Archive for the ‘キリスト教’ Category

礼拝覚書(27) 説教(2)

By Michinori ManoNo Comments 25 10月

「説教」は、聖書では以下のような複数の異なる意味合いの語で言い表されています。

○預言する:使徒書簡では「預言」という言葉が、神から霊感を受けて、宣言する、説教する、説明する、という意味でしばしば使われています。 この人(“例の七人の一人である福音宣教者”フィリポ)には預言する四人の娘がいた。」(使徒言行録21:9)

○証しする(マルチュレオー):生き方/人生そのものから言葉を発することです。プロテスタント教会では「証し」が「神からいただいたと感じる恵みや導きを語ること」と理解され、しばしば証しとして「特別な経験」が語られます。超教派の集い等で聖公会の信徒が「証し」に対して違和感を持つのは、そういうプロテスタント教会の特殊な文化に対してであろうと思います。本来、証しとは、信仰者として生きる中で発する言葉のことを言います。それ故、信仰者としての生き様そのものを意味するようになり、この語から殉教を意味する語が派生しました。「この人(洗礼者ヨハネ)は証しのために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるものとなるためである。」(ヨハネ1:6)「私(パウロ)は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきました」(使徒言行録26:22)

○宣言する(ケーリュッソー (名)ケリュグマ):神の救済の出来事を宣言すること。十字架につけられたキリストを宣べ伝えること(Ⅰコリ1:23)。それ故、「宣べ伝える」ということは、ただ神の戒めを列挙することではなく、宣べ伝える者と聞く者とを能動的な実行の中に引き入れる出来事となります。

○教える(ディダスコー (名)ディダケー):キリスト教信仰を説明すること、キリスト教的生活や考えについて説くこと。「あなたがたが説いているこの新しい<教え>がどんなものか、知らせてもらえないか」(使徒言行録17:19)「彼らは、使徒の<教え>、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒言行録2:42)

○勧める(パラカレオー (名)パラクレーシス):「彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に<励ましを得る>ためなのです」(エフェソの信徒への手紙6:22)、「<勧告をし>、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました」(ペトロの手紙Ⅰ5:12)「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。…そこで、あなたがたに<勧めます>。わたしに倣う者になりなさい」(コリントの信徒への手紙Ⅰ4:16)

「説教」は(「勧話」も)すべて預言であり、証しに基礎づけられ、宣言、教え、勧めとして語られるもの、と言えるかと思います。

more

礼拝覚書(26) 説教(1)

By Michinori ManoNo Comments 22 10月

日本聖公会では「説教」を行えるのは聖職のみとされています。執事按手式の結びで、主教は「これはキリストの福音を宣べ、み言葉に従って神と人とに仕えるために、神があなたに与えられた権威のしるしです」と言い、新たに按手された者に新約聖書を渡します。「説教は神の言葉をこの世界に伝達する教会の公式な宣言」なので、この権威を与えられた者にのみ許されているのです(黒田裕,『今さら聞けない!?キリスト教II』, 教文館, 2018)。

「み言葉の礼拝」の式文で、ルブリックに「勧話または説教をする。あるいは勧話または説教にかえて、当日のみ言葉を分かち合ってもよい」とあるのは、この理解を前提に、信徒が話をする場合、それは「勧話」と呼ばれ、執事が話をする場合、それは「説教」と呼ばれるためです。「勧話」は「奨励」「感話」とも呼ばれ、新約聖書で言われるところの「パラクレーシス(勧め)」にあたります。

ちなみに、プロテスタント教会では、信徒が礼拝、集会で話をすることを、「証(あかし)」「証詞(あかし)」「証言(あかし)」「立証」等と呼びますが、これは新約聖書で言われるところの「マルチュレオー(告白、証し)」にあたります。

しかし、実は「説教」「勧話」という用語の区別は、日本だけでの話で、英国、米国の聖公会で礼拝で信徒が話をする場合、それは日本語にすれば「説教」である「プリーチング(preaching)」という言葉で呼ばれます。礼拝の要素としては「サーモン(sermon)」という言葉で呼ばれます。

プリーチの原語のプレディカチオ(Praedicatio)は、人々の前で公に事柄を告げることを意味する語で、新約聖書で使われているケーリュッソーに近い意味合いの語です。ケーリュッソーとは、神の救済の出来事を宣言することです。ローマ・カトリックでは、プレディカチオは、ミサとは別に為される聖書テキストに束縛されない説教を指す語で、ミサの中で為される聖書日課の講解を行う説教はホミーリア(Homilia)あるいはセルモ(Sermo 英語のサーモン)と呼ばれます。

信徒説教者のことを、英国聖公会では”Occasional Preacher”、米国聖公会では”Lay Preacher”と呼んでいますが、いずれも牧師によって推薦され、主教によって認可(米国)/許可(英国)された人で、法規、指針に従って訓練、試験を受けていることが前提になっています。「説教」「勧話」と呼称を分けるのは本質的でなく、朗読の場合と同じく、聖職であろうと信徒であろうと、神から教会に委託された奉仕を十全に行えるように教会によって整えられていることが必要であって、行うことは同じである、と考えるべきでしょう。「自分なりの」理解を説いてみせる者であってはならない、ということです。

more

礼拝覚書(25) 歌う(3)

By Michinori ManoNo Comments 15 10月

なぜ礼拝は歌われるものなのか、という問いに、正面から取り組んで書かれたカスリーン・ハーモンの著作『人は何を祝い、なぜ歌うのか – 典礼音楽の神学的考察』(2008)が6年前に邦訳されています(訳:菊池泰子・榊原芙美子,  聖公会出版)。

礼拝で、わたしたちは改めて自らに出会い、また自らの本来あるべき姿に出会うこと。歌うことは、それを促すものであるゆえに本質的な構成要素であるということが丁寧に論じられています。礼拝についての理解をリフレッシュしてくれる議論ですので、抜き書きをご紹介します。

○「そこ(儀式)に集められた共同体は、そこに存在するものとして神に、またお互いに出会う。典礼が、このように各個人の存在同士を出会わせる場となるためには、メンバーは物理的にそこに存在し、またその場に意識を集中させていなければならない。歌うことはそのような意識性を引き起こす。

