるからです。わたしたちは聖霊を受けて、神の民としてみ前に立ち、主の祭司として主とすべての人々に仕えるのです。なお、福音書の朗読の時は、「一同立つ」に加えて「一同福音書の方を向く」と指示されていることに注意してください。わたしたちは福音を神の言葉として聞き、教会の内に受け止めるのです。

「着席する」:日課の朗読、説教を聞く時、また朗読の合間の詩篇交唱の時に着席します。立ったままでは大変だから、ということではなくて、わたしたちは耳を傾けます、ということを表現しています。なお、聖書の時代は「立つ」のが、祈り、傾聴、服従の姿勢でした。聖堂には、中世末期まで、椅子は、病気や高齢の人の席、司式者・補式者の席として置かれていただけでした。その後、西方教会では椅子が置かれるようになりますが、長椅子が置かれるようになったのは16世紀以後のことです。

「ひざまずく」:懺悔、告白の時、嘆願の時にひざまずきます。元来は奴隷が主人に対する時にした姿勢で、主である神の前に謙遜に従う表現です。なお、感謝聖別祷が唱えられる時(祈祷書172頁以後)ひざまずきますが、それは中世半ば以後に広まった信心表現の名残りで、本来は立つのがふさわしいのです。英国教会でもローマ・カトリックでも既に改められています。

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礼拝覚書(9) ルブリック(礼拝細字規定)

By Michinori ManoNo Comments 16 6月

聖ヒッポリュトスは紀元215年頃に『使徒伝承』を著しました。彼は、「よく教えを受けた者が、わたしたちの説明に耳を傾け、現在まで受け継がれてきた伝承を守り、理解し、確信が持てるようにするために、わたしたちは教会の認める伝承の真髄に、諸聖徒への愛に促されて触れていこう」と述べて、礼拝の心得、組織、所作、祈りの言葉を記しています。

わたしたちの用いている祈祷書は、いわばその『使徒伝承』の系譜を引くもので、単なる礼拝式文集ではなく、教会の在り方を教えるものです。『使徒伝承』には、祈祷文の他に、例えば、「教えを受けるために、連れてこられた人の携わっている仕事と職業について調べられる。…権力のもとにある兵士は人を殺してはならない。人を殺すように命令されても実行してはならないし、誓ってもならない。もし、これを望まないなら、退けられる」というように、具体的な指示が記されています。このような指示は後に赤インクで筆写あるいは印刷されるようになって、ルブリックと呼ばれるようになりました。日本語では「礼拝細字規定」と呼びます(カトリックではルブリカ=典礼注記)。わたしたちの祈祷書では、それは小文字で記されています。

「私たちが、ルブリックに従い、教会の伝統的な作法や慣行によって、共に礼拝する事により、祈祷書は、ただ一冊の書物であることから、私たちの教会の、生きた礼拝の書となります。」(『信徒ハンドブック』, 日本聖公会教務院編, 1968)

各式の冒頭に置かれたルブリックには、その式の意味や心得が記されています。朝夕の礼拝(p.18)、嘆願(p.98)、聖餐式(p.159-161)、教会問答(p.258)、入信の式(p.268)、個人懺悔(p.298)、聖婚式(p.300)、誕生感謝の祈り(p.317)、病人訪問の式(p.323)、葬送の式(p.346)等で記されていることは、信徒に向けて書かれていることですから、読んでおくようにしましょう。ルブリックだけでなく、折にふれ、本文を読むことも大切なことです。

「歌いまたは唱える」等、具体的な指示を内容とする式中のルブリックは、改めて目に留める必要を感じないかもしれません。しかし、礼拝は決まった形を繰り返せばよいというものではありません。それが生きた祈りとなるように、その教会の現実の中で常に新たに解釈され、実践されなければならないものです。それは司祭の仕事だと思われるかもしれませんが、司祭は会衆の理解がなければ変えられないものです。ルブリックの部分にも関心を持ってくださればと思います。