「私たちが…儀式に参与するときには、罪、怠惰、自己陶酔、不承不承を心に抱えている<にもかかわらず>参与するのではなく、まさにそれらを持つ<ゆえに>参与できる。それらの抵抗は、典礼における共同の歌唱によって、私たちがが儀式へ身を委ねるための基礎となる。歌唱を通じて…私たちは他者に対してよりはっきりと存在するようになるごとく、自分自身にとってもより確かな存在となるのである。…ジョン・ウェスレーはこのことを熟知した上で、会衆に次のように説教している。『すべてを歌いなさい。できるだけ頻繁に会衆と一緒になってごらんなさい。ほんの少しの弱さや退屈も妨げとならないようにしなさい。もしそれがあなたによっての十字架なら、それを手に取りなさい。そうすれば、それが祝福であることを見いだすでしょう。』

○「私たちが経験する二番目の抵抗は、時間が私たちの中に引き起こす変化に対するものである。…私たちには過去へ根付いている部分があり、また未来へ向かう契機を持っており、その上で現在行われている典礼の契機である<今・ここ>において過去・未来の両方に出会うのだが、しかし生来の衝動から<今・ここ>の要求から逃れることによって時間の力に抵抗しようとする。

「私たちは典礼歌唱によって、クリスチャンの存在と自己認識の一番奥にある層の、正に最も重要な地点へと踏み込むのである。つまり、それは、人として存在せよという神の召命の力と、それに対する人間の抵抗の葛藤であり、言葉を換えれば、キリストの体を自己の本質として認識しようとする力と、自己以外のものを中心とする共同体に入ることに対する抵抗との葛藤であり、さらに言えば、変容をもたらす恩寵の力と、変化を拒む私たちの抵抗との間の葛藤である。共同の典礼歌唱は、正にこれらの抵抗を利用することによって、私たちが儀式的行為に身を委ねることを容易にする。

more

礼拝覚書(24) 歌う(2)

By Michinori ManoNo Comments 8 10月

旧約聖書の朗唱は、紀元直後の数世紀間に制度化されました。タルムードには、「旧約聖書は公けに読まれ、音楽的な甘美な調べで聴者に理解さるべきである。調べなしで『モーセ五書』を読むのは、聖書とその法則の必須の価値を無視しているのである。深い理解は律法を歌うことによってのみ達成されうる。旧約聖書を世俗歌の様式で吟唱することは律法を乱用することである」とあります。

それはヘブライ語の文章のアクセント化の原理に厳格に基づくものでした。音域は狭く、装飾的な動きも制限されていましたが、これは旋律がことばを妨げないためにとられた故意の手段でした。旋律型(モチーフ)は、聖書の文章のひとつひとつの語にそれぞれ付けられました(ひとつの語=ひとつの旋律型)。「旋律は絶対的にことばに支配される」という朗唱の鉄則によるものでした。(※以上、『ユダヤ民族音楽史』水野信男, 六興出版, 1980 による)

キリスト教は、この「言葉によって」というユダヤの典礼の本質と音楽の伝統を継承して、「サルモディックな歌~詩篇、聖書、祈祷の旋律的かつリズミカルな音楽的な読み/音節的な唱法(シラビック)」を基本としつつ、これもまたユダヤの伝統にあった母音唱法(メリスマティック)、すなわちメロディが言葉に優先される形式の歌を所々に入れる礼拝を形成しました。「メリスマティックな歌は、超越的な現実との接触、“神の国”の超自然的現実性への参入の体験を表現している。…その代表がアリルイヤの歌であった。」(『ユーカリスト』シュメーマン)

やがて、キリスト教の典礼では音楽とテクストが緊密な相互関係を持つより知的に作られた聖歌が生まれ、また詩篇、聖書、祈祷の読みもメリマスティックになっていき、プレーンソング(グレゴリアンチャント)として8~9世紀に形が整えられました。プレーンソングはポリフォニーの発達につれて衰退しましたが、イギリスの宗教改革で復興され、アングリカン・チャントとして18世紀までに確立されて、聖公会の教会音楽を特徴付けるものとなりました。

アングリカン・チャントは、古代の典礼の原則を回復して、言葉をメロディーよりも優先し、言葉自体が持つ自然なリズムで朗唱します。曲譜の音符はリズムを決めるものでなく、音の高さだけを示します。ですから、テキストを声にだして普通に読むことが、チャントの練習になります。単語の途中で切ったり、形容する単語と形容される単語の間で切ったりしません。また、よくありがちですが、音が動く前のところで切ったり、音が動くところでゆっくり歌ったり、長い文節をはやく歌ったりしません。普通に朗読する時と同じように、一定のペースが保たれなければなりません。

more

礼拝覚書(23) 歌う(1)

By Michinori ManoNo Comments 26 9月

聖餐式の式文にルブリックで「歌いまたは唱える」と指示されている箇所があります。ルブリックでは、それを用いるのがより望ましい選択肢を先に書くことになっています。唱えるよりも歌う方が望ましいのです。何故でしょうか。

「礼拝を歌うことも古来からの慣習で、歌わない礼拝は中世期に西部の教会で始められたのです。古来の伝統を守っているギリシア系の教会では、今日でもすべての礼拝を歌っています。信者がみな歌える譜によって礼拝するとき、心を合わせ、声を合わせて礼拝することができます。礼拝は神にささげるもので、ただ礼拝者の気持ちを満足させるものであってはならないのです。」(『公会の慣習とシンボル』ヨハネ修士会,)

「“キリスト教は歌の中で生まれた”、また“古代の人々にとって語ることと歌うことは結びついていた”とエドワード・フォリーはその独特の名著『フロム・エイジ・トゥ・エイジ』の中で言い、音楽学者ゲオルギアーデスは初期キリスト教礼拝の中で言葉と音楽が切り離しがたいものとして結びついた時が、西洋音楽の生誕の瞬間であると述べる。共同礼拝という性格が、主観的色彩を超えた、音楽的に固定された朗唱をどうしても必要としたのだというのが、その理由である。」(『礼拝学日記』, 加藤博道, 聖公会出版)