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礼拝覚書(8) 礼拝の「決まりごと」

By Michinori ManoNo Comments 9 6月

祈祷書は、ひとりひとりの信仰生活にとって大切なものである、というだけでなく、共同体の礼拝を整えるための定めが記されている書でもあります。

英国で最初の祈祷書が作られた時、同一国内では同一の祈祷書を用いるべきであり、「儀式の中のあるものを取捨選択すること自体は小事に過ぎないが、教会の共同の秩序規律を正当な手続き、権威によらずに個人が勝手に変えるのは神の前に大きな違反である」とされました。祈祷書は、国王と国会によって承認され、礼拝統一法によって、その使用が義務づけられました。

礼拝は、唱える言葉だけでなく、聖堂の作りや装飾、聖職や信徒の所作、祭具やその用い方等々、様々な要素から成っています。その中で何か「違う!」と思わされることがあると、思いがけず深刻な紛争になることがあります。そういう時は、そもそも何が定められていることなのか、何が慣習に属することなのか、ということをわきまえる必要があります。

礼拝についての定めは、祈祷書に記されていることが全てです。聖公会手帳、カレンダー、教会歴・日課表など、便宜のために広く参照されているものがありますが、それらに書かれていることは必ずしも「定められていること」ではありません。

例えば、祭色は、手帳やカレンダーに書かれていますが、祈祷書では定められていません。祭色は礼拝の意向によって決まります。礼拝の意向は祈祷書の定める教会暦・日課表でほぼ決まりますので、実際には使われる祭色がそんなにばらつくことはありませんが、選択が分かれうる日もあります。例えば顕現節は、日本聖公会では、慣習的に、顕現日までは白、その後は緑、ただし顕現後第1主日・主イエス洗礼の日と被献日は白ということになっていますが、英国教会では、そのようにしている教会もあれば、伝統に従って被献日まではずっと白を使う教会もある、というように、必ずしも統一されていません。

ロウソク、鐘、花、祭服、香、聖水の使用についても、日本聖公会の祈祷書では定められていません。何か別の書物に礼拝に関する決まり事が書かれているということはありません(組織・運営については『日本聖公会法憲法規』で定められています)。これらは、すべて慣習に属することです。慣習は、多様性があって、それぞれに意味、歴史があるものですが、どれが正しいということは言えないものです。そのような事柄について意見が分かれた時には、そもそも祈祷書が作られた目的のひとつは、宗教的対立に解決を与えるためであった、ということを思い起こす必要があります。祈祷書で定められていないこと、慣習に属することについて、自分の正しさを主張することは、聖公会の精神に反するのです。

慣習に属することについては、その教会の司祭が、信徒が慣れ親しんできた形を踏まえつつ、礼拝の意向、典礼の神学等を踏まえて決定すべきことです。

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礼拝覚書(7) 祈祷書の大切さ

By Michinori ManoNo Comments 2 6月

祈祷書を開いた最初のページに何と書かれているかご存知でしょうか。「本書は原本と相違ないことを証明する。祈祷書等検査委委員」とあります。森紀旦主教は『マラナ・タ – 楽しい「日本聖公会祈祷書」入門』で、この文言に注意を促して、「原本と違っている祈祷書が全国的に広がっていること、つまり“その教会独自のコピーによる聖餐式文”を嘆きたいのである」と述べられました。便利なのに、どうしてでしょうか?

森主教は、そのエッセイでは、せっかくその時々に用いる言葉をふさわしく選べるよう工夫されているのに、その教会で使わない選択肢が削除されてしまっていることを特に嘆かれたのでしたが、コピーを使うことで祈祷書を手にしなくなることのもたらす弊害はそれだけではありません。

祈祷書を大切にしたい第一の理由は、それが単なる礼拝式文集ではなく、信仰生活に具体的な指針と目に見える秩序を与えてくれるものだからです。祈祷書は、「ゆりかごから墓場まで、神のみもとに至る旅路が、イエス・キリストを中心にして展開されているもの」であって、「それに従う新生のリズムに躍動する生活において、恵みから恵みへと導かれてゆく」のです。ですから、たとえ礼拝ではチャントの曲譜を参照する必要等からコピーを使うとしても、祈祷書は聖書と共に常に手もとに置き、親しむべきなのです。