礼拝は共同体としてささげるものであるがゆえに<歌う>ことが要請されるのです。

さらに、前回のコラムで書いたように、そもそも言葉は<ルーアッハ(霊/風/息)>によって<いのちを与えられる/意味を与えられる>ものであって、<ルーアッハ>はリズムや抑揚を持つものであるがゆえに、言葉は歌われるときにもっともよく言葉となるものだから、ということも言えるのではないかと思います。創世記の第1章2節に「地は混沌として、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。「動いていた」と訳されている語は、鳥が羽ばたく動作を表します。霊は律動を与えて、いのちをあらしめるのです。
「教会の集いの中で成就される“みことばのサクラメント”にあって、聖霊は聖書の“肉体”にいのちを与え、私たちを生かす霊、私たちを生かすいのちに変容します」(『ユーカリスト – 神の国のサクラメント』アレクサンドル・シュメーマン)。祈祷書の文字は聖霊の溢れの中で声に出して歌われて、共同体の内にいのちの言葉として現臨するのです。

「イスラエルの人々は、その食事の前後、あるいは友人を病床に見舞う時、礼拝の時、詩篇と聖書を詠唱した。しかもそれらは地方毎、家族ごとに旋律が異なる等、豊かな多様性を持っていたし、イエスとその弟子たちを含めて、詩篇を唱え、聖書を読むということは歌うことだったのである。」(『礼拝学日記』, 加藤博道, 聖公会出版)

more

礼拝覚書(22) 朗読(3)

By Michinori ManoNo Comments 20 9月

典礼改革で、朗読は<聞く>ものであることが強調されなければならなかったのは、<読むこと>が現代の文化では「文字が目を通して心に語りかけてくる視覚的活動」になっているためです。そのため、朗読を聞くときも目で文字を確認しながらでないと落ち着かないのです。

しかし、<読むこと>は、本来、「口を動かしてその内容を聞き取る活動」です。書物は「自分の声が自分の耳に向かってそれらを歌うがゆえに、わたしの胸の中で鳴り響く」もの、「音を奏でて歌う」ものです。日本語の「読む」という言葉も、「文字の音を唱える。意味を理解する」の意味です(『大辞林』)。インド系の言語でも「読む」と訳される動詞は「音を出す」という意味合いの言葉であり、その同じ動詞が七弦琴を演奏することにも使われます。

音楽がそうであるように朗読も社会的活動です。それは「共同体の意思交換を促進するもの。すなわち、読まれた章句を共通に消化し論評することへと積極的に導くもの」です。礼拝で聖書が朗読され、それを聴くとき、わたしたちは共同体としての活動を為しているのだ、ということを意識したいのです。

また、そうして<読むこと>は、そのまま「意味を理解すること」でもあります。日本語の「読む」もその意味を持っていますが、子音字のみで語を書き記すヘブライ語では「読む」ことはまさにその作業です。書かれた言葉を読むには適切な母音を補って読む必要があり、発音する前にその文の意味を理解しなければならないからです。イヴァン・イリイチがそのことを含蓄に富む言い方で指摘しています。

「ユダヤ人やアラブ人は伝統的に、文字を読む場合、その文字に息ruahを吹き込む解釈作業に従事しています。たとえばruahの場合、三つの子音字が一つの観念を表しているのですが、その三つの子音字に息を吹き込むことによって、骨状のそれらの文字は互いに組み合わさり、この小さなことばはふたたび立ち上がるのです。」

母音は息を吐くことで発音します。ヘブライ語で、その<息>は、神が命を与えるために吹き込まれたものであって、<霊>も意味します。それで、イリイチは、子音に母音を付けて発声する作業である朗読のことを「息を吹き込む解釈作業」であると言い、エゼキエル書37章に重ねて述べているのです。

「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。今、私はあなたがたの中に霊を吹き込む。するとあなたがたは生き返る。私はあなたがたの上に筋を付け、肉を生じさせ、皮膚で覆い、その中に霊を与える。するとあなたがたは生き返る。こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」エゼ37:5-6

聖書の朗読は、生ける神の言葉の語りかけをきくことであって、後で引き出すべき何かを蓄える活動ではないのです。それは神の語りかけを聞いたアブラハムがそうしたように、「より明るい場所へ、つまり光の方へ、そして光の中に向かって行く巡礼の旅なのです。そして、光があまりにも強烈になったときには、もはや読むことをやめ、そこに佇むような、そうした活動なのです。」

(※引用文はすべてイヴァン・イリイチの『シャドウ・ワーク』及び『生きる意味』から)

more

礼拝覚書(21) 朗読(2)

By Michinori ManoNo Comments 13 9月

○ 前回、朗読のとき、「同時に文字を目で追って見るというようなことは、難聴などの補助手段として必要な場合を除いて、なるべく避けるようにします」という土屋吉正神父の注意を紹介しました。

これは旧約聖書、使徒書、福音書、すべての朗読についての注意で、そのため礼拝では読むことを促していると受け取られないように、朗読個所の章・節の指示はしないことになっています。米国聖公会でも、聞くことが困難な場合を除き、朗読を聞きながら目で文字を追うのは望ましくなく、章・節の指示は省く方がよいとしています。

日本聖公会では、旧約聖書、使徒書、福音書のいずれの朗読でも章・節の指示をすることになっていて、「一同福音書の方を向く」福音書のときはともかく、旧約聖書、使徒書では目で文字を追っている方が多いのではないかと思います。しかし、「神が朗読者を通して語られる言葉を、その時、新たに聴くこと」なのですから、聖書日課は事前に読んでおき、礼拝では耳を傾けることに集中するのが望ましいのです。

○ 朗読は、3世紀頃に聖職者の務めのひとつとなり、やがて司祭職の準備段階で与えられる役務として理解されるようになりました。第二バチカン公会議(1962)以後、朗読は信徒の奉仕職として積極的に位置づけられるようになりました。

朗読がかつて聖職者の役務とされていたのは、朗読に朗読者自身の理解が表れるからでしょう。流暢でも、読む人が理解していないと、聞く人も理解できないものです。読む人の理解は抑揚や間の取り方などに自然と表れ、理解が伴わない朗読は無意味な音の連鎖のようになってしまうからでしょう。そう聞くと「自分には無理!」と思われるかもしれませんが、これは逆に言えば、「理解は自分自身で声に出して読むことから」ということでもあるのです。準備で何よりもまず大切なのは、声に出してゆっくり読むこと、何度でも繰り返し読むことです。

聖書の朗読は、祈ることに他なりません。祈りなのですから、それは他の人と優劣がつくようなことではありません。何か客観的な基準に照らして合否がつくようなことでもありません。そして、祈りであればこそ、必ずその朗読者を通してこそ伝わるものがあるのですから、「上手な人」がすればよいというものでもありません。足りないことは神さまが補ってくださることを信頼し、誠心誠意奉仕すればよいのです。

more

礼拝覚書(20) 朗読(1)

By Michinori ManoNo Comments 8 9月

「キリストは、常にご自分の教会と共におられ、…ご自身のことばのうちに現存しておられる。それは、聖書が教会で朗読される時、キリスト自身が語られるからである。」(第2バチカン公会議『典礼憲章』7条)

「朗読者は、会衆席の最前列の聖書朗読台になるべく近いところに座るようにしましょう。司祭が“聖書のみ言葉を聞きましょう”と唱えてから、後方の座席から出てくることのないようにしましょう。」(『礼拝と奉仕』桑山隆, 聖公会出版, 2002)

「正式の典礼朗読は、神が朗読者を通して語られる言葉を、その時、新たに聴くことですから、同時に文字を目で追って見るというようなことは、難聴などの補助手段として必要な場合を除いて、なるべく避けるようにします。そのためには、朗読者ばかりでなく参加者一同も、その日の箇所を前もって読んでくることが必要なのです。…

「聖書の本文は、句読点通り正確に区切って、流暢に、しかし意味が正しく、はっきり聴き取れるよう、適切な間を置き、だれもが、どんな心境の時にでも受け入れやすい、客観性のある読み方をすることが大切です。

「従来、ラテン語でrecto tonoという西洋の朗読法の影響もあって、抑揚を全くつけないで棒読みすることが客観的な朗読であるかのような朗読法が、神学校をはじめ、一部に行われていました。しかし、日本語のアクセントは音の高低による要素が大きいので、棒読みにすることは日本語の特徴を無視することになり、ことばを本当に活かした朗読にはなりません。

「また反対に、抑揚を付けすぎたり、感情を込めすぎたり、時には声色を変えたりして芝居がかった演出をすることも、典礼にふさわしいとは言えません。主観に流されることのないように、抑揚をつけることはやや控えめにしながらも、落ち着いて冷静な態度で聖書の客観的な表現にふさわしい読み方をするためには、まず自分自身が内容をよく、正しく理解して、確信をもって読むことが必要です。

「聖書朗読は、正に神の“ことば”と“わざ”の告知であり、その“あかし”としての信仰告白ですから、いつも客観性が要求されているのです。」(『ミサがわかる』土屋吉正, オリエンス研究所, 1989)

more

礼拝覚書(19) 礼(3)

By Michinori ManoNo Comments 29 8月

○ 跪拝(ジェヌフレクション)

深いお辞儀は、跪拝に替えて、腰から上体を曲げるお辞儀が一般的になっていますが、跪拝(ジェヌフレクション)には固有の象徴的な意味があります。ジェヌフレクションは「膝を曲げる」ことを意味します。「あなたの言葉はつまずく者を起こし、弱った膝に力を与えた」(ヨブ記4:4)という表現に見られるように、「膝」はその人の力を象徴します。膝を曲げることは、相手に対して自分の力はむなしいことを認め、自分の力を差し出すことを表します。そういう象徴的動作として、跪拝は、服従、敬意、崇拝を表し、謙遜に仕えることを示すのです。

「それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神が崇められるためです。」(フィリピの信徒への手紙 2:10-11)

○ 平伏(プロストレーション)

聖ベネディクトの戒律に「地面に全身を伏して、来客のうちにキリストを迎えまた礼拝しなければなりません」とあることを前回紹介しました。この地面に全身を伏す、最も深い礼の形がプロストレーションです。仏教の五体投地に似ていますが、手は横に広げて十字架をつくる形、あるいは額の下に重ねる形を取ります。

聖公会では聖職按手式の時に志願者がこの形を取ります。修道院には請願を立てる者を床に伏せさせ、埋葬布をかけて葬送の祈りを唱え、世に死んでキリストの命に入ることを表す伝統があります。プロストレーションは、深く神を畏れ敬う礼拝の姿勢であり、また世に死ぬこと、自分に死ぬことを象徴するのです。聖金曜日の礼拝で行う伝統もあります。

○ 口づけ

聖職は、祭壇に近づくとき、祭壇から離れるときに、祭壇に口づけをします。また福音の朗読後、福音書に口づけします。聖なる場所の入口や聖なるものに口づけをする慣習はキリスト教以前から広く行われていたもので、4世紀末までに教会で取り入れられました。

世に命を与えるために自らをささげられたキリストへの愛を表現する行為ですが、石でできた祭壇への口づけは「隅の親石」であるキリストを崇めるという意味合いもありました。祭壇に殉教者の聖遺物が収められるようになって、殉教者の崇敬も意味するようになり、さらにそこから天の勝利した教会の崇敬も意味していました。

more

礼拝覚書(18) 礼(2)

By Michinori ManoNo Comments 25 8月

現在、聖公会で行われている<礼>の動作は主に2つで、(1) 頭だけ軽くさげるお辞儀、(2) 腰から上体を曲げるお辞儀、があります。

(1) 頭だけ軽くさげるお辞儀:手を合わせ、上体はそのままにして軽く頭を下げる礼です。聖堂の中央を横切る時、イエスの名を口にする時、「栄光は父と子と聖霊に」と唱える時、また互いに対して、この礼をします。

(2) 腰から上体を曲げるお辞儀:手を合わせ、上体を45度ほど曲げてする礼です。跪拝(ジェヌフレクション)がそのより伝統的な形です。跪拝は背を伸ばしたまま右ひざを床につくまで曲げます。受肉されたキリストに対して(信経のその部分を唱える時)、サクラメントに臨在されるキリストに対して(陪餐のため中央の通路に出た時、祭壇の上に置かれたご聖体に向かって)、聖堂に入るとき、出るときに祭壇に向かって行います。(本以外の)何かを手に持っている時には、あたまをさげるお辞儀に替えます。

ユダヤ教やイスラム教では神以外に対するお辞儀は禁止されています。人間に向かってはお辞儀をしません。キリスト教でも根本における理解は同じでしょう。しかし、神の受肉、聖霊の働きを信じるゆえに、互いの中にもおられる神に対してお辞儀をするのです。それは、西方キリスト教の修道院の基礎となった聖ベネディクトの戒律(540年)で教えられている通りです。