第二の理由は、祈祷書は、聖書と切り離せない関係にあるものだからです。英国教会で祈祷書が作成された時に、その意図として最も強調されたのは、聖書の言葉に養われた信仰生活をできるようにする、ということでした。そのために一年で聖書の大部分を読めるように教会暦と日課が整備されました。また、もっと根本的なこととして、そもそも聖書はつねに伝統に照らして、すなわち礼拝で経験されるものに解釈の鍵を与えられて読まれてきたのであり、その伝統を教えるのが祈祷書である、ということがあります。古代教父エイレナイオスは「われわれの教えはわれわれが聖餐において行っていることと一致しており、聖餐の祝いはわれわれが教えることを確立する」と述べています。

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礼拝覚書(6) ロウソク

By Michinori ManoNo Comments 23 5月

ロウソクに火を灯すことは、礼拝に必須の行為でしょうか?それは、どんな意味があるのでしょうか?

ロウソクについての指示は、日本聖公会の祈祷書のルブリックになく、慣習に属します。鐘を鳴らすことや祭壇の近くに花を飾ることと同様で、ロウソクはなくてもよいのです。米国でも同様です。英国では、1547年にエドワード六世が「キリストが世の真の光であること」を示すために祭壇に2本のロウソクを灯すように命じて以来、それが基本とされています。日本聖公会ではそれを慣習として継承しています。

甲府聖オーガスチン教会では、祭壇のロウソクは、礼拝の5分前に灯され、後奏の間に消されます。ふさわしい心構えで礼拝に臨むには、礼拝開始の遅くとも15分前には準備に入るのが望ましく、5分前にロウソクが灯された時には、すべて準備が整っているようにしましょう。また、礼拝後も、ロウソクが消されるまでは沈黙して席に座っているようにしましょう。

ちなみに、ローマ・カトリックには、司教司式の盛儀ミサでは7本、荘厳ミサでは6本、盛式ミサでは4本あるいは6本、読唱ミサでは4本あるいは2本、司祭が司式するミサでは2本…という伝統がありますが、それは聖公会の伝統ではありません。しかし、19世紀に典礼の伝統を復興しようとする流れが起こって、一部の教会はローマ・カトリックに倣うようになりました。他方、それに対する強い反発も起こり、ロウソクの使用自体を禁止すべきであるという議論もされましたが、決議には至りませんでした。また、ローマ・カトリックには、蝋はキリストの体/人性を、芯はキリストの魂を、炎はキリストの神性を表すので、蜜蝋を使わなければいけない、という規則もありますが、元々は獣脂でできた安い蝋は悪臭を放つために禁じられたことに由来する規則です。

ロウソクは明かりとしての実際的な必要から使われ始め、教会は当初典礼的な意味を込めての使用には慎重でした。異教の祭儀で広く用いられていたため、宗教の混淆を恐れたのでしょう。しかし、古代末期には、東方教会では、明かりの必要がなくても、福音書が読まれる時には「喜びの目に見えるしるし」として灯火を点すようになっていました。西方教会で、祭壇にロウソクが置かれるようになったのは12世紀ですが、「神の臨在を象徴する」、「玉座たる祭壇から輝き出て、そのみ前に集った民を照らす光であるキリストを象徴する」、「『世の光』であるキリストを象徴する」、「み言葉の朗読によって『照らし』を受けることを象徴する」、「神のみ前に立ち上る会衆の祈りを象徴する」といった理解があります。聖餐式は喜びの祝祭であるから点すのだ、という理解もあります。

また、祭壇の2本のロウソクを、ゴスペルキャンドル(左側)、エピッスルキャンドル(右側)と呼び、点灯は右から左の順で、消灯はその逆順で、という伝統があります。このように点灯、消灯すると、ゴスペルキャンドルが1本だけ点されている状態になりませんが、それは、福音書は使徒書や旧約聖書と共に成立するもので、単体では成立しないことを象徴すると言われます。

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礼拝覚書(5) 鐘

By Michinori ManoNo Comments 16 5月

教会の鐘は、何のために鳴らすのでしょうか。礼拝が始まります!と知らせているのでしょうか。鐘の音が聞こえたら、礼拝堂に向かえばよいのでしょうか。それとも?