「修道院を訪ねてくる来客はすべて、キリストとして迎え入れなければなりません。…そこで来客の報せをうけたならば、長上と修友たちは、愛の要求するすべての礼を尽くして、その者を迎え入れなければなりません。まず一緒に祈り、こうして平和のうちに挨拶を交わします。…挨拶をするにあたって、訪ねて来る者あるいは辞去する者すべてに対して、心から謙遜な態度を示します。すなわち、頭を垂れ、あるいは地面に全身を伏して、来客のうちにキリストを迎えまた礼拝しなければなりません。」(53:1-7)

ちなみに、日本で一般に行われているお辞儀は、南アジアから仏教と共に伝えられ、それが日常の暮らしにも入ったという説と、飛鳥時代から奈良時代に中国の礼法を取り入れたという説があります。前者であれば、人に対するお辞儀は、すべての人が持つ仏の心に対する敬意から、ということになるでしょうか。後者であれば、自分の首を相手に差し出して、自分が相手に対して無抵抗であることを表現したことが由来ということになります。ただし、中国ではお辞儀という動作は一般的ではないということです。

more

礼拝覚書(17) 礼(1)

By Michinori ManoNo Comments 31 7月

伝統的キリスト教が保っている所作の内、プロテスタント的感覚で見て最も違和感を持たれるのが「礼」かもしれません(十字を切ることもかもしれませんが、おそらくそれ以上に)。宗教改革で排除しようとした偶像崇拝的なものをそこに見てしまうからです。東方教会の信者がイコン等に口づけしているのを見ると「信仰の対象が違うのではないか」と思ってしまうのです。

19世紀半ばに聖公会を含む宗教改革を経験した教会の信者が、パレスチナに「巡礼」でなく「旅行」をするようになった時、かれらは一様に伝統的な巡礼者たちの様子を見て嫌悪感を抱きました。そのような「野蛮」な慣習は払拭され、「文明」化されるべきだと考えました。東方に対するそのような見方が「イスラエル建国」を支持するひとつの基礎になり、また現在もイスラム教に対する嫌悪に引き継がれています。

これはおそらく宗教改革以前から始まっていた変化、アレクサンドル・シュメーマンが西方教会を批判して言うように、「全宇宙を包含する教会全体の行為が、予約しておいた日時に教会の片隅で執行される個人的な儀式へと変わってしまった」結果であろうと思います。(『世のいのちのために』, アレクサンドル・シュメーマン)

「今日、あなたはわたしを土地の面(パニーム)から追放した。そして、わたしはあなたの顔(パニーム)から隠される」(創世記4:14)というカインの言葉が示すように、この世界は「神との交わり」として、神の存在を経験する手段として、与えられていたにもかかわらず、きょうだい殺しの罪を犯した結果、この世界は逆に「それ自体が目的とされるもの」、偶像崇拜の対象に堕落してしまいました。

しかし、キリストの十字架の死と復活の内にいのちは再び神との全き交わりへと回復されたのです。キリストヘの信仰において「世界はそのとき真にキリストの存在の機密(サクラメント)、神の国と永遠のいのちの成長の場になります。…世界は死ではなく、その真の理解とともに再びかれのいのちとなります。喜びと人間性の真の力が取り戻されます。」(シュメーマン)

口づけをしたり、お辞儀したりするのは、この信仰において、神との交わりを与えるものとして、敬意を表しているということなのです。死となった世界にひれ伏しているのではなく、それからの離脱(キリストと共に死ぬこと)を前提に、与えられた新しいいのちへの感謝、喜びからそうしているのです。それはシスター・ジョアンが指摘するように、西方教会でも元来は持っていた理解、現在でも辛うじてかもしれませんが保たれているはずの理解です。

「多くの修道院では、祈りをささげるためにチャペルに入る際、祭壇に向かっておじぎをした後、共に行列で歩くシスターの方を向いておじぎをする慣習があります。そのような修道院の慣習の意味は明らかです。神は、チャペルにおられ、祭壇上におられるのと同様に、自分たちを取り巻く世界におられ、互いの中におられる、ということです。神は人生の内実です。わたしたちの魂そのものの息です。神は、いのちを、そのあらゆる形において、より深く理解するように求めておられます。」(ジョアン・チティスター)

more

礼拝覚書(16) 十字を切る (3)

By Michinori ManoNo Comments 31 7月


十字をしるす時、「父と子と聖霊のみ名によって」と唱えます。この「十字の祈り」は、心で唱えることも、声に出して唱えることもあります。

左手を軽く開いて胸の少し下に置き、軽く開いた右手の中指を額に当てて「父と」唱え、そこから胸の下までおろして「子と」唱え、その手を左肩から右肩にひくときに「聖霊のみ名によって」と唱え、両手を胸の前に合わせて「アーメン」と唱えます

※ 最後に、手を胸に持って行く形、指先を唇に持って行く形もあります。早く小さく手を動かすのでなく、ゆっくり大きく手を動かすようにします。

この十字のしるしと祈りは、聖堂の出入りのときに、礼拝の始まりと終わり、及び前回書いたような箇所で、また、日常生活の中で、祈りをささげる前後に(特に自分の言葉で祈るとき)、起床就寝時、食事のとき、家を出るとき、そして生涯最後のときに唱えられてきました。

「一歩毎に。一動作毎に。入る時、出る時。服を着る時、靴を履く時。入浴の時。食卓につく時。明かりをつける時。横になる時、座る時。日々のすべての行動で、わたしたちは額に十字をしるす」とまで、テルトゥリアヌス(c.200)は述べています。

晴佐久昌英神父は著書『十字を切る』(女子パウロ会, 2012)で、次のように書かれています。

「十字の祈りは、ひと言で言えば神と人を結ぶ祈りです。正確に言うと、神と人がすでに愛の内に結ばれていることに目覚める祈りです。…十字の祈りは、天と地を結ぶ祈りです。すなわち、永遠なる“天の救い”に目覚めて、この世にありながら天を生きるという“地の救い”をもたらす祈りです。」

「<み名によって>は、<その中に入る>とか<一つに交わる>という意味です。つまり、十字を切るとは、<神の愛の中に入る><神の愛と一つに交わる>ということです。正確に言うなら、十字を切って、<わたしは今、神の愛の中にいる><わたしは神と一つある>ことを受け入れ、信じ、救われます。人間にとって、神の愛の中に入り神と一つに交わることこそ生きる目的ですから、十字を切ること自体がすでに救いなのです。」