鐘の使用は慣習に属することで、一般的な定めはありませんが、現在は大きく分けて二つの目的で鳴らされます。第一の目的は、予鈴として、礼拝の開始が近いことを知らせ、聖堂に会衆を呼び集めるため。第二の目的は、本鈴として、また、それぞれの場で祈りをささげることができるように、祈りの時を知らせるためです。他にも昔は地域共同体に関わる様々なことを伝達するために用いられていました。

第一の目的では、英国では、教会区(パリッシュ/小教区)の信者が家から聖堂まで歩くのに必要な時間を見て、大体30分前に鐘が鳴らされます。日本では、信者は必ずしも所属教会の近辺に住んでいませんから、礼拝開始の5分前、あるいは10分前に予鈴が鳴らされることが多いようです。

第二の目的では、礼拝式のタイミングで鐘が鳴らされます。主日礼拝の開始時は、イエスさまの地上でのご生涯の年数分(33回)、鐘が鳴らされます。葬送式の開始時は、逝去者の生涯の年数分が鳴らされます。キャンドルマス(被献日の燭火礼拝)や棕櫚の日曜日の行列の間、鐘を鳴らす伝統もあります。礼拝中、例えば主の祈りをささげるタイミングで鳴らす伝統を持つ教会もあります。仕事等で礼拝に出席できない人が共に祈れるようにするためです。聖堂内で、元々は礼拝で使われるラテン語が分からない会衆が祈りや賛美を唱えたり、十字を切ったりするタイミングが分かるようにすることが目的であった、サンクトゥス・ベルを鳴らす慣習を残している教会もあります(※カトリックでは廃止)。

また、それぞれの人が自分のいる場所で定時の祈り(主の祈り、あるいはアンジェラスの祈り)をささげることができるように鐘が鳴らされます。朝6時、昼12時、夕6時が聖書時代からの伝統ですが、日本聖公会では朝夕の礼拝開始の時間に鳴らされています。

甲府聖オーガスチン教会では、予鈴ではなく、本鈴として、鐘が鳴らされています。鐘が鳴るのと共に戸が開かれ、わたしたちは神の家に入っていく(しかし、戸というものは開け放しにはされないものです!)、そういう心構えを持ちましょう。

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礼拝覚書(4) 主の祭司として

By Michinori ManoNo Comments 9 5月

世に対する公の奉仕である礼拝、わたしたちはそれを何者として為すのでしょうか。

聖餐式をささげる時、わたしたちは感謝の祈りの中で、そのことを言い表します。「父は、み子を人として生まれさせ、十字架の死と復活によって、わたしたちを罪の鎖から解放し、み子をご自身の右に挙げられました。そして聖霊を送り、わたしたちを神の民としてみ前に立たせ、主の祭司として主とすべての人々に仕えさせてくださいます。」(感謝聖別文Ⅰ, 祈祷書 p.173)

これはヨハネの黙示録で言われていることです(復活節第三主日の日課)。「…あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。」(5:9-10)

わたしたちは、主の祭司として礼拝をささげるのです。そのことに信徒、聖職の区別はありません。男、女の区別もありません。

そもそも人は「祭司」として創造されました。神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた、と創世記にあります(2:19 ※これは「人」が男と女に分けられる前のことです)。「名付けるとは、そのものに代わり、またそのものの内に神を賛美すること」です。それは祭司の働きに他なりません。人は、本来、すべていのちあるものの祭司なのです。

「彼/彼女はこの世の中心に立ち、神を賛美し、神からこの世を受け取り、そして受け取ったこの世を神に献げるという両方向の行為を通じてこの世をひとつにします。そして、この世を感謝で満たし、この世から受け取った彼/彼女自身のいのちを神の内にあるいのちに、神との交わりに変容します。…人はこの宇宙的なサクラメントの祭司なのです。」

モノ、ワタシ、それ自体に価値を見、それ自体を目的とする生き方(偶像を崇拜する生き方)に堕落して神から離れ、祭司としての在り方を放棄していた私たちは、十字架において人の本来の在り方を回復されたキリストの霊を受けて、祭司としての在り方を回復され、礼拝をささげるのです。

※ 引用は『世のいのちのために』(アレクサンドル・シュメーマン, 新教出版社)から。文意を変えない範囲で語句を若干修正しています。

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礼拝覚書(3) ふさわしい服装

By Michinori ManoNo Comments 30 4月

さあ今日は主の家で宴です。どんな「服装」で参加しますか?主はふさわしくない「服装」をしている人を見つけて言われます。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか。」そして側近の者たちに言われます。「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ 22:8-14)

ふさわしくない服装とは、「滅びに向かっている古い人」のこと(エフェソ4:22)。ふさわしい服装とは、悔い改めの心のことです。たとえ外見はボロボロの格好をしていても、古い人に死んだわたしを主は遠くから見つけ、駆け寄って来られて、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と言い(ルカ15:11-32)、「神にかたどって造られた新しい人」を着せてくださいます(エフェソ4:24)。

祈祷書の聖餐式のルブリックには、次のように記されています(p.160-161)。

「受聖餐者のうち、明らかに大罪を犯すか、言行で隣り人を害して主の民の交わりを損なった者があれば、司祭はその人に対して、その罪を悔い改め、加えた害を償い、または後に償う決心を明らかにしないときは、陪餐してはならないことを告げなければならない。また、互いに恨みを抱く者があれば、前の規則により、陪餐させてはならない。ただし、一方がその受けた害を赦し、与えた害の償いを明言し、和を求めているのに、他方が、それを受けいれずに恨みを解かないときは、司祭は和を求めている者に陪餐を許し、受けいれないものには許さない。これらの処置をしたとき、司祭は2週間以内に主教に報告する。」

主イエスご自身、「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」とお教えになりました。

ですから、礼拝前、聖堂に入ったら、招いてくださった主に感謝をのべ、また懺悔の祈りをささげましょう。祈祷書143頁~158頁にある「聖餐準備の式」を用いるのもよいでしょう。

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礼拝覚書(2) 参入

By Michinori ManoNo Comments 28 4月

聖餐式の式文を開くと、はじめに「参入」と書かれています。何に参入するのでしょうか?!わたしたちは主に招かれて、主の家に行き、主の喜びに参入します。

それは、礼拝で、形においても表現されます。わたしたちの教会では、普段、初めの聖歌が歌われる中を司祭が入堂します。しかし、かつては、礼拝に参加する人全員が、聖堂の入口で待機し、聖職の先導によって行列で入堂したのです。ベラルーシで見た正教会では現在でもそうでした。日本聖公会でも、棕櫚の日曜日、イースター・ヴィジル(聖土曜日の礼拝)、聖堂聖別式などで、その形が残されています。

家と礼拝所が離れたために、外で集まってから一緒に入堂するということが難しくなったのでしょう。各々聖堂に入って座って待つのが普通になっていますが、わたしたちは主に招かれて、主の家に入るのだ、ということに変わりはありません。それにふさわしい心構えで臨みたいものです。

人の家に招かれて行って、勝手口から入るでしょうか?主人に挨拶もせずに、他の人たちと挨拶、雑談を交わしたりするでしょうか?聖堂には玄関から入って、席に着いたらまず(ひざまずいて十字を切り)招いてくださったことを主である神に感謝しましょう。礼拝前は、他の人に対する挨拶は、目礼だけにしましょう。何か事情があって必要があるならば、会館に行って会話するようにしましょう。

聖餐式は「神の国の次元に入ってゆく教会の旅」です。聖堂に入る時、わたしたちは世から「離脱」します。祭壇に向かって進む行列は、イエス・キリストが世に降られ、十字架と復活に向かって歩まれたことを表します。また、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたその言葉に従って主の後を歩むことを表します。参入の聖歌を、わたしたちは、その行列に加わる者として歌うのです。