「あたかもさまざまな祈りの初めと終わりに付け加える決まり文句程度に思われがちですが、実はこの祈り自体が祈りの一つの完成形であり、至高の祈りなので、これだけでも十分な祈りです。教会の大切な典礼や、人生の重要な局面で必ず十字が切られるのは、そのためです。十字の祈りは、普遍的で本質的、完全な祈りなのです。」

more

礼拝覚書(15) 十字を切る (2)

By Michinori ManoNo Comments 23 7月

『公会の慣習とシンボル』(聖ヨハネ修士会, 1962)は次のように教えます。

「聖堂の入口に聖水が置いてある教会もあります。その時には右指先を聖水に浸して、自分自身に十字架の形をしるし、“主よ、ヒソプをもて我を清めたまえ、さらば我きよくならん。我を洗いたまえ、さらばわれ雪よりもしろくならん”(詩51:7)と唱えます。

横浜教区でも主教座聖堂には聖水が置いてあります。“我を洗いたまえ”は、ゴスペル”Oh Happy Day”で歌う言葉ですね。十字をしるすことは、前回書いたように、洗礼を記念する行為なのです。

「そして祭壇に礼をし、自分の席を見つけて、ひざまずき、十字架の形をわが身にしるして静かに祈ります。それは、自分が主の十字架によって贖われたこと、日々十字架を負って主に従うべきこと、“キリストの十字架を恥とせず、生涯キリストのしもべとなり、また忠義なる兵卒となり、その旗もとにありて、勇ましく罪と世と悪魔に向かいて戦う”ことを表します。

「礼拝中に十字架のしるしをするのは、(1)礼拝の始め、(2)大栄光の頌の終り、(3)ニケア信経の終り(“..来世の命を待ち望みます..”)、(4)赦罪のとき(“..すべての罪を赦し..”)、(5)聖餐のパンとぶどう酒を受けるとき、(6)祝祷のとき(“..父と子と聖霊なる全能の神の恵みが..”)、(7)礼拝後の感謝の祈りが終わったとき。聖餐式で福音を聞く時には、右手の親指で、額と口と胸に小さな十字架をしるします。それは福音を聞いて理解し、人に宣べ伝え、心におさめることを表します。

なお他に、(8)「聖なるかな」(サンクトゥス)に続く「ほめたたえよ」(ベネディクトス)を唱えるとき、(9)感謝聖別の祈りにおけるパンとぶどう酒の奉挙のときにも、よく行われています。

ただし、米国聖公会でよく参照されているルブリック解説書(”Prayer Book Rubrics EXPANDED”, 1979)は、上記の内、(2)についてはそこで十字をしるす根拠が不明である、 (8)についてはおそらく誤解から始まったものである、と注意を促しています。

朝夕の礼拝では、(1)礼拝のはじめ、“主よ、わたしたちの口を開いてください”のとき、右手の親指で口の上に小さな十字をしるす、(2)使徒信経のとき(“..永遠の命を信じます..”)、(3)礼拝の結び、“主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり..”のとき、しるします。

司祭が人やモノに向かって十字を切るのは、祝福する時、献げる時、罪の赦しを祈る時ですが、手をおく形に比べて新しい形です。ちなみに、聖別で十字を3回切る(父・子・聖霊)、5回切る(キリストの傷の数)、33回切る(イエスの地上の生涯の年数)等の慣習がありますが、神学的裏付けはなく、典礼を不可解なものにするので、現在は推奨されていません。所作は複雑なほど「ちゃんとしている」感じ、「ありがたい」感じを与えることがありますが、そういう満足が追求されれば、典礼の意味が見えなくなったり、歪めて理解されたりしかねません。初代教会の典礼はシンプルなものでした。その回復に努めてきたのが聖公会の伝統です。

more

礼拝覚書(14) 十字を切る (1)

By Michinori ManoNo Comments 23 7月

十字架は、言葉としては、すでにペテロやパウロが象徴的に用いていますが(使徒言行録2:36, Ⅰコリ1:23, ガラ6:14)、所作としては、3世紀までには、悪の力と闘うために、額に十字のしるしを刻むようになっていました。迫害下の古代教会で、自らの苦難とイエスの十字架を重ね、救いを求めて行われるようになったのでしょう。

礼拝覚書(9)で紹介した聖ヒッポリュトスの『使徒伝承』(紀元215年頃)には、洗礼式の結びに「額にしるしをする」(十字を記す)ことが記されています。聖公会の洗礼式では、この時、司式者は次のように言います。「これはキリストのしるし、あなたが神の民に加えられ、永遠にキリストのものとなり、主の忠実な僕として、罪とこの世の悪の力に向かって戦うことを表します。」そして、会衆一同が「アーメン」と唱えます。教父テルトゥリアヌス(紀元200年頃、カルタゴ)は、「われわれキリスト者は額を十字のしるしで磨り減らしている」と書き残しています。

十字のしるしは、代々のキリスト者が、信仰生活の始まりに受け、自分がキリスト者として生きる者であることを自分に思い起こさせるしるしとして自らに記してきたものなのです。

その意味で、聖餐式では特にニケア信経の結びに十字を切るのは望ましいことでしょう。

教父ヨハネス・クリュソストモス(4世紀)は次のように教えました。「家を出る時には、こう言いなさい。『サタンよ、わたしはおまえに仕えることを放棄する。キリストよ、わたしはあなたと共にいます。』この言葉を口にしないでは、決して外出しないように。そしてこの言葉と一緒に、額の上に十字を刻印しなさい。」

現在のように、額からみぞおちへ、そして左肩から右肩へ、(掌を開いた右手の)中指で十字を切る形は4世紀頃には行われるようになっていましたが、詳しい由来は分かりません。※ 東方では、右手の親指、人差指、中指の三本を合わせて(聖公会でも見られます)、あるいは人差し指と中指の二本で、十字の横棒は右肩から左肩へ書きます。また最後に、王なるキリストが世界の王であることを表して地面に触れます。

額に十字をしるす形は、今も灰の水曜日や塗油の式に残っています。これらでは、古代教会の人々が額に十字をしるしたのと同じ意味がはっきりと保存されています。

more

礼拝覚書(13) ロウソク(2)

By Michinori ManoNo Comments 12 7月

※ 甲府聖オーガスチン教会週報コラム(礼拝覚書(6)の続き)

み言葉の礼拝の時、祭壇のロウソクは点すのでしょうか、点さないのでしょうか。

聖公会では、宗教改革後、礼拝でロウソクを点さなくなっていましたが、19世紀に再びロウソクが用いられるようになりました。その際に、聖餐式の時には祭壇に2本のロウソク(Eucharistic Candle)を点し、朝夕の礼拝等では6本のロウソク(Office Lights)を点す、という区別が生じました。