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礼拝覚書(1) 礼拝とは

By Michinori ManoNo Comments 20 4月

※甲府聖オーガスチン教会の週報のコラム用に書いたものです。

礼拝とは何でしょうか。祈りをささげることでしょうか。だとすれば、自宅でひとりで祈りをささげても、礼拝したことになるのでしょうか。

礼拝をささげる集まりは、ユダヤ教では10人の出席者がいなければ成立しません。キリスト教では2人の出席者がいなければ成立しません。 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタ18:20)と、イエスさまはお教えになりました。シナゴーグから排除された初代教会のキリスト者にとって、二人または三人がいれば礼拝が成立するという教えは大きな励ましになったことでしょう。

重要なことは、礼拝は、個人の行為ではなく、共同体の行為である、ということです。礼拝は、ギリシア語でレイトゥルギアと言います(英語のリタジー)。レイトゥルギアの語源は、ラオス(共同体を構成する民)のエルゴン(働き、仕事)です。一言でいうと「公共奉仕」です。

ただし、礼拝に先立って、また礼拝と関係なく、それを献げる共同体が既に存在している、というわけではありません。礼拝を通して、初めて、人々の集まりが単なる個人の群れではなくて、ひとつの共同体へと形成されていくのです。わたしたちは神さまに召し出され、礼拝において「神のエクレシア(民会)=“教会”」になるのです。

そして、礼拝は、それ自体が、この世に対してキリストとそのみ国を証しする奉仕であって、それゆえにレイトゥルギアと呼ばれます。礼拝は、この世と関係のない、集まった者たちが行う私的行為ではないのです。また、礼拝の中で個人に割り当てられる役割を為すことや、礼拝以外にする諸々のことばかりが奉仕なのではありません。礼拝に参加すること自体がもっとも大切な奉仕なのです。

主の喜びに入り、その証人になること、それが礼拝であって、奉仕の本質です。

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聖書協会共同訳が届いた!

By Michinori ManoNo Comments 8 12月

聖書協会共同訳が届いたので、早速長坂での聖書勉強会で使いました。今のところ、なかなか好印象です!…ソフトバンクの接続障害ひどいです。

眞野 玄範さんの投稿 2018年12月5日水曜日
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南スーダンのために…

By Michinori ManoNo Comments 9 8月

日曜日、長坂聖マリヤ教会の第31回平和記念講演会で、日本国際ボランティアセンター(JVC)の清水俊弘さんから南スーダンの話をお聞きしました。講演後の質疑で、なぜ日本は難民を受けれいないのか、という問いに対して、清水さんは、地域として難民を受け入れる運動が起こらなければ日本政府は動かないだろう、例えば、この長坂聖マリヤ教会がそういう取り組みをするということがなければ…ということをドイツの例を引きながら話してくださいました。お聞きしていて、自分は難民受け入れを国の問題として考えるばかりで、自分たち自身が迎え入れ、共に生きていくということを現実的な可能性として考えていなかったと気づかされました。

そんな今日、ジャスティン・ウェルビー カンタベリー大主教が南スーダン人難民キャンプの訪問で考えたことを書かれていたので翻訳しました。

家に戻って、スーダンとウガンダでのつらくも素晴らしい数日間を振り返っています。

最後の日は、北ウガンダにある2つの難民キャンプ、ベラメリングとミリエイで過ごしました。そこには20万人の難民がいます。ほとんど全員が南スーダンから逃れてきた人たちです。ウガンダにいる南スーダン人難民の数は100万人に達しました。着の身着のままで国境を越えて文字通り命がけで逃げてきた人々に会いました。 (さらに…)

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Sabeel Christmas Message 2016

By Michinori ManoNo Comments 10 12月

サビール・クリスマス・メッセージ 2016

いと高きところには神に栄光が、地には平和があって、人には慈しみが示されますように。

親しき友人たちへ

クリスマスは喜びの時です。日々の生活の悲しみや困難の只中にあって、わたしたちにはクリスマスの心が必要です。クリスマスのよき知らせと明るさが必要です。イエス・キリストの誕生は喜びと希望を与えます。「あなたに生まれます。救いをあたえる者、油注がれし者、主が。」わたしたちが日々の困難を切り抜けていくことができるように、クリスマスはつねにわたしたちを回復させ、新たにしてくれます。

しかし、クリスマスの物語は、また、トラウマと悲劇に満ちたものでもあります。幼子キリストの美しさと無垢さと共に、ヘロデのわがままと残酷さ、権力を持つ人々の冷淡さが語られているのです。

このアドベントにクリスマスの物語を読み、そこから何を学ぶことができるでしょうか。 (さらに…)

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クリスマス・イブのお話

By Michinori ManoNo Comments 28 12月

とんとん。旅装束の若い夫婦が戸をたたきました。しかし、その家は飲めや歌えやの大騒ぎで、何度戸を叩かれても誰も気がつきませんでした。

どこの家も客を迎えて賑わっていました。ふたりはこの町の親戚とは縁遠くて、頼れる家がありませんでした。妻は身ごもっていて、野宿するわけにもいきませんでした。そこで町中の家々を宿を求めて訪ねまわっていたのでした。

この時代、お金を払って泊まるような宿は、数多くありませんでした。そのような宿があっても、しばしばいかがわしい商売の場所になっていたこともあって、旅人が見知らぬ人の家に宿を求めることは普通のことでした。それに、その昔、信仰の父アブラハムが見知らぬ旅人を迎え入れ、気づかずに天使をもてなしたことが、人々の生活の規範になっていました。見知らぬ旅人をよき知らせをもたらす天使を迎えるようにして歓待する慣習があったのです。

しかし、その日、若い夫婦を迎え入れる家は、なかなか見つかりませんでした。 (さらに…)

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パレスチナ・イスラエルのための世界平和週間(2015/9/20-26) 式文

By Michinori ManoNo Comments 12 9月

※ 印刷用PDF http://anglican.jp/nagasaka/programs/WWPPI2015_liturgy.pdf

◆招きの言葉

司式者:わたしたちはここに、神の民としていのちを祝うために集まっています。日々の生活において神が共にいてくださることを感謝するために集まっています。神の民のために祈りを献げるために集まっています。人々を引き離し、交わりを壊し、生活、共同体を引き裂くあらゆる壁に、心と思いを向けましょう。石でできている壁もあれば、反移民法、偏見、経済的不正義、恐れによってできている壁もあります。本日は、ことに、パレスチナの人々を家族、友人、耕地、同胞から引き離している恥ずべき壁について省みましょう。心と思いを開き、「平和をつくる者になりなさい」「和解を呼びかけ、助ける者となりなさい」という神の呼びかけを聞きましょう。すべての不公正、不正義の克服を約束しておられる正義の神への希望と信仰を表しましょう。不公正、不正義なるイスラエルの分離壁が壊されることへの希望を、そのための献身を、言い表しましょう。 (さらに…)

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クリスマスの慣習

By Michinori ManoNo Comments 7 4月

※ 長坂聖マリヤ教会 週報のコラムとして書いたもの(2014/11/30,12/7,12/14,12/21,12/28, 2015/1/4), 2015/12/8改訂

○ 飼い葉桶(クリッペ/クリブ)の展示

クリッペは、飼い葉桶とそこに眠るキリスト、マリアとヨセフ、天使、羊飼い、東方からの学者、家畜たちのセットです。

この慣習は古代教会にまで遡るようですが、現在のような形になったのは13世紀頃で、イエスの歴史的、人間的な詳細への関心が高まったことが背景にあったようです。 (さらに…)

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教会委員の心得

By Michinori ManoNo Comments 10 1月

長坂聖マリヤ教会の週報(1/25, 2/1)のコラムとして書いたものです。

1)神からの召しとして、受けとめること (さらに…)

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