しかし、そのような区別はそれ以前には知られていなかったことで、またロウソクを使うこと自体が慣習に属し、ルブリックで指示されていることではありませんから、どうするのが正しいということはありません(※ 礼拝覚書(6)参照)。

現在も、聖餐式の時は祭壇にロウソクを点し、朝夕の礼拝やみことばの礼拝ではロウソクを置かない、点さないという形で区別を残している教会がありますが、そのような伝統が一貫して存在するわけではありませんので、現在は聖餐式かどうかの区別なく特別な時以外は2本のロウソクを点すことが推奨されています。

 

more

礼拝覚書(12) 祈る時の手の形

By Michinori ManoNo Comments 9 7月

所作を代表するのが、祈る時の手の形でしょう。

日本聖公会では、(立ち、あるいは跪き)、両手の指を真直ぐに伸ばしたまま手のひらを合わせ、親指をX印の形に重ね、胸のあたりに軽くあてる形が、標準的です。これはすべての物事から手を離し、ひたすら神に向かうことを表しています。

プロテスタント教会では、(跪き)、両手を折り重ねる形がよく取られます。これは西欧の封建時代、家臣が領主に忠誠を表す時に取った手の形に由来すると言われます。この形をつくって領主の手の中に置いて、忠誠が誓われていました。
聖書時代からの形は、(立ち)、手をのばし、手のひらを上に向ける形です。神が与えてくださるものを受ける形です。聖公会では、司式者が会衆のために、あるいは会衆を代表して祈る時に、この形が取られています。「わたしが望むのは、男は怒らず争わず、”清い手を上げて”どこででも祈ることです。」(テモテへの手紙Ⅰ2:8)

イスラム教では、この古代からの形が保たれています。福音派では、この形が回復され、賛美、祈りの時に会衆が取る標準的な形になってきているようです(神さまのハグを求め、受ける形と表現されています)。聖公会やローマカトリックでも、主の祈りを唱える時にこの形を取ることを会衆に勧める教会が増えているようです。

司祭が、人やモノに、手を置く、あるいは手をかざすのは、祝福のため、献げるため、あるいは罪の赦しのために、聖霊が働いてくださることを祈る時です。
司祭が、胸の前に合わせている手を開くのは、招きのしるしです。

more

礼拝覚書(11) ルブリックにない会衆の所作

By Michinori ManoNo Comments 26 6月

教会の大切な伝統のすべてが祈祷書に記されているわけではありません。慣習はルブリックに書かれていなくても、どうでもよい、意味がない、ということを意味しません。また、明示的に禁じられているのでなければ、禁じられているわけではありません。

所作は、各人の信心の表現であり、各教会で育まれる文化であるので、ルブリック(礼拝細字規定)として細かく指示されていないのです。所作は敬虔を表現するだけに、しないことが不敬虔なことであるかのように感じられることになってリタジーを歪めることにもなりかねないので、その感情を過剰に強調しないように、ということもあるでしょう。

例えば、ご聖体を噛んではいけない、歯を立ててはいけない、と言われることがあります。イエスさまが「わたしの肉に齧りつけ(トローゴー)」(ヨハネ6:54)と言われたのにも関わらずそう言われることがあるのは、ひざまずく姿勢が取られるのと同じく、ご聖体への「恐れ多さ」が強調される結果です。古代教会では、恐れ多さの強調のあまりに、聖餐式は「戦慄の食卓」等とも呼ばれ、聖餐式の回数まで減ることになってしまいました。しかし、そもそも聖餐式は、主の喜びにあずかる式です。「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるため」と言われ、自らを与えてくださったイエス・キリストの御体にあずかるのです。恐れ多さを覚えるのは当然だとしても、そのあまりに喜びを感じられないとしたら、それどころか間違いを起こしてはならない、といった意識に囚われるのなら、何の式だか分からないことになってしまいます。

では、所作はどうして大切なのでしょうか。パウロは、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と言いました(ローマの信徒への手紙10:9)。心で信じているから言い表す必要はない、ということはないのです。わたしたちの信仰は、わたしたちを世に派遣する信仰です。だから、わたしたちは、口で、身体で、言い表すのです。

「『身体とは、親なる神の愛と子なる人の魂がふれあう場所である』という言い方も可能かもしれません。人はその身体で神の愛を受け止め、その身体で神に賛美と感謝をささげているということです。」(『十字を切る』晴佐久昌英, 女子パウロ会)

※ プロテスタントは所作を迷信的な行為と見るような感覚を持つに至っていますが、ルターは『小教理問答書』で、十字を切ることを勧めています。「朝、起きたらすぐに、聖なる十字架のしるしによって自分自身を祝福し、次のように言いましょう。『父、子、聖霊なる神さまのみ心がなされますように。アーメン』。それから、ひずまずいても立ったままでもよいですから、使徒信経を述べ、主の祈りを唱えなさい。」

more

礼拝覚書(10) ルブリックが指示する所作・姿勢

By Michinori ManoNo Comments 24 6月

キリスト教の礼拝(リタジー)は、生きたキリストの現存の祝祭です。同時に、キリストによって新しくされた生の在り方を<しるし>として表すものです。このことに、礼拝でとる所作・姿勢の必然と意味があります。それは霊的な姿勢として、またしるしとして意味があるのであって、身体的な動作自体に意味があるのではありません。

所作・姿勢には、祈祷書のルブリックで指示されているものと、指示されていないものがあります。

所作は次第に増え、リタジーを混乱させ、その構成・均衡・意味を歪めてしまうものです。そのため、英国教会で第一祈祷書がつくられた時(1559年)、信心を表す所作は徹底して削られ、ただし各人がそれをするのはかまわないとされました。

「立つ」「着席する」「ひざまずく」等はルブリックで指示されています。これらは、礼拝者がリタジーで取るべき姿勢です。

「立つ」:立つのが、礼拝の基本姿勢です。わたしたちはキリストと共に立たせられた者であるからです。わたしたちは聖霊を受けて、神の民としてみ前に立ち、主の祭司として主とすべての人々に仕えるのです。なお、福音書の朗読の時は、「一同立つ」に加えて「一同福音書の方を向く」と指示されていることに注意してください。わたしたちは福音を神の言葉として聞き、教会の内に受け止めるのです。

「着席する」:日課の朗読、説教を聞く時、また朗読の合間の詩篇交唱の時に着席します。立ったままでは大変だから、ということではなくて、わたしたちは耳を傾けます、ということを表現しています。なお、聖書の時代は「立つ」のが、祈り、傾聴、服従の姿勢でした。聖堂には、中世末期まで、椅子は、病気や高齢の人の席、司式者・補式者の席として置かれていただけでした。その後、西方教会では椅子が置かれるようになりますが、長椅子が置かれるようになったのは16世紀以後のことです。

「ひざまずく」:懺悔、告白の時、嘆願の時にひざまずきます。元来は奴隷が主人に対する時にした姿勢で、主である神の前に謙遜に従う表現です。なお、感謝聖別祷が唱えられる時(祈祷書172頁以後)ひざまずきますが、それは中世半ば以後に広まった信心表現の名残りで、本来は立つのがふさわしいのです。英国教会でもローマ・カトリックでも既に改められています。

more

礼拝覚書(9) ルブリック(礼拝細字規定)

By Michinori ManoNo Comments 16 6月

聖ヒッポリュトスは紀元215年頃に『使徒伝承』を著しました。彼は、「よく教えを受けた者が、わたしたちの説明に耳を傾け、現在まで受け継がれてきた伝承を守り、理解し、確信が持てるようにするために、わたしたちは教会の認める伝承の真髄に、諸聖徒への愛に促されて触れていこう」と述べて、礼拝の心得、組織、所作、祈りの言葉を記しています。

わたしたちの用いている祈祷書は、いわばその『使徒伝承』の系譜を引くもので、単なる礼拝式文集ではなく、教会の在り方を教えるものです。『使徒伝承』には、祈祷文の他に、例えば、「教えを受けるために、連れてこられた人の携わっている仕事と職業について調べられる。…権力のもとにある兵士は人を殺してはならない。人を殺すように命令されても実行してはならないし、誓ってもならない。もし、これを望まないなら、退けられる」というように、具体的な指示が記されています。このような指示は後に赤インクで筆写あるいは印刷されるようになって、ルブリックと呼ばれるようになりました。日本語では「礼拝細字規定」と呼びます(カトリックではルブリカ=典礼注記)。わたしたちの祈祷書では、それは小文字で記されています。

「私たちが、ルブリックに従い、教会の伝統的な作法や慣行によって、共に礼拝する事により、祈祷書は、ただ一冊の書物であることから、私たちの教会の、生きた礼拝の書となります。」(『信徒ハンドブック』, 日本聖公会教務院編, 1968)

各式の冒頭に置かれたルブリックには、その式の意味や心得が記されています。朝夕の礼拝(p.18)、嘆願(p.98)、聖餐式(p.159-161)、教会問答(p.258)、入信の式(p.268)、個人懺悔(p.298)、聖婚式(p.300)、誕生感謝の祈り(p.317)、病人訪問の式(p.323)、葬送の式(p.346)等で記されていることは、信徒に向けて書かれていることですから、読んでおくようにしましょう。ルブリックだけでなく、折にふれ、本文を読むことも大切なことです。

「歌いまたは唱える」等、具体的な指示を内容とする式中のルブリックは、改めて目に留める必要を感じないかもしれません。しかし、礼拝は決まった形を繰り返せばよいというものではありません。それが生きた祈りとなるように、その教会の現実の中で常に新たに解釈され、実践されなければならないものです。それは司祭の仕事だと思われるかもしれませんが、司祭は会衆の理解がなければ変えられないものです。ルブリックの部分にも関心を持ってくださればと思います。

more

礼拝覚書(8) 礼拝の「決まりごと」

By Michinori ManoNo Comments 9 6月

祈祷書は、ひとりひとりの信仰生活にとって大切なものである、というだけでなく、共同体の礼拝を整えるための定めが記されている書でもあります。

英国で最初の祈祷書が作られた時、同一国内では同一の祈祷書を用いるべきであり、「儀式の中のあるものを取捨選択すること自体は小事に過ぎないが、教会の共同の秩序規律を正当な手続き、権威によらずに個人が勝手に変えるのは神の前に大きな違反である」とされました。祈祷書は、国王と国会によって承認され、礼拝統一法によって、その使用が義務づけられました。

礼拝は、唱える言葉だけでなく、聖堂の作りや装飾、聖職や信徒の所作、祭具やその用い方等々、様々な要素から成っています。その中で何か「違う!」と思わされることがあると、思いがけず深刻な紛争になることがあります。そういう時は、そもそも何が定められていることなのか、何が慣習に属することなのか、ということをわきまえる必要があります。

礼拝についての定めは、祈祷書に記されていることが全てです。聖公会手帳、カレンダー、教会歴・日課表など、便宜のために広く参照されているものがありますが、それらに書かれていることは必ずしも「定められていること」ではありません。

例えば、祭色は、手帳やカレンダーに書かれていますが、祈祷書では定められていません。祭色は礼拝の意向によって決まります。礼拝の意向は祈祷書の定める教会暦・日課表でほぼ決まりますので、実際には使われる祭色がそんなにばらつくことはありませんが、選択が分かれうる日もあります。例えば顕現節は、日本聖公会では、慣習的に、顕現日までは白、その後は緑、ただし顕現後第1主日・主イエス洗礼の日と被献日は白ということになっていますが、英国教会では、そのようにしている教会もあれば、伝統に従って被献日まではずっと白を使う教会もある、というように、必ずしも統一されていません。

ロウソク、鐘、花、祭服、香、聖水の使用についても、日本聖公会の祈祷書では定められていません。何か別の書物に礼拝に関する決まり事が書かれているということはありません(組織・運営については『日本聖公会法憲法規』で定められています)。これらは、すべて慣習に属することです。慣習は、多様性があって、それぞれに意味、歴史があるものですが、どれが正しいということは言えないものです。そのような事柄について意見が分かれた時には、そもそも祈祷書が作られた目的のひとつは、宗教的対立に解決を与えるためであった、ということを思い起こす必要があります。祈祷書で定められていないこと、慣習に属することについて、自分の正しさを主張することは、聖公会の精神に反するのです。

慣習に属することについては、その教会の司祭が、信徒が慣れ親しんできた形を踏まえつつ、礼拝の意向、典礼の神学等を踏まえて決定すべきことです。

more
« Older Entries